第8話 トリアド
第8話 トリアド
リディアが試験編成を告げられる、数週間前。
解析部署の照明は、医療区画より少し暗かった。
暗い、というより、余計な明るさを落としている。壁面には複数の表示層が重なり、作戦経路、損耗推移、通信遮断履歴、敵性反応分布が、無音で更新され続けていた。
ユイは、その中央に座っていた。
端末の前には、古い作戦ログが開かれている。
《第IX世代実戦投入試験》
《作戦目標:未達成》
《部隊損耗:全損》
《帰還個体数:1》
帰還個体数。
個体。
その言葉を、ユイは数秒見ていた。
間違いではないのだろう。
プロクシスは、軍務上は個体として扱われる。生体反応も、装備も、損耗も、帰還も、数値で処理される。
だから、帰還個体数。
たぶん正しい。
正しいことと、納得できることは同じではない。
「またそのログ?」
隣の席から声がした。
主任解析員だった。
正式な肩書きは長い。本人も「主任でいい」と言ったので、ユイはそうしている。
主任は年上で、正式権限もユイより上にある。だが、数値を見ている時は、ユイを子ども扱いしなかった。
「はい」
ユイは答えた。
「気になる?」
「気になります」
「評価は閉じてる。未達成、全損、帰還1。あの頃の地球降下作戦としては、珍しい結果じゃない」
「珍しくないんですか」
「残念ながらね」
主任は、苦いものを飲み込むような顔をした。
「当時の地球圏は、こちらの想定よりずっとひどい。アラミタマ残存防衛群は、単純な迎撃兵器じゃなかった。あれは戦場そのものを組み替える」
ユイは端末の表示を拡大した。
降下地点。
目標地点。
接敵範囲。
帰還予定経路。
実際の帰還経路。
予定された線は三本あった。
機能した線は一本もない。
最後に残っているのは、帰還個体数・1という結果だけだった。
「これ、リディアの作戦記録ですよね」
「正確には、リディアを含む第IX世代実戦投入試験の記録」
「でも、評価欄にはリディア個体の注記が多い」
「唯一の帰還個体だからね」
主任は端末を操作し、評価欄を開いた。
《L-IX:高出力近接戦闘適性》
《単独戦闘継続能力:極めて高》
《部隊帰還率:極低》
《随伴個体損耗率:極高》
ユイは、最後の二行で目を止めた。
「この書き方、変です」
「どこが?」
「部隊帰還率と随伴個体損耗率が、リディア個体の評価項目みたいに並んでる」
「隊長個体だからね」
「でも、ログを見る限り、リディアが部隊を殺したわけじゃありません」
主任は、少しだけ目を細めた。
続きを促す顔だった。
ユイは表示を切り替えた。
リディアの戦闘軌道。
他プロクシスの隊列。
アラミタマ群の再配置。
通信遮断。
帰還経路消失。
それらを重ねる。
「リディアが速すぎた、って処理されています」
「実際、速すぎる」
「違います」
ユイは即答した。
声が少し強くなった。
「リディアが速すぎたこと自体は事実です。でも、問題はそこじゃありません。高出力個体を先頭に置いているのに、部隊全体の構造がその速度にも、敵の分断にも、帰還経路の喪失にも対応していない」
ユイは三つの層を表示した。
一つ目。
リディアの突破線。
二つ目。
プロクシス部隊の展開線。
三つ目。
アラミタマ群の再配置線。
線は最初だけ揃い、すぐに裂ける。
「ここで部隊が伸びています。リディアが前に出たからじゃない。敵が伸びるように誘導している。重い個体が進路を絞って、通信を乱されて、後列を削られる。これ、部隊を分断するための配置です」
「よく見てる」
「見れば分かります」
「見ても分からない人間も多いよ」
主任の視線はユイに向いた。
「客員扱いなのがもったいないね」
「その上に聞かれたら大変ですよ」
「聞かれないタイミングを分かって言ってるから、私は主任なの」
ユイは少し感心した。
「主任って、そういう判断も含むんですね」
「含む。かなり大事」
主任は軽く言って、それから端末へ視線を戻した。
「続けて」
ユイは頷いた。
「従来の小隊運用だと、誰が帰還経路を維持するかが戦闘中に揺れます。誰が防護に回るかも、その場の判断です。通信が遅れた瞬間に、判断が個体ごとに分かれる」
「それが普通の部隊運用だ」
「普通だから、帰れないんだと思います」
主任は黙った。
ユイは、自分の言葉が強いことを理解していた。
だが、ここで弱めると意味が変わる。
「プロクシスは、勝つために投入されています。でも、帰るための単位として設計されていません」
端末の中で、帰還予定経路が赤く閉じる。
「失敗理由が、敵性反応過多だけで処理されています。違います。作戦単位が、帰還不能になる形で組まれています」
「それで?」
「高出力個体を単独で走らせるのでも、大きな部隊をまとめて押し込むのでもなく、最小単位を固定するべきです」
ユイは新しい図を出した。
三つの点。
一つは前方。
残る二つは後方左右。
リディア個体のための図ではない。
高出力先導個体を含む、プロクシス運用全体のための図。
「三体セル」
主任が言った。
「はい」
「役割は」
「突破。防護。通信および退避判断支援」
「既存小隊と何が違う?」
「目的です」
ユイは言った。
「既存小隊は、任務成功率を上げるために組まれています。でも、この編成は違います。作戦完遂率と帰還率を同時に上げるために組みます」
主任は、椅子の背にもたれた。
「かなり大きく言ったね」
「大きいですか」
「大きい。プロクシス運用の考え方を変えろ、と言ってる」
「はい」
「自覚してる?」
「少し」
「少しなんだ」
「全部自覚すると、たぶん出せなくなるので」
主任は短く笑った。
「それは分かる」
ユイは表示へ視線を戻した。
そこには、帰還個体数・1という文字がまだ残っている。
その1の中に、リディアがいる。
けれど、問題は一人の例外ではない。
帰れない兵士たちを、帰れる単位に組み直す。
ユイが見ていたのは、個体ではなく運用だった。
「提案書にするなら、感情は抜いて」
主任が言った。
「はい」
「攻撃的な表現も抜く」
「はい」
「『普通だから帰れない』も、そのまま書かない」
「……はい」
「惜しい顔しない」
「してません」
「してる」
主任は端末を一つ開いた。
「主目的は?」
「プロクシス部隊の作戦完遂率および帰還率改善」
「対象は」
「高出力先導個体を含む三体戦闘単位」
「名称欄は空ける?」
ユイは少し考えた。
三つの点。
三つの役割。
三つで一つの帰還経路を作る。
「トリアドで」
主任が眉を上げる。
「名前まで用意してたんだ」
「仮称です」
「いいと思う。通りやすいかは別だけど」
「そこは別なんですね」
「かなり別」
ユイは苦笑した。
それでも入力する。
《提案名:プロクシス三体戦闘単位試験》
《仮称:トリアド》
《主目的:作戦完遂率および帰還率改善》
《副目的:高出力先導個体運用時の分断抑制、通信維持、退避判断支援》
《適用範囲:第IX世代および高出力個体を含むプロクシス実戦運用》
リディアの名は、本文には入れなかった。
必要ない。
願いとして書けば、通らない。
作戦案として書く。
構造として書く。
帰還率として書く。
それでも、ユイの頭には、硝子の街で一歩下がったリディアの姿が残っていた。
必要な場所へは行ける。
必要じゃない場所へ行きたいと思ったことは。
未登録。
そう答えたリディア。
あれも、たぶん同じだ。
帰ることが任務条件に登録されていなければ、彼女は帰りたいとは言わない。
なら、登録するしかない。
帰ることを。
プロクシスの任務条件として。
*
提案書は、すぐに承認されなかった。
当然だった。
軍務区画の評価端末は、提案の大半を保留にした。科学庁関連項目は権限確認待ち。運用試験は追加審査。対象個体の負荷予測は再提出。
それでも、完全却下ではなかった。
しばらくして、所見欄に短い追記が入った。
《限定運用試験に回せ》
「にらめっこ、初勝利かもね」
主任が言った。
ユイは、画面から目を離さなかった。
「まだ試験に回っただけです」
「十分。数字とにらめっこして、初めて数字の方が少し折れた」
「数字って、折れるんですか」
「折れない。だからこれは、かなり珍しい」
ユイは少しだけ笑った。
署名欄には、名前があった。
ゼノ・ユル・ヴァレン少佐。
ユイはその名前を見た。
「ゼノ少佐って、誰ですか」
主任は少しだけ眉を上げた。
「面倒な現場の人」
「褒めていますか?」
「半分くらい」
「通ると思いますか」
「試験には回る。正式運用は別」
「別ばっかりですね」
「軍はだいたいそう」
主任は肩をすくめた。
「ただ、ゼノ少佐が拾ったなら、現場には出る。あの人は、机の上の綺麗な案より、泥の中で使える案を好む」
泥。
地球の地面を、ユイは知らない。
知識としては分かる。土。水を含む地面。足を取るもの。汚れるもの。
でも、記憶にはない。
リディアは、そこを歩いたのだろうか。
青い星の下で。
帰還経路を失った場所で。
ユイは、提案書の最後に視線を落とした。
《主目的:作戦完遂率および帰還率改善》
《仮称:トリアド》
勝つためだけではない。
帰るための編成。
それが、初めて正式な作戦案として記録された。
*
同じ頃、リディアは訓練棟の待機室で、試験編成の初期評価を確認していた。
アウルス、防護反応は規定内。
イオナ、通信維持は規定内。
リディア、突破行動は規定内。
連携評価、要再調整。
問題なし。
初回試験で完全同期する必要はない。再調整すればいい。
アウルスは、訓練後も黙っていた。イオナは端末の記録を見直している。二人とも、離脱はしていない。
それは、記録上の変化だった。
リディアは、自分の右手を見た。
握る。
開く。
動作確認。
問題なし。
白い待機室に、赤い警告灯はない。
降下艇の振動もない。
帰還経路消失の表示もない。
現在の環境に異常はない。
それでも、声はまだ残っている。
隊長。
帰還経路が。
リディア。
記録にはない声。
削除できない声。
リディアは、端末の試験結果を閉じた。
その画面の奥に、別の記録があることを、彼女はまだ知らない。
帰還個体数・1。
その1という数字が、別の誰かの手で、個体評価ではなく運用構造の失敗として読み替えられはじめていることを。
そして、その読み替えが、やがてプロクシスという兵士たちに、勝利ではなく帰還を与える最初の一行になることを。
第5章を読んでくださりありがとうございます。
リディアがなぜ「死神」と見られているのか。
そして、それが本当に彼女自身の罪なのか。
この章から、リディアの戦いは単なる勝利ではなく、「誰かと帰る」ことへ向かい始めます。
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