第7話 帰還個体数:1
八年前。
第IX世代が、まだ複数の識別番号だった頃。
地球の空は、揺れていた。
月の疑似大気とは違う。色は一定ではなく、雲は流れ、光はにじみ、熱が地表から立ち上がる。風は砂と灰を巻き上げ、焼けた金属の匂いを運んでいた。
リディアは、それを記録した。
空気成分。
温度。
視界不良。
風速。
地表振動。
すべて数値化できる。
だが、数値化しても、そこは月ではなかった。
降下したのは、第IX世代を含むプロクシス混成部隊だった。
白い装甲が、崩れた都市の端に並んでいる。強襲艇から吐き出された機体群は、すぐに展開し、前方の敵性反応へ向かった。
作戦目標は、アラミタマ残存防衛群の中継節点破壊。
目標地点は、旧市街中心部。
帰還予定経路は、三系統。
成功記録は、まだない。
この戦域で、プロクシス部隊は一度も作戦を成功で終えていない。
それでも、投入は続いた。
勝つために。
奪還するために。
月が、地球を取り戻すために。
敵性反応が動いた。
最初に見えたのは、青い光だった。
アラミタマ。
外宇宙由来とされる無人自立兵器群。地球に出現してから百年以上が経過した現在も、その実態の多くは謎に包まれている。ただ一つ確かなのは、地球を占有し、人類を地上から追放した存在だということだった。
瓦礫の向こうで、複数の単眼センサーが同時に開く。白灰色の球状コア。六本の脚。蜘蛛に似た機動姿勢。脚部は地形に合わせて角度を変え、崩れた壁面を歩くように越えてくる。
一体だけなら、巨大な蜘蛛に見えた。
十数体が並ぶと、瓦礫の街そのものが脚を持って動き出したようだった。
リディアは前へ出た。
一体が跳ぶ。
軌道を読む。着地点へ入らない。側面へずれ、脚部関節を断つ。
停止。
次。
二体目が地面を滑るように接近。三体目は瓦礫の上から射線を取る。四体目は倒れた機体の後方で、球状コアを切り離した。
コアが転がる。
別の個体がそれを回収する。
脚部と兵装を失ったはずの青い単眼が、別の躯体でまた開いた。
破壊では足りない。
中枢を沈黙させなければ、群れは止まらない。
リディアはコアを狙う。
外殻の継ぎ目、センサー下部、通信ポート周辺。
一体を沈黙させる。
その間に、別の場所でプロクシスが一体、倒れた。
瓦礫の高所で、砲身を伸ばした個体が青い眼を細く光らせている。
一射。
後列のプロクシスが崩れる。
二射。
通信中継を担っていた個体の肩から腕が消える。
三射目は、避けられなかった。
味方識別光が一つ消える。
リディアは高所へ向かおうとした。
その進路に、重い機体が入った。
同じ六脚。
だが、胴体が低く、装甲が厚い。正面には盾のような外殻を抱えている。青い単眼は半ば装甲の奥に沈み、刃の通る隙間が少ない。
邪魔。
リディアはそう処理した。
右脚を踏み込み、盾装甲の端へ刃を通す。
浅い。
装甲片が弾けるだけ。
重い機体が体当たりする。質量がある。リディアは半歩下がった。背後で別のプロクシスが巻き込まれ、壁面へ叩きつけられる。
反応、消失。
リディアは重い機体の下へ入った。
脚部接続部を断つ。
一脚。
二脚。
機体が傾く。
道路の舗装が割れ、砂と金属片が跳ねた。
そこへ別の六脚が三体、横から入った。
連携ではない。
群れの再配置。
アラミタマは、個体ではなく戦場を動かしている。
通信にノイズが混じる。
別の機体が、背中に皿状の器官を開いていた。青い単眼の周囲に細い光が走り、プロクシスの識別信号が乱れる。
味方位置、遅延。
敵性反応、重複。
帰還経路、更新不能。
「通信、乱れています」
「識別が――味方識別がずれている」
「隊列、維持してください」
声が重なる。
だが、誰がどこにいるのかが遅れる。
遅延は距離になる。
距離は空白になる。
空白には、アラミタマが入る。
リディアは前方を切り開いた。
動くものなら倒せる。
装甲が厚くても、関節を断てば止まる。
コアを潰せば、沈黙する。
だが、彼女が一体を沈黙させる間に、戦場の別の場所で二体のプロクシスが失われる。
アラミタマは、リディアだけを見ていない。
脚の遅い個体。
通信に処理を割かれた個体。
味方を助けるため、〇・数秒止まった個体。
そこへ、狙撃が刺さる。
地面が開いた。
小型の六脚が瓦礫の下を走っている。地表面に薄い機雷を埋め、撤退路だったはずの道を青白い爆光で閉じる。
帰還経路、第一系統、使用不能。
第二系統、通信不安定。
第三系統、敵性信号集中。
「帰還経路が」
声が入る。
ノイズで途切れる。
リディアは振り返った。
部隊の形は、もう崩れていた。
白い装甲がばらばらに散っている。重い機体が足を止め、通信を濁す個体が視界を汚し、高所の砲撃が後列を削り、別の個体が壊れたコアを回収する。
倒しても、群れは減らない。
止めても、戦場は戻らない。
リディアは目標地点を確認した。
旧市街中心部。
中継節点までは、まだ遠い。
作戦目標、未達成。
それでも、前進しなければならない。
そう命じられていた。
刃が鳴った。
警告ではない。
破断音だった。
リディアは右腕を引いた。
刀身の先端が失われている。残った刃も、根元から細かく割れていた。
出力過多。
連続衝突。
材質限界。
武装、継続使用困難。
「予備兵装を」
リディアは通信を開いた。
「補給個体、応答を」
返答はなかった。
振り返る。
補給線は、もうなかった。
後方にあるはずの白い識別光が消えている。代わりに、青い単眼がいくつも開いていた。瓦礫の影で、倒れたプロクシスの腕が動かなくなる。別の個体が引きずられ、六本脚の群れの中へ消えた。
部隊は、壊滅へ向かっていた。
リディアは折れた刀身を見た。
有効長、四割以下。
切断能力、低下。
継続戦闘、非推奨。
だが、目標地点はまだ沈黙していない。
武装損耗。
肉体損傷。
帰還可能性、低下。
それらは、作戦中止条件ではなかった。
残存出力をすべて前進に回す。
駆動限界まで、あと百二十秒。
目標到達推定、百十五秒。
間に合う。
その計算だけが残った。
リディアは前へ進んだ。
左脚の反応は遅い。
右腕の駆動は断続している。
刀身は折れている。
それでも、目標地点までは届く。
停止してもいい。
目標が沈黙すれば、作戦は継続できる。
そう処理した。
その時、ノイズの奥で声がした。
――リディア。
隊長ではない。
L-IXでもない。
その名で呼ぶ者は、戦場にはいなかった。
帰らなきゃ。
それは声ではなかった。
命令でもなかった。
作戦条件でもなかった。
それでも、リディアの足は止まった。
停止時間、〇・九秒。
長い。
敵性反応が迫る。
重い機体が前方を塞ぎ、別の個体が側面から跳ぶ。高所で砲身が光る。撤退路は、青白い爆光で閉じかけている。
リディアは折れた刀身を握り直した。
前方ではなく、帰還信号の方を向く。
作戦目標、未達成。
部隊損耗、全損に近接。
帰還可能性、極低。
それでも。
帰らなきゃ。
その言葉だけが、まだ消えなかった。
リディアは走った。
帰還経路へ向かう。
途中で狙撃を受ける。
右肩部装甲、破断。
左脚駆動、低下。
腹部外装、損傷。
エーテル共鳴値、上昇。
問題ない。
まだ動く。
背後から、青い単眼が跳んだ。
リディアは振り返らず、折れた刃だけを後ろへ流した。接触。切断不完全。だが、脚部は落ちる。コアが残る。追撃は来る。
次。
次。
次。
数が多すぎる。
部隊通信は、もうほとんど残っていなかった。
味方識別光は、消えていく。
一つ。
また一つ。
白い都市の演習場とは違う。
ここでは、停止した個体は立ち上がらない。
救助指示も、再起動信号も、戻ってこない。
最後の帰還艇は、半壊していた。
外装が焼け、片側の姿勢制御翼が折れている。発進可能とは言いにくい。だが、まだ信号を出している。
リディアはそこへたどり着いた。
左脚は正常に接地していない。
右腕は、折れた刀身を握ったまま駆動が断続している。
胸郭の内側に、損傷警告。
視界の片側が白く焼けている。
痛覚反応、過大。
神経過負荷。
エーテル共鳴値、異常上昇。
戦闘継続、困難。
生命維持、継続。
問題なし。
そう処理した。
帰還艇の入口で、彼女は振り返った。
誰もいなかった。
アラミタマの青い単眼だけが、瓦礫の向こうで開いている。
隊長。
帰還経路が。
リディア。
声が重なる。
リディアは答えなかった。
答える相手は、もう記録上に残っていない。
*
帰還艇の内部は白かった。
赤い警告灯は消えている。
通信ノイズも薄い。
重力補正は不安定だが、生命維持区画はまだ稼働している。
帰還処理が始まる。
《作戦目標:未達成》
《部隊損耗:全損》
《帰還個体数:1》
表示は短かった。
リディアは座席に固定されていた。
固定されていなければ、姿勢を保てなかった。
左脚は、膝下の反応が途切れている。
右肩から先は動くが、駆動信号が断続している。
腹部装甲は失われ、内部の再生処理が勝手に始まっていた。白い繊維状の組織が損傷箇所を塞ごうとしている。修復ではない。停止を遅らせる処置に近い。
神経過負荷。
肉体損傷、多数。
エーテル共鳴値、異常上昇。
通常プロクシスなら、不可逆損傷。
リディアは、まだ停止していない。
帰還個体数、1。
その一個体が、彼女だった。
任務は成功していない。
部隊は帰らない。
目標も沈黙していない。
それでも、リディアだけが戻っている。
なぜ。
その問いは、まだ言葉にならなかった。
プロクシスに、問いは必要ない。
必要なのは、次の命令に応答すること。
リディアは、音声記録を検索した。
該当なし。
通信ログを検索した。
断絶。
味方識別記録を検索した。
損耗。
帰還者欄を確認した。
1。
すべて、正しい。
正しいなら、閉じればいい。
だが、声だけが残っている。
隊長。
帰還経路が。
リディア。
最後の音だけが、どの記録にもなかった。
リディアは目を閉じなかった。
閉じる必要がない。
ただ、白い帰還艇の中で、消えない声を聞いていた。
読んでいただき、ありがとうございます。
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