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その果てに、月は神を観る 〜記憶を失った青年と兵器少女は、滅びた地球の真実へ降りる〜  作者: 大導ユウ
第5章 第IX世代の少女

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第6話 死神の隊長

第5章 第IX世代の少女



 ハルキの市街適応観察から、数週間が経っていた。


 整備区画は、医療区画よりも音が多かった。


 低い駆動音。端末の応答音。工具が支持台へ戻る小さな金属音。空調は一定で、照明は白く、床も壁も清潔だった。


 だが、ここには生活区画のような柔らかさはない。


 すべてが、機能するために整えられている。


 リディアは整備台の上に座っていた。


 背筋を伸ばし、両足をそろえ、右腕を整備用の支持器へ預けている。簡易制服の袖は肩口まで固定され、皮膚の下を走る反応値が端末に流れていた。


 神経伝達、正常。


 関節駆動、正常。


 エーテル共鳴値、基準内。


 整備士が端末を確認する。


「右腕部、反応遅延なし。前回演習時の同期負荷、残留なし」


「了解」


「痛覚反応、軽微。同期履歴、再確認します」


「必要?」


「念のためです」


「了解」


 念のため。


 この区画では、その言葉がよく使われる。


 整備士は丁寧だった。声も荒くない。手順にも誤りはない。


 ただ、確認が一つ多い。


 第IX世代個体に対する整備手順は、通常プロクシスより項目が多い。


 それだけのことだった。


 隣の整備台では、別のプロクシスが外装点検を受けている。


 二名。


 一名はリディアを見た。


 〇・二秒後、視線を外す。


 もう一名は最初から見ない。


 問題なし。


 そう処理した。


 整備台の細い端子が皮膚に触れ、反応値が端末に展開された。


 基準内。


 安定。


 許容誤差範囲。


 そこで、数値が一度だけ跳ねた。


「共鳴値、微細上昇」


 整備士の声に、緊張が混じる。


 リディアは答えた。


「戦闘行動に支障なし」


「現在は戦闘行動中ではありません」


「訂正。通常行動に支障なし」


 整備士は端末へ記録した。


 その時、整備区画の白い光が、一瞬だけ赤に見えた。


 リディアは目を細める。


 光量異常なし。


 照明制御、正常。


 視覚素子異常なし。


 外部環境、正常。


 なら、異常は内部にある。


 足元が揺れた。


 実際には揺れていない。整備台の固定機構も人工重力も正常だった。


 それでも、身体は別の振動を再生した。


 船体音。


 赤い警告灯。


 通信ノイズ。


 帰還経路。


 声が重なる。


「隊長、帰還経路が――」


 そこで途切れた。


 リディアは右手の指を握った。


 開く。


 動作確認。


 神経伝達、正常。筋出力、正常。反応遅延、軽微。


 それ以上の意味はない。


「L-IX、応答を」


 整備士の声で、リディアは現在へ戻った。


 応答まで、〇・七秒。


 遅い。


「応答可能」


 リディアは言った。


「異常はない」


「共鳴値は基準内へ戻っています。ただ、今の反応は記録します」


「必要なら」


「必要です」


「了解」


 リディアは右腕を下ろした。


 整備士は作業を続けた。手順に乱れはない。だが、端末に入力する指がわずかに遅い。


 恐怖。


 そう分類してもよかった。


 ただし、整備士は逃げていない。作業を止めてもいない。声も荒げていない。


 なら、問題はない。


「調整終了です」


 整備士が言った。


「右腕部、通常運用可能。全身駆動系、異常なし。エーテル共鳴値、現時点では基準内」


「了解」


「この後、試験編成の顔合わせがあります」


「試験編成」


 リディアは整備台を降りた。


「詳細は、調整担当官から説明があります」


「任務種別は」


「地球降下作戦を想定した限定運用試験です」


 地球。


 その語に、リディアは反応を返さなかった。


 返さなかったが、整備士は一度だけ端末から目を上げた。


 確認。


 再確認。


 沈黙。


 リディアはその沈黙も処理した。


     *


 待機室には、調整担当官がいた。


 軍務区画の人間だった。制服は整備士より硬く、話し方も柔らかくはない。だが、リディアを見る目に敵意はなかった。


 端末には、簡潔な編成図が表示されている。


 三つの点。


 一つは先頭。


 残る二つは、その後方左右。


《試験的三体戦闘単位》


《仮称:トリアド》


《対象:第IX世代プロクシス運用改善試験》


 リディアは表示を見た。


「三体」


「そうだ」


「小隊編成ではない」


「従来小隊とは別枠だ。高出力個体を含む戦闘単位の再設計、と説明されている」


「単独投入の方が、作戦速度は上がる」


 担当官は、そこだけ即答しなかった。


「今回の評価項目は、作戦速度だけではない」


「目標破壊効率?」


「作戦完遂率と帰還率だ」


 帰還率。


 リディアはその語を照合した。


 作戦参加個体数に対する、任務後の帰還個体数。


 単純な数値。


 ただ、それだけのはずだった。


「防護担当を一名、通信および退避判断支援を一名つける」


 防護。


 通信。


 退避判断。


 その三つの語が、整備区画の赤い光と重なりかけた。


 帰還経路。


 隊長。


 リディア。


 最後の音だけが、照合不能だった。


「L-IX」


 担当官が呼ぶ。


「説明継続を」


「理解しているか」


「三体編成による試験運用。命令であれば従う」


「拒否権の話ではない」


「では、何を確認している?」


 担当官は、リディアを見た。


 その目には、わずかな迷いがあった。


「お前が、また単独で突っ込まないかを確認している」


 リディアは沈黙した。


 言葉の意味は理解できる。


 単独前進。


 先行突破。


 高出力個体に許容される戦術選択。


 それは効率的だ。


「状況により、単独突破は合理的」


「その合理性で、部隊が置いていかれる」


「部隊が追従不能な場合、単独で目標へ到達する方が成功率は高い」


「今回の試験では、その判断を制限する」


「了解」


 リディアはすぐに答えた。


 命令であれば従う。


 それに疑問はない。


 だが、担当官はまだ表示を閉じなかった。


「随伴候補、入室」


 扉が開いた。


 二名のプロクシスが入ってくる。


 一人は背が高かった。肩幅があり、立ち方は硬い。防護任務向きの骨格調整。外装は簡易だが、腕部の反応値は安定している。


 もう一人は、やや小柄だった。視線の動きが速い。リディアの顔、手、足元、扉、天井端末、再びリディアへ。情報取得の順序に無駄が少ない。


 背の高い個体は、規定よりも硬かった。


 小柄な個体が横目でそれを見る。


「アウルス、呼吸」


「している」


「そういう意味じゃない」


 短いやり取りだった。


 だが、二人が初対面ではないことは分かった。


 小柄な個体の視線が、リディアの右腕で一瞬だけ止まる。


 整備直後の腕。


 前回の同期負荷が記録されていた箇所。


 視線はすぐに戻った。


 だが、端末を持つ指だけが少し強くなっている。


 恐怖。


 緊張。


 確認。


 リディアはそう分類した。


「アウルス・プロクシスです。防護担当候補として配属予定です」


 背の高い個体が言った。


 声は硬い。


 だが、リディアのように平坦ではない。


「……正直、少し緊張しています」


 担当官がわずかに眉を動かした。


 リディアはアウルスを見た。


「緊張は行動阻害要因になる」


「はい。なので、先に申告しました」


「任務遂行に支障は」


「出しません」


「なら、記録する」


 アウルスは一瞬だけ戸惑い、それから頷いた。


「ありがとうございます」


 礼を言う理由は不明。


 だが、害はない。


 もう一人が、少し前へ出た。


「イオナ・プロクシスです。通信と状況整理を担当します。隊長の速度に置いていかれないよう、努力します」


「努力は評価項目ではない」


 リディアは答えた。


「追従条件を確認して」


 イオナは瞬きし、それから小さく頷いた。


「はい。追従条件を確認します」


 言い直しには迷いがなかった。


 リディアはイオナの反応を記録した。


 柔軟。


 だが、緊張は残っている。


 彼女はリディアから目を逸らさない。逸らさないが、完全には近づかない。


 恐れている。


 それでも、見ようとしている。


 アウルスは実直。イオナは適応が速い。


 どちらも通常プロクシスとしては優秀。


 だが、問題はそこではない。


「私を隊長として扱う必要はない」


 リディアは言った。


 アウルスとイオナの表情がわずかに変わる。


「編成上、あなたが先導個体です」


 イオナが言った。


「なら、隊長で合っていると思います」


「呼称は任務効率に影響しない」


「影響します」


 アウルスが言った。


 声は硬いが、先ほどより少しだけ強い。


「少なくとも、自分には」


「理由は」


「守る対象と、ついていく相手を間違えないためです」


「アウルス」


 イオナが短く止めた。


「隊長だけじゃなく、編成全体」


「……分かっている」


 アウルスは一度だけ息を吸った。


「訂正します。自分は、編成全体を守るために隊長へ追従します」


 リディアはアウルスを見た。


 視線の固定時間、二・一秒。


 長い。


「私は、護衛対象ではない」


「分かっています」


「防護担当なら、編成全体を守って」


「はい」


 アウルスは頷いた。


「そのつもりです」


 リディアはイオナを見る。


「通信断絶時は」


「事前条件に従って、退避判断を維持します。隊長からの指示が途切れた場合でも、編成全体が帰還可能な経路を優先します」


「私の位置ではなく?」


「はい。編成全体です」


 その答えに、リディアは反応を返さなかった。


 処理に、少しだけ時間がかかった。


 編成全体。


 帰還可能な経路。


 隊長。


 リディア。


 ノイズの奥で、また別の音が混じりかける。


 リディアは右手の指を握った。


 開く。


 動作確認。


 問題なし。


「L-IX?」


 担当官が呼んだ。


「問題ない」


 リディアは答えた。


 アウルスが、少し迷ってから言った。


「よろしくお願いします、隊長」


 イオナも続いた。


「よろしくお願いします、隊長」


 リディアは二人を見た。


 隊長。


 その呼称は任務上のもの。


 そう処理できる。


 応答まで、〇・六秒。


 やや遅い。


「了解」


 リディアは言った。


「試験運用を開始する」


     *


 待機室を出た後も、白い通路は揺れていなかった。


 赤い警告灯もない。


 通信ノイズもない。


 現在の環境に異常はない。


 それでも、帰還経路という語だけが、身体の奥に残っていた。


 リディアは歩きながら、右手を一度だけ開いた。


 動作確認。


 問題なし。


 だが、声は残っている。


 隊長。


 帰還経路が。


 リディア。


 最後の音だけが、記録のどこにも存在しなかった。


読んでいただき、ありがとうございます。


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