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その果てに、月は神を観る 〜記憶を失った青年と兵器少女は、滅びた地球の真実へ降りる〜  作者: 大導ユウ
第4章 硝子の街

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第5話 硝子の街


 セレーネの市街は、硝子でできていた。


 もちろん、実際にすべてが硝子というわけではない。構造材はもっと強靭で、耐圧層も多重化されているはずだ。


 だが、最初に浮かんだ言葉は硝子だった。


 頭上には高い天蓋がある。月面都市の内部に、空を模した光が広がっていた。青ではない。地球の空ではなく、月の光を生活に適するよう薄めた人工の昼だった。


 建物の輪郭は細く、透明材と白色装甲で構成されている。柱は少なく、視線が遠くまで通る。人々の動線は静かで、衝突がない。


 清潔だった。


 美しかった。


 ハルキは、それを否定できなかった。


 地上の記憶はない。


 それでも、記憶の奥にある何かが、この街を「自然ではない」と言っていた。


「すごいでしょ」


 ユイが小さく言った。


「すごいな」


 ハルキは頷いた。


「綺麗すぎるくらいに」


「分かる」


 その一言で、彼女も同じ種類の違和感を覚えたことがあるのだと分かった。


「こちらが生活資源取得区画です」


 アルシアが前方を示す。


 店舗のようなものが並んでいた。だが、店員の呼び声はない。商品が山積みにされているわけでもない。必要なものを端末で選び、認証された物品だけが透明な受け取り口に出てくる。


 市民たちは静かに並び、静かに受け取り、静かに去っていく。


 苛立つ者はいない。


 急かす者もいない。


「買い物、という感じではないですね」


 ハルキが言った。


「資源配分です」


 アルシアが答えた。


「市民階層、職務、健康状態、家族構成、居住区画、軍務協力度などに応じて、取得可能品目が設定されています。嗜好品も一定範囲で選択できますので、生活満足度は高く維持されています」


 正しい。


 おそらく、論理としては正しい。


 月面都市である以上、資源は有限だ。食料も水も空気も、無限ではない。配分が必要で、優先順位もある。


 正しいことと、息苦しくないことは同じではない。


 ハルキは通路の向こうを見た。


 幼い子どもがいた。


 母親らしい人物と並び、端末に表示された甘味パックを選んでいる。


 子どもは少し迷って黄色を選び、受け取り口の前で両手を揃えた。


 目が、ほんの少し明るくなる。


 だが、照合音のあとも受け取り口は開かなかった。


《本周期分:取得不可》


 母親は叱らず、別の項目を示す。


 無地の栄養パック。


 承認済み。


 子どもは数秒だけ黙り、頷いた。


 駄々をこねない。


 泣かない。


 諦めるのが、少し早すぎる。


「ハルキ?」


 ユイが横から覗き込む。


「どうしたの?」


「いや」


 ハルキは視線を外した。


「少し、静かだと思った」


「うん。静かだね」


 ユイは街を見回した。


「綺麗なのにね」


 その言い方で、ハルキはユイも同じものを見ているのだと分かった。


 アルシアは気づいているのか、いないのか、次の説明へ移った。


「皆さんは高価値エランテスですので、通常の市民配分とは別に、研究・生活適応支援枠が設定されています。必要物品は、申請していただければ多くの場合、承認可能です」


「除外されるものは?」


 ハルキが訊いた。


「危険物、外部通信機材、未承認記録媒体、軍務区画認証装置、独立航行用部品などです」


 ユイが横目でハルキを見た。


「最後の方、普通は申請しないと思うけど」


 アルシアは、少しだけ困ったように笑った。


「念のためです。過去に例があります」


「あるんだ」


「ええ。今回、同行されなかった方などが」


 ハルキは、黙ってマルコの不在を思い出した。


「ちなみに、承認されたんですか?」


 ユイが訊く。


「されていません」


 アルシアは即答した。


「ですよね」


「理由欄は、少し長くなりました」


「マルコらしい」


 ユイは呆れたように笑った。


 ハルキも少しだけ笑った。


 アルシアは答えられる範囲なら、きちんと答える。


 答えられない時も、答えられないという形で返してくる。


 だから、信用できる部分はあった。


 ただ、その答えのほとんどは制度の内側から来ている。


 ハルキは、アルシア個人を疑う気にはなれなかった。


 けれど、彼女が当然のように立っているこの街まで、同じように信じることはできなかった。


     *


 市街区画の奥に進むと、人の服装が少し変わった。


 派手ではない。色数も少ない。だが、素材が違う。縫製が違う。身につけている端末も、ハルキたちが渡された暫定端末より薄く、装飾性がある。


 通路の表示も変わった。


《上層市民居住連絡域》


《認証階層:B以上》


《随伴対象:照合中》


 アルシアが端末を操作する。


《ハルキ:通行許可》


《ユイ:通行許可》


《アルシア・ルーメン:通行許可》


《護衛個体:待機推奨》


 ハルキは足を止めた。


 ユイも止まった。


 リディアだけが、自然に一歩下がった。


「私はここで待つ」


 それは、何でもないことのような声だった。


「待つって」


 ユイが振り向く。


「一緒に行かないの?」


「この先は市民居住連絡域。プロクシスの立ち入りには、任務上の必要性が求められる。護衛任務は、この境界までで成立する」


「でも、今も護衛中でしょ?」


「この先は低危険区画。護衛必要度が規定値を下回る」


「そういう問題?」


 ユイの声から、笑いが消えた。


 リディアは答えなかった。


 問いの形を測っているように見えた。


 アルシアが穏やかに言う。


「ご安心ください。この先の区画は警備密度が高く、未認証者の接近はほぼありません」


「安全かどうかじゃなくて」


 ユイは言いかけて、止まった。


 アルシアは、少し困ったように眉を下げた。


「それに、異常接近、逸脱行動、緊急反応はすべて即時検知されます」


 ハルキは、その言葉の並びを、頭の中で一度だけなぞった。


 異常接近。


 逸脱行動。


 緊急反応。


 外から近づく危険と、中から外れる動きを、同じ列に並べている。


「ずいぶん、細かく見ているんですね」


 問い詰める声にはしなかった。


 ただ、確認するだけの声にした。


 アルシアは、少しだけ申し訳なさそうに笑った。


「皆さんが落ち着いて歩けるように、必要な範囲で」


 その声に、こちらを脅す意図はなかった。


 自分たちがその“必要な範囲”にいるうちは、安全は保証されている。


 そういう仕組みなのだろう。


 けれど、その範囲を決めているのは、彼女ではない。


「リディア」


 ハルキは言った。


「君は、それでいいのか」


 リディアはハルキを見た。


「私は、必要な場所へ行ける」


「必要じゃない場所に行きたいと思ったことは?」


 その問いに、リディアはすぐには答えなかった。


 視線が、ほんの少しだけ横へ動いた。


 市民区画の奥。


 透明な通路の向こうに、人工庭園らしき場所が見えた。細い樹木。水の流れ。子どもが二人、管理端末のそばで立ち止まっている。


 リディアが見たのは、そこだったのか。


 あるいは、ただ照合しただけなのか。


「未登録」


 リディアは短く言った。


「何が?」


 ユイが問う。


「そういう欲求は、私の任務記録にはない」


 ユイの表情が、わずかに変わった。


 怒りではなかった。


 悲しみとも違う。


 もっと扱いに困るものだった。


「そっか」


 ユイは笑った。


 明るくしようとして、失敗した笑いだった。


「じゃあ、今日はここまででいいんじゃないかな」


 アルシアが目を瞬かせる。


「よろしいのですか? この先には、上層市民向けの居住支援施設と文化保存展示区画があります。ハルキさんの適応評価には有益です」


「うん。でも、今日はここまで」


 ユイはリディアの隣に戻った。


「三人で見学してるから。途中で一人だけ待つのは、なんか違う」


 リディアはユイを見た。


「私は護衛」


「うん。じゃあ、護衛対象がここまででいいって言ってる」


「判断理由が不明」


「そういう日もあるよ」


 ユイは軽く肩をすくめた。


 ハルキは、その横顔を見た。


 ユイは明るい。


 けれど、その明るさは、何も見ていない明るさではない。見たうえで、壊れないように整える明るさだ。


 マルコがいれば、何か皮肉を言っただろう。


 だが、今ここで言葉にするなら、自分で言うしかなかった。


「俺も、ここまででいい」


 アルシアは二人を見て、それからリディアを見た。


「承知しました。では、展望回廊へ進みましょう。そこは全員の通行が可能です」


「展望?」


「はい。月面都市外縁の観測回廊です」


 アルシアの声は明るい。


「地球がよく見えます」


 地球。


 その言葉が、ハルキの中で遅れて響いた。


 記憶はない。


 地球という語に、具体的な景色は結びつかない。


 それでも、胸の奥に小さな圧が生まれた。


 知らないはずのものを、知っている気がした。


     *


 展望回廊へ向かう通路は、これまでより静かだった。


 人の流れが少ない。観光地というより、礼拝所に近い。声を抑えるよう指示されているわけではないのに、誰も大きな声を出さない。


 回廊の入口で、認証表示がまた浮かんだ。


《展望回廊:一般開放》


《護衛個体 同行:承認》


《保護観測対象:通行許可》


 今回は、リディアも止められなかった。


 ハルキはそれを確認してから、先へ進んだ。


 回廊は、都市の外殻に沿って弧を描いていた。片側の壁がすべて透明材で構成されている。


 外には月面が広がっていた。


 灰色の大地。


 遠くに並ぶ構造物。


 白い通信塔。


 走行する作業機。


 低く伸びる影。


 そして、その向こうに。


 青い星があった。


 ハルキは、足を止めた。


 音が遠くなる。


 空調の低い唸りも、ユイの息遣いも、アルシアの説明も、すべて薄くなった。


 硝子の向こうに、地球が浮かんでいた。


 青。


 白。


 夜の側に沈む、細い光。


 あれを、自分は知っている。


 そう思った。


 だが、何を知っているのか分からない。


 海。


 雲。


 大気。


 大陸。


 単語だけは浮かぶ。けれど、そのどれも記憶ではない。誰かから教えられた知識のようで、自分のものではない。


 それでも、胸が痛んだ。


 痛みの理由がない。


 理由がないのに、痛みだけが先にあった。


「ハルキ?」


 ユイの声がした。


 ハルキは答えようとして、言葉を出せなかった。


 地球を見ている。


 ただ、それだけのはずだった。


「月から見る地球は、初めてですか?」


 アルシアが静かに訊いた。


 ハルキは頷いた。


「たぶん」


「たぶん、ですか」


「記憶がない。でも、知らないとは言い切れない」


 アルシアは少しだけ目を細めた。


 観察している。


 その仕草を見て、ハルキはようやく自分が何かを漏らしたのだと気づいた。


 リディアが隣に立った。


 彼女は地球を見ていた。


 ハルキやユイのように、息を呑むことはない。懐かしむこともない。恐れることもない。ただ、任務画面を見るような静かさで、青い星を見ていた。

挿絵(By みてみん)

「リディア」


 ハルキは呼んだ。


「君には、あれはどう見える」


 リディアは少し沈黙した。


 問いの意味を照合している。


 やがて、彼女は言った。


「あれが、奪還対象です」


 声に迷いはなかった。


 報告の声だった。


 感情ではなく、分類を読み上げる声だった。


 ハルキはもう一度、硝子の向こうを見た。


 青い星が浮かんでいる。


 美しいと思った。


 懐かしいとも、思った。


 だがこの月では、そう呼ばれていない。


 あれは故郷ではない。


 目標物だった。


 奪還すべき場所。


 攻略すべき対象。


 名前のついた任務。


 ハルキは、硝子に映った自分の顔を見た。


 姓のない男が、青い星を見ている。


 その星を知っているのかも分からない。


 それでも、ひとつだけ分かった。


 この街は美しい。


 清潔で、正しく、よくできている。


 だが、この硝子の向こうにあるものを、目標物としか呼べない場所なのだ。


 ハルキは、息を吐いた。


 白い硝子は曇らなかった。


第4章を読んでくださりありがとうございます。

セレーネは清潔で、美しく、合理的な社会です。

ただし、その合理性が人間にとって優しいものかどうかは、まだ分かりません。


次章では、リディアの側にある過去へ踏み込みます。

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