第5話 硝子の街
セレーネの市街は、硝子でできていた。
もちろん、実際にすべてが硝子というわけではない。構造材はもっと強靭で、耐圧層も多重化されているはずだ。
だが、最初に浮かんだ言葉は硝子だった。
頭上には高い天蓋がある。月面都市の内部に、空を模した光が広がっていた。青ではない。地球の空ではなく、月の光を生活に適するよう薄めた人工の昼だった。
建物の輪郭は細く、透明材と白色装甲で構成されている。柱は少なく、視線が遠くまで通る。人々の動線は静かで、衝突がない。
清潔だった。
美しかった。
ハルキは、それを否定できなかった。
地上の記憶はない。
それでも、記憶の奥にある何かが、この街を「自然ではない」と言っていた。
「すごいでしょ」
ユイが小さく言った。
「すごいな」
ハルキは頷いた。
「綺麗すぎるくらいに」
「分かる」
その一言で、彼女も同じ種類の違和感を覚えたことがあるのだと分かった。
「こちらが生活資源取得区画です」
アルシアが前方を示す。
店舗のようなものが並んでいた。だが、店員の呼び声はない。商品が山積みにされているわけでもない。必要なものを端末で選び、認証された物品だけが透明な受け取り口に出てくる。
市民たちは静かに並び、静かに受け取り、静かに去っていく。
苛立つ者はいない。
急かす者もいない。
「買い物、という感じではないですね」
ハルキが言った。
「資源配分です」
アルシアが答えた。
「市民階層、職務、健康状態、家族構成、居住区画、軍務協力度などに応じて、取得可能品目が設定されています。嗜好品も一定範囲で選択できますので、生活満足度は高く維持されています」
正しい。
おそらく、論理としては正しい。
月面都市である以上、資源は有限だ。食料も水も空気も、無限ではない。配分が必要で、優先順位もある。
正しいことと、息苦しくないことは同じではない。
ハルキは通路の向こうを見た。
幼い子どもがいた。
母親らしい人物と並び、端末に表示された甘味パックを選んでいる。
子どもは少し迷って黄色を選び、受け取り口の前で両手を揃えた。
目が、ほんの少し明るくなる。
だが、照合音のあとも受け取り口は開かなかった。
《本周期分:取得不可》
母親は叱らず、別の項目を示す。
無地の栄養パック。
承認済み。
子どもは数秒だけ黙り、頷いた。
駄々をこねない。
泣かない。
諦めるのが、少し早すぎる。
「ハルキ?」
ユイが横から覗き込む。
「どうしたの?」
「いや」
ハルキは視線を外した。
「少し、静かだと思った」
「うん。静かだね」
ユイは街を見回した。
「綺麗なのにね」
その言い方で、ハルキはユイも同じものを見ているのだと分かった。
アルシアは気づいているのか、いないのか、次の説明へ移った。
「皆さんは高価値エランテスですので、通常の市民配分とは別に、研究・生活適応支援枠が設定されています。必要物品は、申請していただければ多くの場合、承認可能です」
「除外されるものは?」
ハルキが訊いた。
「危険物、外部通信機材、未承認記録媒体、軍務区画認証装置、独立航行用部品などです」
ユイが横目でハルキを見た。
「最後の方、普通は申請しないと思うけど」
アルシアは、少しだけ困ったように笑った。
「念のためです。過去に例があります」
「あるんだ」
「ええ。今回、同行されなかった方などが」
ハルキは、黙ってマルコの不在を思い出した。
「ちなみに、承認されたんですか?」
ユイが訊く。
「されていません」
アルシアは即答した。
「ですよね」
「理由欄は、少し長くなりました」
「マルコらしい」
ユイは呆れたように笑った。
ハルキも少しだけ笑った。
アルシアは答えられる範囲なら、きちんと答える。
答えられない時も、答えられないという形で返してくる。
だから、信用できる部分はあった。
ただ、その答えのほとんどは制度の内側から来ている。
ハルキは、アルシア個人を疑う気にはなれなかった。
けれど、彼女が当然のように立っているこの街まで、同じように信じることはできなかった。
*
市街区画の奥に進むと、人の服装が少し変わった。
派手ではない。色数も少ない。だが、素材が違う。縫製が違う。身につけている端末も、ハルキたちが渡された暫定端末より薄く、装飾性がある。
通路の表示も変わった。
《上層市民居住連絡域》
《認証階層:B以上》
《随伴対象:照合中》
アルシアが端末を操作する。
《ハルキ:通行許可》
《ユイ:通行許可》
《アルシア・ルーメン:通行許可》
《護衛個体:待機推奨》
ハルキは足を止めた。
ユイも止まった。
リディアだけが、自然に一歩下がった。
「私はここで待つ」
それは、何でもないことのような声だった。
「待つって」
ユイが振り向く。
「一緒に行かないの?」
「この先は市民居住連絡域。プロクシスの立ち入りには、任務上の必要性が求められる。護衛任務は、この境界までで成立する」
「でも、今も護衛中でしょ?」
「この先は低危険区画。護衛必要度が規定値を下回る」
「そういう問題?」
ユイの声から、笑いが消えた。
リディアは答えなかった。
問いの形を測っているように見えた。
アルシアが穏やかに言う。
「ご安心ください。この先の区画は警備密度が高く、未認証者の接近はほぼありません」
「安全かどうかじゃなくて」
ユイは言いかけて、止まった。
アルシアは、少し困ったように眉を下げた。
「それに、異常接近、逸脱行動、緊急反応はすべて即時検知されます」
ハルキは、その言葉の並びを、頭の中で一度だけなぞった。
異常接近。
逸脱行動。
緊急反応。
外から近づく危険と、中から外れる動きを、同じ列に並べている。
「ずいぶん、細かく見ているんですね」
問い詰める声にはしなかった。
ただ、確認するだけの声にした。
アルシアは、少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「皆さんが落ち着いて歩けるように、必要な範囲で」
その声に、こちらを脅す意図はなかった。
自分たちがその“必要な範囲”にいるうちは、安全は保証されている。
そういう仕組みなのだろう。
けれど、その範囲を決めているのは、彼女ではない。
「リディア」
ハルキは言った。
「君は、それでいいのか」
リディアはハルキを見た。
「私は、必要な場所へ行ける」
「必要じゃない場所に行きたいと思ったことは?」
その問いに、リディアはすぐには答えなかった。
視線が、ほんの少しだけ横へ動いた。
市民区画の奥。
透明な通路の向こうに、人工庭園らしき場所が見えた。細い樹木。水の流れ。子どもが二人、管理端末のそばで立ち止まっている。
リディアが見たのは、そこだったのか。
あるいは、ただ照合しただけなのか。
「未登録」
リディアは短く言った。
「何が?」
ユイが問う。
「そういう欲求は、私の任務記録にはない」
ユイの表情が、わずかに変わった。
怒りではなかった。
悲しみとも違う。
もっと扱いに困るものだった。
「そっか」
ユイは笑った。
明るくしようとして、失敗した笑いだった。
「じゃあ、今日はここまででいいんじゃないかな」
アルシアが目を瞬かせる。
「よろしいのですか? この先には、上層市民向けの居住支援施設と文化保存展示区画があります。ハルキさんの適応評価には有益です」
「うん。でも、今日はここまで」
ユイはリディアの隣に戻った。
「三人で見学してるから。途中で一人だけ待つのは、なんか違う」
リディアはユイを見た。
「私は護衛」
「うん。じゃあ、護衛対象がここまででいいって言ってる」
「判断理由が不明」
「そういう日もあるよ」
ユイは軽く肩をすくめた。
ハルキは、その横顔を見た。
ユイは明るい。
けれど、その明るさは、何も見ていない明るさではない。見たうえで、壊れないように整える明るさだ。
マルコがいれば、何か皮肉を言っただろう。
だが、今ここで言葉にするなら、自分で言うしかなかった。
「俺も、ここまででいい」
アルシアは二人を見て、それからリディアを見た。
「承知しました。では、展望回廊へ進みましょう。そこは全員の通行が可能です」
「展望?」
「はい。月面都市外縁の観測回廊です」
アルシアの声は明るい。
「地球がよく見えます」
地球。
その言葉が、ハルキの中で遅れて響いた。
記憶はない。
地球という語に、具体的な景色は結びつかない。
それでも、胸の奥に小さな圧が生まれた。
知らないはずのものを、知っている気がした。
*
展望回廊へ向かう通路は、これまでより静かだった。
人の流れが少ない。観光地というより、礼拝所に近い。声を抑えるよう指示されているわけではないのに、誰も大きな声を出さない。
回廊の入口で、認証表示がまた浮かんだ。
《展望回廊:一般開放》
《護衛個体 同行:承認》
《保護観測対象:通行許可》
今回は、リディアも止められなかった。
ハルキはそれを確認してから、先へ進んだ。
回廊は、都市の外殻に沿って弧を描いていた。片側の壁がすべて透明材で構成されている。
外には月面が広がっていた。
灰色の大地。
遠くに並ぶ構造物。
白い通信塔。
走行する作業機。
低く伸びる影。
そして、その向こうに。
青い星があった。
ハルキは、足を止めた。
音が遠くなる。
空調の低い唸りも、ユイの息遣いも、アルシアの説明も、すべて薄くなった。
硝子の向こうに、地球が浮かんでいた。
青。
白。
夜の側に沈む、細い光。
あれを、自分は知っている。
そう思った。
だが、何を知っているのか分からない。
海。
雲。
大気。
大陸。
単語だけは浮かぶ。けれど、そのどれも記憶ではない。誰かから教えられた知識のようで、自分のものではない。
それでも、胸が痛んだ。
痛みの理由がない。
理由がないのに、痛みだけが先にあった。
「ハルキ?」
ユイの声がした。
ハルキは答えようとして、言葉を出せなかった。
地球を見ている。
ただ、それだけのはずだった。
「月から見る地球は、初めてですか?」
アルシアが静かに訊いた。
ハルキは頷いた。
「たぶん」
「たぶん、ですか」
「記憶がない。でも、知らないとは言い切れない」
アルシアは少しだけ目を細めた。
観察している。
その仕草を見て、ハルキはようやく自分が何かを漏らしたのだと気づいた。
リディアが隣に立った。
彼女は地球を見ていた。
ハルキやユイのように、息を呑むことはない。懐かしむこともない。恐れることもない。ただ、任務画面を見るような静かさで、青い星を見ていた。
「リディア」
ハルキは呼んだ。
「君には、あれはどう見える」
リディアは少し沈黙した。
問いの意味を照合している。
やがて、彼女は言った。
「あれが、奪還対象です」
声に迷いはなかった。
報告の声だった。
感情ではなく、分類を読み上げる声だった。
ハルキはもう一度、硝子の向こうを見た。
青い星が浮かんでいる。
美しいと思った。
懐かしいとも、思った。
だがこの月では、そう呼ばれていない。
あれは故郷ではない。
目標物だった。
奪還すべき場所。
攻略すべき対象。
名前のついた任務。
ハルキは、硝子に映った自分の顔を見た。
姓のない男が、青い星を見ている。
その星を知っているのかも分からない。
それでも、ひとつだけ分かった。
この街は美しい。
清潔で、正しく、よくできている。
だが、この硝子の向こうにあるものを、目標物としか呼べない場所なのだ。
ハルキは、息を吐いた。
白い硝子は曇らなかった。
第4章を読んでくださりありがとうございます。
セレーネは清潔で、美しく、合理的な社会です。
ただし、その合理性が人間にとって優しいものかどうかは、まだ分かりません。
次章では、リディアの側にある過去へ踏み込みます。
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