第4話 市街適応観察
第4章 硝子の街
ハルキがその住居に移されてから、数日が経っていた。
窓が開かないことに、ユイはもう驚かなかった。
マルコに至っては、驚く段階をとっくに終えていた。開かない理由を調べ、開ける方法を探し、それも無理だと分かると、次は「窓以外の抜け道」を探しはじめた。
ハルキだけが、まだ時々、窓の前で足を止めた。
透明材の向こうには、空に似せた光がある。
外気はない。
けれど、閉じ込められていると感じさせないように作られていた。
「ハルキ、そこ、開かないよ」
ユイが言った。
「知ってる」
「知ってて見るんだ」
「開かない理由を、まだ見つけてない」
「それ、マルコと同じ方向に行ってるよ」
ソファの端で端末を操作していたマルコが、目だけを上げた。
「失礼だな。オレはもう次の段階にいる」
「何の段階?」
「窓に頼らない段階」
ユイは少しだけ笑い、それからマルコの顔を見た。
「マルコ、また寝てないでしょ」
「寝た。短時間で」
「それを寝不足って言うんだよ」
マルコは反論せず、端末の表示だけを指で払った。
この住居は、生活するには十分すぎるほど整っていた。
食料も衣類も不足しない。室温は一定で、照明は目に優しい。端末は必要な情報を先回りして表示する。
快適だった。
ただ、その快適さには隙がない。
水の跡も、家具の傷も、使い込まれた匂いもない。生活はあるのに、生活が残した乱れだけが取り除かれている。
ハルキは、それにまだ慣れなかった。
入口の認証音が鳴った。
扉の側面に、白い文字が浮かぶ。
《行政担当者:アルシア・ルーメン》
《護衛担当:リディア・プロクシス》
《入室許可:承認済》
一拍置いて、扉が開いた。
「おはようございます、皆さん」
アルシアは、いつもの柔らかい笑顔で立っていた。
隣にはリディアがいる。軍装ではなく、簡易制服だった。武装は見えない。だが、立っているだけで、そこに境界線が引かれたように見える。
「おはようございます、アルシアさん」
ユイが先に返した。
「おはよう、リディア」
「おはよう、ユイ。ハルキ。マルコ」
リディアは短く頷いた。
ハルキも挨拶を返す。マルコは片手だけを上げた。
「本日は、ハルキさんの市街適応観察を行います」
アルシアは端末を確認しながら言った。
「初回ですので、行動範囲は限定されます。リディアさんには護衛として同行していただきます」
「私も行きます」
ユイが、すぐに言った。
アルシアは顔を上げる。
「ユイさんも、ですか?」
「はい。ハルキ、まだ端末の注意文を読むだけで疲れると思うので。通訳役がいた方がいいです」
「行政文の通訳、必要なのか」
ハルキが訊くと、ユイは真顔で頷いた。
「必要。すごく」
アルシアは少し困ったように笑った。
「できるだけ分かりやすくご説明します」
「アルシアさんの説明は分かりやすいです」
ユイは即座に言った。
「ただ、制度の方が分かりにくいだけで」
「制度へのご意見として、記録しておきますか?」
「いえ、大丈夫です。記録されると、たぶん本当に残るので」
マルコが小さく笑った。
「市街見学ね。……見られるのは、どっちだろうな」
アルシアは、否定しなかった。
「不必要に注目を集めないよう、周辺には調整を入れています」
「そこは否定してほしかったな」
マルコは小さく笑った。
ユイがマルコを横目で見る。
「マルコは?」
「オレは留守番で」
マルコは端末から目を離さなかった。
「三人分の部屋に、四人目の目玉がないか見ておく」
アルシアは困ったように笑った。
「分解はしないでくださいね」
「しない。今日は」
ハルキはリディアを見た。
「市街見学に、護衛がいるんですか?」
リディアが答えた。
「市街での危険発生率は極めて低い。ほぼゼロ」
「なら、俺に必要なんですね」
「初回だから」
答えは短かった。
アルシアが、少し補うように続ける。
「ハルキさんは、まだ市街での行動履歴がありません。初回は、行政担当者と護衛の同行が規定されています」
行動履歴。
ただ外を歩くだけでも、ここでは履歴になるらしい。
「分かりました」
ハルキはそう答えた。
納得したわけではなかった。けれど、今は外へ出る方が先だった。
「ハルキ」
ユイが少し声を落とす。
「最初は聞き流さない方がいいよ。あとで端末が注意してくるから」
「優しい怖いやつね」
ハルキが言うと、ユイは小さく笑った。
「理解が早い」
アルシアは端末を操作した。
「では、出発します」
扉が開いた。
*
住居の外も、白かった。
淡い灰色と薄い銀色、反射を抑えた透明材が層になり、通路全体を柔らかく照らしている。
通路は、人を運ぶために設計されていた。
立ち止まる場所ではない。
迷う場所でもない。
床の光が進行方向を示し、壁面の表示が目的地までの所要時間を告げている。
《市街適応観察ルート:承認済》
《同行管理者:アルシア・ルーメン》
《護衛担当:リディア・プロクシス》
《対象:ハルキ/ユイ》
名前だけが並んでいた。
姓の欄はない。
「暫定登録に基づいています」
アルシアが言った。
「姓が確認され次第、更新されます」
「確認されなければ?」
「現行登録が継続されます」
ハルキ。
その名だけが、白い壁に浮かんでいた。
「こっち」
リディアが先に歩き出した。
動きに迷いがない。通路の表示を見る前に、次の角を選んでいる。
ハルキはその背中を追った。
ユイが隣に並ぶ。
「リディア、ここはよく通るの?」
「任務で通る」
「生活では?」
「プロクシス居住区と軍務区画が中心。市民区画への立ち入りは、任務理由が必要」
ユイの足が、わずかに遅れた。
「任務理由がないと、来られないの?」
「そう」
「それ、不便じゃない?」
リディアは少しだけ振り向いた。
「不便ではない。必要な区画には移動できる」
「必要じゃない場所には?」
「行く理由がない」
答えは短かった。
ユイは何か言いかけたが、口を閉じた。
ハルキも、すぐには言葉を挟めなかった。
リディアにとって、それは制限ではないのだろう。
行く理由がない。
その言葉は、自由の欠如を表すものではなく、任務効率の説明として出てきた。
透明な隔壁の前に着いた。
向こう側には、さらに広い空間が見えた。市街へ続く連絡ゲートらしい。人の流れがある。
アルシアが端末をかざす。
隔壁の表示が変わった。
《行政同行:承認》
《保護観測対象:通行許可》
《護衛個体:条件付き通行》
ハルキは最後の表示を見た。
護衛個体。
名前ではない。
リディアは、それを見ても表情を変えなかった。
「リディア」
ハルキは思わず呼んだ。
「何」
「今の表示は」
「通行条件。問題ない」
「名前じゃない」
リディアは一拍だけ黙った。
「軍務区画外では、分類表示が優先される」
「それでいいのか」
「いい、とは?」
問い返されて、ハルキは言葉に詰まった。
リディアは本当に分かっていないように見えた。怒っているのでも、諦めているのでもない。ただ、問いの意味が照合できない。
アルシアが柔らかく補足する。
「市民区画では、プロクシス個体の通行は安全管理上、用途分類と紐づけられます。リディアさんの場合は、今回は護衛任務としての同行です」
「リディアさん、ではなく、表示は護衛個体なんですね」
ユイの声が、少しだけ低かった。
アルシアは瞬きした。
「はい。表示形式は簡略化されています」
「簡略化」
ユイはその言葉を繰り返した。
笑っていた。
けれど、笑いきれていなかった。
リディアがユイを見る。
「ユイ。気にする必要はない」
「リディアがそう言うなら、今はそうしておく」
ユイは明るく言った。
今は。
その二文字だけが、残った。
隔壁が開いた。
音はなかった。
ただ、透明な壁が存在をやめた。
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