第3話 先に来た者たち
第3章 先に来た者たち
同じ分類の二名。
その言葉が、通路を歩いている間も頭に残っていた。
通路は明るかった。
眩しさはなく、影もない。歩く者が不安にならないように調整された光だった。
だが、ハルキには、その均一さがかえって落ち着かなかった。
壁には案内板がない。曲がり角に差しかかるたび、必要な文字だけが浮かび上がる。
進行方向。
区画名。
通行許可。
すべてが、こちらの歩調に合わせて先回りして表示された。
迷わないようにできている。
同時に、迷えないようにできている。
前をリディアが歩いている。足音はほとんどない。白い通路に、白い簡易装甲の輪郭だけが硬く浮かんでいた。
後ろでは、アルシアが少し離れてついてくる。急かすでもなく、見張るでもなく、必要な距離だけを保っている。
「具合は悪くありませんか」
アルシアが声をかけた。
「大丈夫です」
「無理はしないでください。移送速度は調整できます」
「ありがとうございます」
ハルキはそう答えてから、通路の先を見た。
どこまで行っても、白い。
清潔で、静かで、正確だった。
だからこそ、自分がここにいることだけが、異物のように感じられた。
「こちらが、保護居住区です」
アルシアが言った。
通路の突き当たりで、扉が音もなく開いた。
その先には、広い部屋があった。
医療区画より、ずっと生活に近い空間だった。白を基調にしているのは変わらない。だが、壁面には薄い木目のパネルが入り、共有テーブルと椅子、休憩用のソファ、端末スペース、三つの個室へ続く扉が配置されていた。
窓もある。
ハルキは、まずそこを見た。
外には、青白い都市の光が広がっていた。
月面居住区。
端末の隅に、そう表示されている。
遠く、黒い空の向こうに、地球の曲面が浮かんでいた。
青い。
だが、近くはない。
窓の表示には、地球圏概況が短く重なっている。
地表:アラミタマ制圧域。
人類残存反応:記録なし。
月側再侵入作戦:継続中。
ハルキは、それを見た。
知っているはずのない星だった。
なのに、何も感じないわけではなかった。
「こちらが、ハルキさんの当面の生活区画になります」
「当面、ですか」
「はい。状態が安定し、行政判断が更新されるまでです」
「どのくらいで安定するんですか」
「行政判断によります」
アルシアの声は穏やかだった。
言っている内容は、相変わらず柔らかくない。
ハルキは部屋を見渡した。
広い。
清潔。
必要なものは揃っている。
そして、逃げ道らしいものは見当たらない。
「ハルキさんのお部屋は右奥です。個人端末はすでに暫定設定済みです。利用できる範囲は、先ほどご説明した通りです」
「基本的な情報閲覧まで、ですね」
「はい。生活には支障ありません」
生活には。
その言い回しが、また引っかかった。
ハルキが答える前に、共有空間の奥から物音がした。
「来た?」
明るい声だった。
ハルキが顔を向けると、ひとりの女性が共有テーブルの向こうから身を乗り出していた。髪は軽く整えられ、表情は開いている。警戒より先に笑顔が来る人だった。
けれど、目だけが一瞬止まった。
ハルキを見て、ほんの短い間、何かを探すように。
その空白はすぐに消えた。
「あなたがハルキ?」
「あ、はい」
「ハルキでいいよね? 私もユイでいいから」
距離の詰め方が自然だった。近すぎるのに、押しつけがましくはない。ハルキが戸惑っていることも分かったうえで、あえて軽くしているように見える。
「……初対面、ですよね」
ハルキが言うと、ユイは一度だけ瞬きをした。
「たぶんね。たぶんって言うのも変だけど」
そう言って、少し笑った。
その笑い方には、明るさと同じくらい、説明できない空白が混ざっていた。
「ユイさんも、エランテスなんですか」
「うん。分類上はそうらしいよ。高価値ってつくと、なんか値札みたいでやだよね」
「それは、少し分かります」
「でしょ」
ユイは頷き、それから共有空間の奥へ視線を向けた。
「マルコ、新入りさん来たよ」
「聞こえてる」
奥の端末スペースから声が返った。
先に目に入ったのは、派手な金髪だった。
白く整いすぎた部屋の中で、その男だけが少し浮いている。目つきは悪い。笑い方も、行儀がいいとは言いにくい。長いコートの裾には、工具じみたものがいくつも下がっていた。
けれど、怖くはなかった。
男は端末から顔を上げると、軽く手を振った。
「新入りか。ようこそ、快適すぎて落ち着かない部屋へ」
ユイがすぐに言った。
「マルコ、言い方」
「事実だろ」
マルコと呼ばれた男は、端末の表示を閉じた。閉じる直前、ハルキにはいくつかの管理項目が見えた。
通信権限。
室内環境。
端末ログ。
マルコはそれを、ただ眺めていたわけではなさそうだった。
「マルコ」
男は自分を指した。
「それだけ?」
ハルキが聞くと、マルコは肩をすくめた。
「残念ながら、それだけ。姓と記憶は、現在在庫切れだ」
「在庫切れ」
「ないもんはない。言い方くらい軽くしねえと、やってられないだろ」
軽い。
けれど、軽いだけではなかった。
マルコはハルキを見ている。顔色、姿勢、言葉の詰まり方。その全部を拾っているように見えた。
アルシアが共有空間へ入ってくる。
「皆さん、改めてご紹介します。こちらが本日から同じ保護居住区で生活される、ハルキさんです」
「行政上は共同保護観測、だっけ?」
マルコが言った。
アルシアは微笑む。
「正確には、エランテス保護対象者の共同生活区画です」
「ほら、言い方がもう怖い」
「怖がらせる意図はありません」
「アルシアちゃんはそうだろうけど、言葉の方にその気があるんだよ」
アルシアは少し困ったように笑った。
本当に困っているのか、対応としてそうしているのか、ハルキには分からない。
「生活上の基本条件は、個人端末に表示されています」
アルシアがそう言うと、ユイが横から補足した。
「最初は全部読まなくていいよ。長いから。大事なのは、区画の外に出る時は申請、端末の通信は制限つき、毎朝検査。だいたいその三つ」
「だいたいで説明していい内容なんですか?」
ハルキが聞くと、マルコが笑った。
「読んでも同じだ。文章が増えるだけで、自由は増えねえ」
「マルコさん、表現が極端です」
アルシアが言う。
「じゃあ、間違ってるか?」
「大きくは」
「ほらな」
マルコは笑っていた。
けれど、視線は部屋の隅にある小さな発光点を拾っていた。ハルキには、それがセンサーなのか照明なのか分からない。
アルシアは説明を続けた。
「個室は三室。共有空間は自由に使用できます。食事は自動供給、または申請制のメニュー選択が可能です。体調管理のため、毎日一度、簡易検査を受けていただきます」
「検査は朝が楽だよ」
ユイが言う。
「後回しにすると、端末がずっと優しく催促してくるから」
「優しく?」
ハルキが聞く。
「うん。すごく優しく。だから逆にこわい」
「それは分かる気がします」
「でしょ」
ユイは笑った。
その横で、マルコが端末を軽く叩く。
「あと、部屋の環境設定は勝手にいじりすぎると注意される。いじるなら、ログが残らない範囲でやれ」
「やらない方がいい説明では」
「もちろん、やらない方がいい」
マルコは平然と言った。
アルシアは深く追及しなかった。
ただ、共有端末の設定欄を閉じた。
ハルキは、共有端末に残った自分の登録表示を見た。
暫定登録名:ハルキ。
姓:未確認。
「そこ、私も同じ」
ユイが軽く手を上げた。
「マルコも?」
「残念ながら。姓なし三人組、なかなか縁起悪いな」
マルコは笑った。
ユイも笑った。
ハルキも、少しだけ息を吐いた。
自分だけではない。
その事実には、少しだけ救われた。
だが、三人とも同じだということは、異常が自分ひとりの中で完結していないということでもある。
「二人は、俺のことを知ってるんですか」
ハルキは聞いた。
ユイは首を横に振った。
「知らない、と思う」
「思う?」
「ごめん。断言できない。記憶がないから」
マルコも肩をすくめる。
「オレも知らねえ。少なくとも、思い出せる範囲ではな」
「思い出せる範囲」
ハルキが繰り返すと、マルコは口の端を上げた。
「記憶喪失同士で断言なんかすると、後で恥かくかもしれねえだろ」
「それは、確かにそうですね」
ハルキはそう答えた。
ユイが、二人を見比べる。
「その敬語、やめない?」
「え」
「三人で暮らすのに、ずっと敬語って疲れない?」
マルコが横から言った。
「少なくともオレは疲れる。あと、敬語で記憶喪失同士の自己紹介されると、病院感がすごい」
ハルキは少しだけ息を吐いた。
「じゃあ、普通に話す」
「うん。それでいい」
ユイは満足そうに頷いた。
アルシアは、三人の様子を見てから一礼した。
「初日のご説明は以上です。追加のご質問は、共有端末からいつでも送信できます。私が確認できる範囲で対応します」
「アルシアちゃん、確認できない範囲は?」
マルコが聞く。
「確認できません」
「正直でよろしい」
「ありがとうございます」
アルシアは柔らかく微笑んだ。
「では、私は一度失礼します。リディアさんは護衛として外に待機しますので、何かあれば声をかけてください」
リディアが短く頷く。
アルシアが退室すると、扉は音もなく閉じた。
部屋には、三人が残った。
正確には、三人だけではない。
扉の外に、リディアがいる。
だが、共有空間の空気は少し変わった。説明する人間がいなくなり、制度の言葉も消えた。残ったのは、名前しかない三人だった。
最初に沈黙を破ったのはユイだった。
「じゃあ、改めて。私はユイ。姓なし。記憶もだいぶ怪しい。今は解析部署で、客員みたいなことをしてる」
「客員?」
ハルキが聞く。
「正式な肩書きはあるけど、長いから省略。今は解析部署で、数字とにらめっこする係」
「数字とにらめっこ」
「勝てたことはないけどね」
「仕事になってんのか、それ」
マルコが言うと、ユイは胸を張った。
「負けを認めてからが解析です」
「言い方だけは強いな」
マルコが続いた。
「マルコ。姓なし。記憶なし。オレは技術系の部署で雑用兼便利屋」
「便利屋」
「聞こえは悪いが、だいたい合ってる。端末を見て、壊れそうなものを直して、壊したやつの言い訳を考える仕事だ」
「それ、最後のは仕事なのか?」
「大事な仕事だ。誰かが言い訳しないと、現場が止まる」
ユイが笑った。
ハルキは少し考えてから、自分を指した。
「ハルキ。姓なし。記憶なし。担当は……まだ未定」
「そこもすぐ何か振られるよ」
ユイが言った。
「この街、空白を見るとすぐ埋めたがるから」
その言い方は軽かった。
だが、ハルキには少しだけ重く聞こえた。
空白。
自分の中にも、それはある。
名前の前。昨日の前。ここに来る前。
そこを、この街は何かで埋めようとしている。
会話が一度途切れた時、ユイが入口の方を見た。
「リディアは入らないの?」
返答は、少し遅れて届いた。
「私は護衛任務中」
声は扉の向こうからだった。
「なら、なおさら中にいた方がよくない? 何かあった時、外より早く動けるでしょ」
数秒の沈黙の後、扉が開いた。
「……許可は出ている」
リディアはそう言って、部屋に入った。
「じゃあ決まり。ここ、椅子あるよ」
ユイは当たり前のように、空いている席を指した。
リディアは椅子の横で止まる。
「座らないの?」
「座れば反応が遅れる」
「外にいるよりましでしょ?」
その返しに、マルコが小さく吹き出した。
「正論だな」
リディアはマルコを見た。
それから、椅子を見た。
「……合理性はある」
そう言って、リディアは浅く腰を下ろした。
ユイは満足そうに頷いた。
「うん。やっぱりその方がいい」
ハルキはユイを見た。
あの白い場所で刃を向けていた相手を、ユイは当たり前のように部屋へ呼んだ。
怖がるでもなく、特別扱いするでもなく。
ただ、外にいるから中へ呼んだ。
それだけのことのように。
リディアは椅子に座ったまま、背筋を伸ばしている。休んでいるというより、座位で待機していると言った方が近い。
それでも、出ていきはしなかった。
その事実だけが、部屋の空気を少し変えた。
ハルキは、共有テーブルの上に残った表示を見た。
暫定登録名。
姓、未確認。
分類、高価値エランテス。
取扱、保護観測対象。
三人とも、名前しかない。
それでも今、この部屋には名前を呼べる相手がいた。
ハルキ。
ユイ。
マルコ。
リディア。
どれも、まだ薄い。
意味も、過去も、約束もない。
けれど、白い部屋の中で、その音だけは少しずつ場所を持ちはじめていた。
その夜。
共有空間の照明が落ち、窓の外に月面都市の光だけが残った後、ユイは一人で天井を見ていた。
探していた。
ずっと。
誰を、と聞かれれば答えられない。
記憶にはない。
名前も、顔も、約束も残っていない。
けれど今日、胸の奥が少しだけ静かになった。
その感覚に、まだ名前はなかった。
第3章を読んでくださりありがとうございます。
ハルキ、ユイ、マルコ。
三人とも姓を持たず、記憶も欠けている。けれど、完全な他人とも言い切れない。
ここから、三人の共同生活と、月の社会の内側が少しずつ見えていきます。
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