表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
その果てに、月は神を観る 〜記憶を失った青年と兵器少女は、滅びた地球の真実へ降りる〜  作者: 大導ユウ
第2章 記憶を持たない男

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/26

第2話 記憶を持たない男

第2章 記憶を持たない男


 目を開けた時、ハルキはまず天井を見た。


 白い。


 継ぎ目がない。


 照明は柔らかく、眩しすぎない。空調の音はほとんど聞こえず、壁の内側から低い振動だけが伝わってくる。


 安全な場所だ。


 そう判断しかけて、やめた。


 安全な場所なら、なぜ扉に取っ手がないのか。


 ハルキは上体を起こそうとした。


 身体が重い。右肩、脇腹、膝に鈍い痛みがある。打撲に近い。骨折はしていない。少なくとも、そういう感覚だった。


 手は動く。


 指も動く。


 呼吸に異常はない。


 視界も、少し霞む程度。


 問題は、身体ではなかった。


 ここがどこなのか。


 自分がなぜここにいるのか。


 その前に、自分がどこにいたのか。


 何も出てこない。


 白い天井を見ている。


 それだけが、確かな現在だった。


 ベッドの横で、薄い透明板が立ち上がった。文字が浮かぶ。


 身体損傷、軽微。


 神経反応、正常範囲。


 エーテル反応、未登録。


 記憶領域、広範囲欠落。


 所属照合、該当なし。


 表示された文字列を、ハルキは読めた。


 読める。


 意味も分かる。


 だが、なぜ分かるのかが分からない。


 端末は、彼の視線を認識したように次の画面へ移った。


「覚醒を確認しました」


 声がした。


 人の声に似ているが、人ではない。柔らかく調整された自動音声。


「現在、あなたはセレーネ管理医療区画にて保護されています。身体状態に重大な異常は確認されていません。混乱がある場合は、呼吸を整え、そのまま待機してください」


 ハルキは壁を見た。


 セレーネ。


 その語には覚えがない。


 それなのに、まったく知らない言葉だとも思えなかった。


 意味だけが届いて、記憶がついてこない。


「質問に答えられますか」


「……たぶん」


 自分の声は、掠れていた。


「登録名を確認します。お名前を」


 名前。


 そこだけは、すぐに出てきた。


「ハルキ」


「ハルキ。確認しました。姓は」


 答えようとした。


 その瞬間、喉の奥で何かが止まった。


 名前の前にあるはずのもの。


 誰かに呼ばれていたはずの音。


 書類に記されていたはずの形。


 そこだけが、抜けている。


 ハルキは口を開いたまま、何も言えなかった。


 端末の文字が、静かに点滅する。


 姓は。


「……分かりません」


 音にすると、空白が形を持った。


 端末は責めなかった。


 驚きもしなかった。


 ただ、記録した。


 登録名:ハルキ


 姓:未確認


 出現事象:クロノ・シフト疑い


 分類:高価値エランテス


 取扱:保護観測対象


 ハルキは、その表示を見ていた。


 自分の名前はある。


 だが、自分につながるものがない。


 ベッドの横で、扉が音もなく開いた。


 ハルキは反射的に身体を引いた。


 動きは鈍い。だが、身構える程度には間に合った。


 入ってきたのは、白い制服を着た女性だった。


 彼女はすぐには近づかなかった。


 扉の前で一度足を止め、ハルキが身構えていることを確かめてから、ゆっくりと一礼する。


「お目覚めになりましたね。ハルキさん」


 声は柔らかかった。


 少なくとも、敵意は見えない。


「あなたは」


「アルシア・ルーメンです。暫定保護手続きと、今後の生活案内を担当します」


 言葉は丁寧だ。


 だが、内容はすぐには飲み込めない。


「生活案内、ですか」


「はい。ハルキさんの身柄は、現在こちらで保護しています」


 アルシアは、ハルキの反応を待ってから続けた。


「ただ、行政上の登録がまだ追いついていません。少し乱暴な言い方をすると、今のハルキさんは、この都市の記録上では“存在していない方”になります」


 ハルキは黙った。


「……それは、安心していい説明ですか」


 アルシアは、困ったように眉を下げた。


「言い方がよくありませんでしたね。正しくは、現行行政体系上では存在を確認できない状態です」


「だいぶ印象が違います」


「はい。なので、そちらを正式な説明にします」


 そこは直すのか。


 ハルキは、息を吐いた。


 身体の力が少し抜けたのは、安心したからではない。相手の調子に、判断の焦点をずらされたからだ。


 アルシアは端末に別の表示を出した。


「まず、ハルキさんは暫定的にエランテスとして分類されます」


「エランテス」


「はい。通常の時間登録、空間登録、行政登録のいずれにも接続できない、由来不明の漂着者を指す分類です」


「俺が、そうだと」


「発見時の出現経路、未登録エーテル反応、所属照合不一致、記憶欠落の状態から、暫定的には」


「暫定的には」


「はい。確定には追加検査が必要です」


 追加検査。


 言葉そのものは穏当だった。


 だが、ハルキの中で別の語が重なる。


 観測。


 なぜその言葉が浮かんだのか、自分でも分からない。


「検査は拒否できますか」


「一部は可能です」


「一部」


「生命維持、異常反応監視、外部干渉防止に関わる項目は、保護規定上、継続されます」


「それは拒否できないという意味では」


「保護のためです」


 アルシアは真面目にそう言った。


 ハルキは扉を見た。


 相変わらず取っ手はない。


「外には出られますか」


「状態が安定すれば、保護居住区へ移送されます」


「この部屋の外には」


「医療区画内であれば、職員同行のもとで移動可能です」


「一人では」


「現時点では推奨されません」


「禁止ではない?」


 アルシアは少しだけ考えるように間を置いた。


「実質的には、禁止に近いです」


 丁寧だった。


 嘘も少ない。


 それがかえって、不安を増やした。


 ハルキはベッドから足を下ろした。立ち上がろうとして、わずかにふらつく。壁に手をつく前に、床面が柔らかく反発した。


 身体は動く。


 部屋も助けてくれる。


 すべてが、親切にできている。


 だが、その親切は、こちらの意思より先に動く。


「急がなくて大丈夫です」


 アルシアは言った。


「立てるかどうかの確認も、保護手続きの一部です。無理に動く必要はありません」


「手続きなんですね」


「はい。ただ、ハルキさんが不安になるようなら、少しずつで構いません」


 その一言は、端末の自動音声よりずっと人間に近かった。


「外部通信は」


「状態が安定するまで制限されます」


「移動範囲は」


「保護区画内であれば自由です」


「保護区画の外は」


「申請制です」


 自由という言葉は、どこにもなかった。


 アルシアは端末を閉じ、別のファイルを開いた。


 そこには、先ほどより簡潔な表示が並んでいる。


 暫定登録名:ハルキ


 姓:未確認


 分類:高価値エランテス


 取扱:保護観測対象


 ハルキは、最後の行で目を止めた。


「保護観測対象」


「はい」


「保護と観測は、同じ項目ですか」


「近い項目です」


「近い」


「少なくとも、現時点では」


 アルシアは、安心させるように微笑んだ。


 悪意は見えない。


 それが、この世界の怖さなのかもしれない。


「ここから先は、保護居住区へ移動していただきます」


 アルシアは、少し声をやわらげた。


「移動中は、リディアさんが同行します」


 扉が再び開いた。


 今度は、空気が変わった。


 入ってきたのは、あの白い演習場で見た人物だった。


 外見だけなら、普通の人間と変わらない。


 顔も、手も、呼吸も、機械には見えない。


 だが、白い簡易装甲の内側で、姿勢に緩みがなかった。視線はまっすぐで、余計な表情がない。


 リディア・プロクシスIX。


 兵士型人工人類プロクシス。


 あの白い床の上で、自分に刃を向けた相手。


 そして、振り下ろさなかった相手。


 リディアは、扉の前で足を止めた。


「保護対象ハルキ。移送時の護衛を担当します」


 声は平坦だった。


 あの時に聞いた声と同じだ。だが、今は刃を向けられていない。


 アルシアが横に立つ。


「リディアさんは、サラ博士のご指示で、保護対象エランテスの護衛に就くことになりました」


「護衛」


 ハルキはリディアを見た。


「俺のため、ですか」


 アルシアは柔らかく首を振った。


「正確には、ハルキさんたちのために、です」


「……たち?」


「詳しいご説明は、居住区に到着してからになります」


 また、答えが先送りされた。


 ハルキは、リディアへ視線を戻す。


 少し迷ってから、言った。


「あの時、刃を下ろしてくれた人ですよね」


「敵性反応が確認されませんでした。排除条件を満たしていなかっただけです」


「それでも、助かりました」


「感謝は不要です」


 短い返答だった。


 アルシアが、そこで柔らかく微笑んだ。


「リディアさん。今後は保護区画での護衛が中心になります。ハルキさんが緊張しすぎないよう、通常会話で構いませんよ」


 リディアは一度だけアルシアを見た。


「了解しました」


 それから、ハルキへ視線を戻す。


「……敬語は、必要ない」


 ハルキは少しだけ肩の力を抜いた。


「分かりました。俺も、その方が助かります」


「なら、そうして」


 その短さが、かえって分かりやすかった。


 アルシアは、二人のやり取りを邪魔しなかった。


 ただ、ハルキが呼吸を整えるのを待ってから、端末に次の表示を出す。


「ハルキさんの保護居住区は、すでに準備されています。生活に必要なものは一通り揃っています。端末権限も暫定付与されますので、基本的な情報閲覧は可能です」


「基本的な、ですか」


「はい。高度機密、軍事機密、医療機密、行政機密、個人情報保護対象記録を除きます」


「ほとんど見られないのでは」


「生活には支障ありません」


 生活。


 自分に、その言葉があることが奇妙だった。


 名前の半分もない。昨日の記憶もない。どこから来たのかも分からない。


 それでも、この世界は手続きを進める。


「高価値、というのは」


「保護優先度が高い、という意味です」


「なぜ、そう判断されているんですか」


「現時点では、説明権限がありません」


「アルシアさんでも?」


 アルシアは少しだけ困ったように笑った。


「私でも、です」


 その言い方が不思議だった。


 権限がない。


 知らない、ではない。


 ハルキはそれ以上聞かなかった。


 聞いたところで、答えは同じ形で返ってくる気がした。


 アルシアが扉へ向かうと、扉は自然に開いた。外には白い通路が続いている。壁面には案内表示がなく、必要な時だけ文字が浮かぶ構造らしい。


 リディアが先に出た。


 護衛。


 そう言われれば、その配置は自然だった。


 だが、ハルキには別の言葉にも見える。


 監視。


 ハルキは歩き出した。足元はまだ少し不安定だったが、通路の床が歩幅に合わせてわずかに反発を変える。


 身体を支えられている。


 逃げ道を消されている。


 どちらとも取れる。


「ハルキさん」


 アルシアが、横から声をかけた。


「はい」


「一点だけ、先にお伝えしておきます」


 嫌な予感がした。


「ハルキさんと同じ分類の方が、すでに二名いらっしゃいます」


 同じ分類。


 その言葉が、妙に引っかかった。


 ハルキは立ち止まりかけた。


 リディアが前方で振り返る。


「大丈夫?」


 短い言葉だった。


「……たぶん」


 ハルキはそう答えた。


 たぶん。


 自分の状態を説明するには、ずいぶん頼りない言葉だった。


 救われたのか。


 捕まったのか。


 その違いを、この世界はまだ教えてくれなかった。


第2章を読んでくださりありがとうございます。

ハルキは保護されたのか、それとも管理されたのか。

月の社会では、その境界が少し曖昧です。


次章では、ハルキと同じように記憶を欠いた者たちが登場します。

続きが気になると思っていただけましたら、評価・ブックマークで応援していただけると励みになります。


Xでは設定断片や制作メモも公開しています。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ