第1話 月と太陽
第1部 白い檻、青い星
第1章 月と太陽
4598年12月22日。
セレーネ覇権機構、月面軍事演習場。
白い隔壁に、演習概要が表示されていた。
対アラミタマ想定演習。
地球圏再侵入経路の確保。
旧地表拠点奪還時における、兵士型人工人類プロクシスの単独戦闘適性評価。
リディア・プロクシスIXは、その表示を見上げた。
任務名。
敵性分類。
投入個体。
そこに、自分の名があった。
演習場に、人間の声は少なかった。
命令。応答。停止。
その三つだけが、白い壁に反射している。
天井には、地球の空を模した疑似大気が投影されていた。雲の流速、光量、散乱角度。すべて規定値内。青は正確で、光は柔らかく、風の音まで再現されている。
だが、リディアは、それを空として処理していなかった。
視界に表示されるのは、色ではない。
距離。速度。軌道。反応値。
対アラミタマ想定個体、三体。
距離、二十七。
敵性照合、成立。
交戦許可。
リディアは踏み込んだ。
床面がわずかに沈み、人工重力の補正が遅れる。その遅れを、右脚の出力で潰した。想定個体一体目が右側面から接近。腕部ブレードを展開。速度、規定値より三パーセント上振れ。
問題なし。
リディアは首を狙わなかった。
関節を断つ。
白い床に、黒い破片が散った。
二体目は背後。
振り返らない。
反応値だけで位置を取る。左足を軸に、刃の軌道を半歩ずらした。接触。火花。想定個体の腕が弾かれ、胴体の駆動部が露出する。
沈黙。
三体目は上から来た。
リディアは視線を上げた。
必要なかった。
だが、上げた。
疑似空の青を裂くように、黒い機影が落ちてくる。直撃すれば、通常プロクシスなら防御動作を選ぶ。
リディアは、前へ出た。
落下軌道の内側に入り、刃を寝かせる。重力と質量を正面から受けない。側面へ流す。床が軋み、白い装甲片が弧を描いて散った。
三体目、機能停止。
演習場に、短い電子音が鳴った。
交戦終了。
損耗率、三・二パーセント。
想定敵制圧、完了。
リディアは刃を下ろした。
周囲のプロクシスたちは、同じ姿勢で停止していた。観測用の照明が、白い装甲を均一に照らす。汗はない。息の乱れもない。傷は記録され、損傷は数値化される。
それで足りる。
演習場の上層、透明な観測隔壁の向こうに、人影があった。
サラ博士。
その呼称だけが、リディアの記録の中で、肩書きよりも古い。
観測席の光が、横顔に薄く重なっている。
彼女が見ているのは、リディアではない。
少なくとも、視線はそう見える。
反応値。
同期率。
損耗率。
判断遅延。
リディアという個体は、数値の束としてそこに表示されている。
「観測を継続してください」
サラ博士の声が、演習場に落ちた。
「了解しました」
リディアは答えた。
必要条件を満たす応答だった。
次の想定個体が起動する。
五体。
対複数戦。
想定難度、上昇。
リディアは刃を構え直した。
一体目が前へ出る。二体目は右側。三体目は待機。四体目と五体目は左右の壁面を蹴って高度を取る。連携の質は、先ほどより高い。
それでも、届かない。
リディアは一体目を受けず、斜めに抜けた。二体目が追従する。追従速度、想定より速い。右肩部へ衝突予測。回避ではなく、踏み込みを選択。
黒い駆動腕が、リディアの頬をかすめた。
警告。
表皮損傷、軽微。
問題なし。
刃が二体目の駆動軸を断つ。三体目が動く前に、リディアは距離を詰めた。四体目、五体目が上空から同時に落ちる。
白い床。
黒い影。
人工の空。
リディアは、そのすべてを分解して見ていた。
敵ではないもの。
敵であるもの。
動くもの。
止めるもの。
判断は速く、余白は少ない。
それが、正しい。
四体目の落下軌道をずらし、五体目を巻き込ませる。衝突。二体の仮想質量が互いに干渉し、制御が乱れた。
沈黙。
停止。
記録。
五体、制圧完了。
リディアは刃を下ろした。
その直後、右腕の兵装に警告が走る。
同期遅延、〇・三秒。
刃部出力、規定値下限へ低下。
エーテル負荷、許容値超過。
リディア自身に損傷はない。
呼吸も乱れていない。
反応速度にも低下は見られない。
支障が出ているのは、身体ではなかった。
手元の刃だ。
リディアは、その先端を見た。
白い照明の下で、薄い亀裂が一本だけ走っている。
戦闘継続は可能。
ただし、次の高負荷演習では破断率が上がる。
観測官の声が落ちた。
「L-IX、想定負荷下で反応値安定。標準兵装に同期遅延」
短い沈黙。
観測席の奥で、サラ博士は表示を見たまま言った。
「観測を継続してください」
「了解しました」
リディアは、刃を構え直した。
刃が遅れるなら、その遅れを計算に入れればいい。
それだけのことだった。
次の想定が来る。
そう処理した。
だが、演習場中央の空気が変わった。
最初に変化したのは、光だった。
疑似大気の青が、わずかに歪む。雲の流速が乱れ、天井投影に細い亀裂のような影が走った。演習場の警告表示が赤に変わる。
異常反応。
リディアは刃を構えた。
アラミタマ想定個体ではない。
演習システムの起動反応でもない。
警告表示が、赤から白へ切り替わった。
未登録エーテル反応。
敵性照合、失敗。
空間位相、異常。
クロノ・シフト反応、検出。
その言葉の意味を、リディアは完全には処理しなかった。
処理する必要がなかった。
目の前で、演習場中央の空間が裂けた。
音はなかった。
ただ、白い床の上に影が落ちる。
光が歪み、空気が折れ、そこに一人の青年が倒れ込んだ。
武装反応なし。
所属識別なし。
装甲なし。
年齢推定、二十代前半。
外傷、軽微。
意識、混濁。
周囲のプロクシスが、一斉に排除姿勢へ移行した。
刃が向けられる。
照準が重なる。
命令待機。
リディアも刃を向けた。
対象は動かない。
黒髪。
薄い呼吸。
セレーネ登録該当なし。
敵性反応、不一致。
リディアは対象を見た。
倒れた青年は、白い床に片手をついて身体を起こそうとしていた。手のひらが震えている。周囲の刃を見ているのか、それとも見えていないのか、視線は定まらない。
排除条件を確認。
所属不明。
侵入経路不明。
エーテル反応未登録。
ただし、敵性照合は成立しない。
排除命令は、まだ成立していない。
「対象を制圧してください」
観測席から声が落ちた。
サラ博士ではない。観測官の声。
制圧。
排除ではない。
リディアは一歩前へ出た。
青年が顔を上げた。
瞳孔反応、正常。
恐怖反応、あり。
敵対姿勢、なし。
「動かないで」
リディアは言った。
青年の視線が、彼女に合った。
理解した反応ではない。
ただ、刃を向けている対象の中で、唯一声を出したものを見た。そういう反応だった。
「識別を」
青年は、唇を動かした。
音にならない。
リディアは刃の角度を変えた。喉ではなく、肩の外側。即時停止は可能。ただし、致命傷にはならない位置。
「名前」
青年は息を吸った。
「……ハルキ」
声はかすれていた。
周囲のプロクシスが、一段階前へ出る。
対象の識別は不完全。所属不明。侵入事象は異常。排除判断に移行するには、十分な材料がある。
十分ではない。
リディアは刃を下ろさなかった。
だが、振り下ろしもしなかった。
「サラ博士」
観測席へ通信を開く。
「対象の敵性反応は不一致です。排除条件を満たしていません」
短い沈黙が返った。
観測席の奥で、サラ博士はまだ表情を変えていなかった。
ただ、彼女の視線は、リディアではなく青年に向いている。
「判断を記録してください」
それだけだった。
許可ではない。
命令でもない。
観測の継続。
リディアは、そう処理した。
「対象を保護隔離する」
周囲のプロクシスが停止した。
一部の照準が解除される。
演習場の警告音が低くなる。
完全な安全状態ではない。ただし、即時排除は解除された。
青年――ハルキは、まだ床に座り込んでいた。
自分が殺されなかったことを理解しているのかどうかも分からない。
リディアは近づいた。
「立てる?」
ハルキは答えなかった。
視線だけが動く。
白い床。
白い壁。
疑似大気の青。
観測席の光。
そして、リディア。
「ここは……」
声は小さかった。
「セレーネ軍事演習場。あなたは未登録対象として保護される」
説明としては足りない。
だが、今必要な情報はそれだけだった。
ハルキは、天井を見上げた。
そこには、正確に再現された青い空がある。
雲の流速も、光量も、散乱角度も、規定値内。
ハルキはその空を見て、何かを探すように目を細めた。
「……月、じゃない」
意味は不明。
演習記録上の重要度も、まだ低い。
対象の混濁による発話として処理してもよい。
削除しても、任務遂行に支障はない。
それでもリディアは、その言葉だけを削除できなかった。
第1章を読んでくださりありがとうございます。
ここから、リディアが排除しなかった青年ハルキを中心に、月の社会と地球をめぐる物語が少しずつ動き始めます。
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