第52話 アウェイク
音が消えた場所へ、ガイウスが防護圏を置いた。
黒い拳が来る。
見えてからでは遅い。
だが、今は見える前に分かる。
エリスが残した無音域が、リディアの視界に薄く重なっている。
拳が来る前に、空間が沈む場所。
そこへ、ガイウスの盾が滑り込んだ。
衝撃。
通路が鳴る。
今度は、ガイウスの身体は飛ばなかった。
防護圏が、黒い拳を受け止めている。
いや、違う。
止めきってはいない。
ガイウスの足が床を削る。右腕外装の割れ目から、白い火花が落ちた。
「リディア」
「聞こえている」
「今の一瞬だけだ」
「十分」
リディアは踏み込んだ。
ネクタル・パッチの痛みは、まだ身体の中に残っている。
左肩が動くたび、焼けた線が背中まで走る。
腹部装甲の奥で、呼吸が引っかかる。
脚部接続は、一歩ごとに白く軋む。
だが、エリスの音がある。
オハバリの肘が沈む。
膝が開く。
肩の青白い光が、一拍だけ遅れる。
リディアはそこへ刃を入れた。
黒い外装に火花が散る。
浅い。
断てない。
一太刀目は入った。
位相も拾えた。
断てるはずだった。
なのに、二太刀目で断てない。
リディアは刃を引きながら、ようやく理解する。
断てなかったのではない。
断つ場所が消えていた。
一太刀目で取得した位相が、二太刀目の前に変化している。
読んだ情報そのものが失効している。
だから《タケミカヅチ》でも断てない。
黒い外装の奥で、何かが組み替わる気配がした。
リディアの刃と、ガイウスの防護が、一拍だけ噛み合った。
『進行停止、継続』
オハバリが告げる。
声は変わらない。
次の瞬間、黒い脚が床を踏んだ。
無音域が、広がる。
見える。
エリスが残した補助線が、踏み込みの始点を示している。
さっきまで何も分からなかった。
今は違う。
拳が来る前に空間が沈む場所も、膝が上がる前のわずかなずれも拾える。
だから避けられる。
だから防げる。
だから戦える。
――それだけだった。
リディアは刃を構えたまま理解する。
倒す方法がない。
ガイウスも限界が近い。
自分もネクタル・パッチで無理やり立っているだけだ。
時間が経つほど不利になるのは、こちらだった。
オハバリは変わらない。
進行停止を続けるだけだ。
こちらだけが削られていく。
その事実が、端末表示より先に胸の奥へ沈んだ。
「来るぞ」
ガイウスが言う。
痛みを押し込んだ声だった。
「防護対象、継続」
ガイウスの防護圏が形を変える。
《カウンスウェル・パルス:展開》
《反衝防護:成立》
《境界保持:二十二秒》
《使用者負荷:急上昇》
黒い拳が、防護境界の前で止まった。
初めて、完全に止まった。
リディアはそれを記録する。
止まっている。
だが、ガイウスの右腕が震えている。
肩部接続が白く焼ける。
膝が落ちかける。
ネクタル・パッチが無理に戻した身体が、もう限界を迎え始めている。
防げているのではない。
削られながら、止めている。
「長くは」
「持たない」
ガイウスが先に言った。
リディアは頷かなかった。
頷けば認めることになる。
倒す答えが見つからない。
刃を入れても断てない。
読んでも追いつかない。
このままでは、また誰かが先に落ちる。
焦燥だけが胸の奥で熱を持つ。
それでも立ち止まる時間はない。
頷く時間を、刃へ回した。
*
ハルキの端末が白く鳴った。
音ではない。
表示が開いた。
《局所保守アクセス要求》
《ユグドラシル・コア中枢端末:部分応答》
《遠隔解析:失敗》
《外部通信:遮断継続》
ハルキは端末を握り直した。
さっきまで消えかけていた線が、今だけ残っている。
リディアたちの戦闘反応ではない。
敵性反応でもない。
もっと奥。
中枢の底から、こちらを見ているような応答。
「外からじゃ駄目だ」
ハルキは小さく呟いた。
戦うためではない。
読むために。
ゼノは黙っていた。
左眼の補助視界だけが、ハルキの端末表示を拾っている。
「ゼノ司令」
ハルキは振り返った。
「許可を」
ゼノは、すぐには答えなかった。
止める理由ならある。
いくつもある。
だが、行かせる理由は一つしかない。
そこにしか線がない。
「帰ってこい」
ゼノの声は低かった。
「あいつらと一緒に」
「はい」
ハルキは保守通路へ向かった。
ゼノは呼び止めない。
その背中を見送るだけだった。
苦い判断だと、互いに分かっていた。
*
リディアの視界に、補助線が揺れる。
エリスの音。
ガイウスの防護。
自分の刃。
三つはまだつながっている。
だが、弱い。
《カウンスウェル・パルス:境界保持低下》
《使用者負荷:限界接近》
ガイウスの呼吸が乱れた。
オハバリは、止められた拳を引かない。
押し続けている。
力任せではない。
進行停止を維持するための圧力。
ガイウスの右腕が、さらに沈む。
「離れろ」
リディアが言った。
「無理だ」
「命令」
「今は、聞けない」
ガイウスの声が低くなる。
「防護対象を、俺が設定した」
防護圏が震える。
オハバリの肩が沈む。
次の打撃が来る。
エリスは動かない。
ガイウスは持たない。
≪タケミカヅチ≫は通じない。
残った選択肢が、白く消えていく。
《エリス:戦闘継続不能》
《ガイウス:カウンスウェル・パルス限界接近》\
まただ。
その照合だけが、遅れて開いた。
第Ⅸ世代。
アウルス。
イオナ。
エリス。
ガイウス。
名前が順に並ぶ。
削除できない。
処理できない。
このままでは、また残る。
リディアは息を吸おうとした。
痛みが先に来た。
腹部が軋む。
左肩が焼ける。
脚が震える。
それでも、刃だけが遅れなかった。
《タケミカヅチ》の奥で、何かが応えた。
白い脈。
地下深部から、細く返ってくる。
《地下深部応答:安定化》
《局所保守アクセス:維持》
《タケミカヅチ同期値:上昇》
《エーテル適合率:上昇》
エーテルの流れが変わった。
そう判断する前に、刃が反応した。
リディアの前に、白い残響が立つ。
少女がいた。
知らない少女のはずだった。
けれど、刃はその輪郭を拒まなかった。
少女は、静かにリディアを見た。
それでも、声だけが届く。
「あなたは、何を断ちたいの?」
敵の名ではない。
勝利条件でもない。
何を失いたくないのか。
何を残したいのか。
それだけを問う声だった。
リディアは答えようとして、言葉を失う。
オハバリを断つためか。
違う。
任務を達成するためか。
それも違う。
視界の奥に、名前が並ぶ。
アウルス。
イオナ。
エリス。
ガイウス。
消えない記録。
削除できない未処理。
また残る。
また、自分だけが残る。
その未来だけは、認められなかった。
「私は――」
痛みが走る。
それでも、リディアは刃を握り直した。
「失う未来を断ちたい」
声は震えていない。
「誰かが残される結末を断ちたい」
残響は何も言わない。
ただ、その輪郭だけが少し近づいた。
見るためではない。
断つために。
その意思に、刃が応えた。
《エーテル適合率:閾値超過》
音が消えた。
通路の鼓動も、オハバリの圧力も、ガイウスの呼吸も、全部が遠くなる。
《TAKEMIKAZUCHI / AWAKE》
《TRANSCENDENCE / LOCKED》
意識が追いつくより先に、身体が動いた。
オハバリの特殊エーテル装甲が再編する。
さっきと同じ。
一太刀目で読めば、二太刀目の前に場所が消える。
だから、二太刀目を待たない。
一太刀。
刃が入る。
触れた瞬間、もう断っていた。
黒い外装の奥で、青白い光が裂ける。
『防衛境界、低下』
オハバリの声が、初めて遅れた。
『進行停止要求、維持不能』
黒い人型が膝をつく。
破壊ではない。
停止でもない。
だが、防衛位相が落ちている。
《敵性位相:断裂》
《防衛境界:一時低下》
《進行停止要求:維持不能》
ガイウスの防護圏が崩れた。
彼は倒れかけ、床に片膝をつく。
リディアも、刃を振り切った姿勢のまま動けなかった。
痛みが戻ってくる。
音も戻る。
エリスの微弱な生命反応。
ガイウスの荒い呼吸。
オハバリの壊れたような駆動音。
そして、奥から別の応答が開いた。
*
保守通路の奥で、ハルキの端末が白く点いた。
《局所保守アクセス要求:承認》
《ユグドラシル・コア中枢端末:応答》
《遠隔解析:不可》
《内部接続:必要》
扉ではない。
それでも、道が開いた。
ハルキは端末の奥を見る。
古いログが、静かに展開されていく。
それは、戦場の答えではなかった。
この戦争が始まる前の、理由だった。
第21章はここで一区切りです。
エリスが残した音。
ガイウスが支えた防護。
ハルキが開いた奥への線。
そのすべてが重なって、リディアは初めて《タケミカヅチ》を通常の形から越えました。
ただし、これは終わりではありません。
開いたのは、戦場の答えではなく、この戦争が始まる前の理由です。
読んでいただき、ありがとうございます。
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