第51話 託す音
エリスは、境界の内側へ入った。
黒い人型個体が、一歩で間合いを消す場所だった。
《ノクティス・ライフル》は二つに分かれている。長い銃身の重さは消え、両手の中に短い反動だけが残った。
慣れた形ではない。
ヴェロニカなら、この距離で踏み込めた。
ブロンテなら、この距離で支えられた。
エリスは違う。
近接戦闘は、得意ではない。
リディア隊長が倒れた。
ガイウスも、膝をついたまま動けない。
その事実が、胸の奥で遅れて形になる。
強いはずの二人だった。
前で断つ者と、前で受ける者。
自分は、その後ろから音を拾い、射線を置く役だった。
その二人が、止められた。
なら、後ろにいる意味はもうない。
それでも、聞こえている。
オハバリが動く直前、空間の音が抜ける。
そこだけが、白く落ちる。
『進行停止、継続』
オハバリが告げた。
声に感情はない。
次の瞬間、黒い輪郭が前へ出た。
エリスは見ていない。
音が消えた場所から、半歩だけ身体を外した。
拳が頬の横を抜ける。
直撃ではない。
風圧だけで、皮膚感覚が白く欠ける。
エリスは右手を撃った。
拳が通った後に戻る、関節の音。
青白い火花が、オハバリの肘で散った。
止まらない。
オハバリは、火花の中から膝を上げる。
また音が抜ける。
今度は低い。
エリスは左へ倒れるように避け、左手の銃を撃つ。
弾は膝装甲を叩いた。
わずかに軌道がずれる。
それだけだった。
だが、それだけで直撃は避けられた。
エリスの足が床を滑る。姿勢が崩れる。近すぎる。次を狙う時間がない。
それでも、耳は追っている。
拳が来る場所ではない。
拳が来る前に、音が消える場所。
肩。
肘。
膝。
全部が、鳴る前に沈む。
その順番を拾う。
《サリエル・ユニット:観測補助》
《近接音響ログ:取得中》
表示が視界の端に走る。
取得中。
まだ足りない。
二人とも、まだ動けない。
なら、足りるまで聞くしかない。
オハバリの掌底が来る。
無音域が広い。
エリスは身体を捻った。
掌底の軌道から外れる。
黒い手が肩部をかすめた。
衝撃が肩まで抜け、視界が揺れた。
その前に、左手で撃つ。
弾丸がオハバリの肩関節へ入った。
一拍。
黒い腕が止まる。
エリスは、その一拍を記録した。
止められるのではない。
ずらせる。
倒せるのではない。
遅らせられる。
それでいい。
リディア隊長が立つために。
ガイウスが防護を置くために。
それだけ残せばいい。
《サリエル・ユニット:近接観測ログ圧縮》
《共有先:リディア/ガイウス》
《音響予測:不完全》
《無音域:補助表示》
エリスは承認を入れた。
*
左肩が上がらない。
脚部接続も遅れている。
このままでは立てない。
リディアは一度だけ目を閉じた。
未処理のまま、終われない。
指を動かす。
《ネクタル・パッチ:手動承認》
《損傷警告抑制:解除》
《痛覚抑制:一時解除》
《生体修復ナノ流体:高活性化》
《エーテル循環:戦闘域へ強制復帰》
一拍遅れて、痛みが来た。
数値ではない。
肩。
腹部。
脚部接続。
焼けるような痛みが、ばらばらにではなく、一つの塊になって身体を貫いた。
息が止まる。
立ち上がろうとした脚が震えた。
これまで損傷警告として処理されていたものが、初めて現実として返ってくる。
左肩は動かすだけで裂けそうだった。
腹部は呼吸のたびに軋み、脚部接続は体重を支えることすら拒んでいる。
こんな状態で、まだ戦えというのか。
痛みで鈍る思考の奥に、消えかけた記録が浮かび上がる。
まただ、とリディアは思った。
このままでは止められない。
エリスの反応は落ちている。
削除したはずの記録が、痛みに引きずられるように浮かび上がる。
アウルス。
イオナ。
名前だけが残った仲間たち。
胸の奥が冷える。
怖い、とは認識しない。
だが、視界の端で損傷表示が滲む。
ガイウスはまだ立てない。
エリスも長くは持たない。
このままでは、また誰かが消える。
リディアは息を吸えなかった。
左肩が焼ける。
腹部の奥で鈍い衝撃が何度も繰り返される。
脚を動かそうとしただけで、接続部から全身へ白い痛みが走った。
人間なら、その場で意識を失っていてもおかしくない。
視界が大きく揺れる。
膝が落ちそうになる。
《タケミカヅチ》の柄から指が外れかけた。
握力が抜ける。
吐き気に似た感覚が込み上げる。
それでも離さない。
離した瞬間、立てなくなる気がした。
隣ではガイウスも《ネクタル・パッチ》を起動し、膝をついていた。
「……っ」
短い息が漏れる。
右腕外装は砕けたまま。
肩部接続も焼けている。
ネクタル・パッチは治療ではない。
動ける場所まで無理やり戻す処置だ。
痛みだけが、人間のものになる。
リディアは壁へ手をついた。
立つ。
立たなければ終わる。
その時、視界の端でエリスの動きが止まった。
共有処理の表示が流れる。
オハバリが踏み込む。
音が消えた。
広い。
避ける場所がない。
エリスが両手を上げる。
二丁の銃が同時に鳴った。
火花が散る。
だが、止まらない。
掌底がエリスの胸部装甲へ突き刺さった。
衝撃。
壁が近づく。
背部装甲が割れ、左手の銃が床を滑った。
《エリス:観測帯域白化》
《音声応答:喪失》
《生命反応:微弱維持》
《戦闘継続:不能》
倒れながら、エリスは承認を入れた。
《サリエル・ユニット:近接観測ログ受信》
《送信元:エリス》
《音響予測データ:展開》
《無音域:補助表示開始》
何かが視界へ重なった。
オハバリが動く前に消える場所。
拳が来る前に沈む空気。
踏み込みが始まる前の短い無音。
音ではない。
補助線だった。
エリスが聞いていたもの。
エリスにしか拾えなかったもの。
届いた。
リディアの視界へ。
ガイウスの防護ログへ。
白く欠けていく意識の中で、エリスはかすかに口を開いた。
「……お願いします」
表示が白く滲む。
リディアは息を呑んだ。
エリスは動かない。
指先ひとつ。
視線ひとつ。
呼吸音も、通信越しの微かな雑音も届かない。
何も返ってこなかった。
リディアの胸の奥で、削除できない記録がまた開きかける。
間に合わなかった。
その言葉だけが、冷たく浮かんだ。
その代わり、残ったものがある。
薄い補助線。
無音域。
拳が来る前に音が抜ける場所。
エリスが送った観測ログだった。
ガイウスも気づいたらしい。
顔を上げる。
「見えるな」
「ああ」
リディアは短く答えた。
受け取っている。
エリスが残した音を。
オハバリが向きを変える。
『戦闘継続個体、二』
『進行停止要求、継続』
黒い人型が一歩前へ出た。
リディアは《タケミカヅチ》を構える。
腹部装甲は割れたまま。
左肩も重い。
強くなったわけでもない。
それでも立っている。
ガイウスが横へ並ぶ。
防護圏は薄い。
だが、その配置が変わっていた。
拳が来る場所ではない。
拳が来る前に音が抜ける場所。
そこへ置いている。
エリスが残した音を頼りに。
リディアは一歩前へ出た。
ガイウスが低く防護を展開する。
オハバリが踏み込む。
音が消えた。
今度は、その消えた場所を二人とも見ていた。
エリスは近接戦闘が得意なキャラクターではありません。
だからこそ今回は、「勝つために前へ出る」のではなく、「聞いたものを残すために前へ出る」回にしました。
サリエル・ユニットで共有された無音域が、次のリディアとガイウスの戦いにつながります。
また、《ネクタル・パッチ》は治療ではなく、痛みを通って動くための処置として描いています。
読んでいただき、ありがとうございます。
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