第50話 防衛境界
『個体名、オハバリ』
その声の後、空間の脈が変わった。
リディアは《タケミカヅチ》を下ろさない。
黒い人型個体は、通路の奥に立っている。
通路が狭くなったように見えた。
『侵入個体、三』
『防衛境界、起動』
『進行停止を要求』
怒りはない。
殺意もない。
ただ、通す気がない。
「停止要求を拒否」
リディアは答えた。
返答として成立したかは分からない。
だが、オハバリは反応した。
『停止拒否を確認』
『排除規約、適用』
空間の脈が、一段深く沈む。
通路の壁面に走る青白い線が、細く震えた。
ユイの指示も、ゼノの声も、ハルキの警告も届かない。
残っているのは、三人の呼吸と、内側から返ってくる遅い鼓動だけだった。
リディアは呼吸を一度だけ整える。
前を見る。
ガイウスが半歩、リディアの横へ出た。
「前は任せる。防護はこちらで受ける」
「了解」
後方で、エリスが《ノクティス・ライフル》を構える音がした。
「リディア隊長、右奥に反応がありません」
「無音域か」
「まだ確定できません。ですが、あそこを踏みます」
リディアは返答しなかった。
十分だった。
ガイウスが防護圏を低く置く。エリスが狙撃線を細く伸ばす。リディアは、その線の前へ出る。
三人で積み上げてきた連携だった。
三人なら届く。
シロハリグモは、それで断てた。
あるのは、人の形をした進行停止だけだった。
オハバリが動く。
消えたように見えた。
リディアは反射で踏み込む。
黒い影が左へ流れる。
速い。
だが、追えない速度ではない。
《タケミカヅチ》が横薙ぎに走る。
オハバリは半歩だけ身体を沈めた。
刃は空を切る。
次の瞬間、黒い拳がリディアの顔面へ伸びていた。
受ける。
刃の腹で逸らす。
衝撃が腕を痺れさせる。
重い。
人型の質量ではない。
ガイウスの防護が横から滑り込み、拳を押し返した。
《ヘカトンシールド:展開》
リディアは距離を取らない。
そのまま二撃目。
下段から斬り上げる。
だが、黒い外装はそこにない。
刃が通った後を、オハバリが通り過ぎる。
読まれているわけではない。
ただ、届かない。
受ける必要すらないように。
黒い影が踏み込んでくる。
近い。
膝。
リディアは身体を捻る。
膝が脇腹を掠める。
《左側面装甲:損傷》
エリスの射撃が飛ぶ。
青白い弾丸がオハバリの肩を打つ。
僅かに軌道がずれた。
その隙へリディアが入る。
速く。
さらに速く。
刃と拳が交差する。
一撃。
二撃。
三撃。
オハバリは後退しない。
受けながら前へ出る。
防ぐためではない。
距離を潰すために。
リディアは理解した。
こいつは近接戦闘そのものが完成している。
武器を持たないのではない。
身体そのものが武器だ。
黒い掌が伸びる。
ガイウスが割り込んだ。
《防護圏:成立》
掌底が防護面へ触れる。
轟音。
通路全体が揺れた。
防護圏は割れない。
だが、ガイウスの身体が数メートル後方へ弾き飛ばされる。
「ぐっ……!」
《使用者負荷:急上昇》
《右腕外装:損傷》
それでもガイウスは倒れない。
盾を残す。
防護圏の端だけが、まだオハバリの動きを押さえていた。
一瞬。
本当に一瞬だった。
リディアは踏み込む。
《タケミカヅチ》の刃が黒い外装へ届く。
一太刀目。
刃が位相を拾った。
硬い。
深い。
だが、断てない場所ではない。
ガイウスが削って作った一瞬。
エリスが示した空白域。
その二つが、刃の中で重なる。
《敵性位相:検出》
《位相接触:成立》
ずれが返ってくる。
刃が知る。
リディアは右手を返した。
二太刀目。
そこへ入れる。
入るはずだった。
《外郭構造:再編》
《位相照合:失効》
《二撃目:対象喪失》
知っていたはずの場所が消えた。
刃は、何も断たなかった。
オハバリの膝が、リディアの腹部装甲へ入る。
衝撃。
音は遅れた。
身体が先に折れた。
《腹部装甲:損傷》
《左肩接続:異常》
《脚部駆動:遅延》
床が近づく。
呼吸が戻らない。
腹部の損傷警告が赤く並び、左肩の反応が白く欠けた。
受け身を取る前に、黒い腕がリディアの肩を掴んだ。
投げられる。
壁面へ叩きつけられた。
白い火花が、視界の端で散る。
《タケミカヅチ》は手の中にある。
だが、右手の感覚が遅い。
立て。
命令は出せる。
身体が応じない。
《リディア:戦闘継続困難》
《神経伝達:遅延》
《手動復帰:失敗》
リディアは視線だけを前へ戻した。
失敗。
その文字だけが、白く残った。
ガイウスがもう一度、防護圏を張る。
「リディア、下がれ」
声は硬い。
だが、膝が沈んでいる。
ガイウス自身も立てていない。
オハバリが向きを変える。
次は、エリスだった。
「エリス、距離を取れ」
リディアの声は、割れた。
エリスは動かなかった。
いや、動けないのではない。
見ている。
倒れたガイウスを。
壁際に落ちたリディアを。
それから、オハバリを。
リディアには、エリスの表情までは見えない。
だが、引き金に置かれた指が、一度だけ止まった。
ショック。
その分類が、リディアの端末ではなく、視界の奥に浮かぶ。
「……聞こえています」
エリスの声が細く入る。
「見えたのか」
「見えてはいません」
いつもの返答。
だが、次の声は違った。
「動く直前に、空間が抜けます」
エリスの足が、一歩前へ出た。
狙撃距離ではない。
射点でもない。
この距離では、弾道を置いて待てない。
撃つ前に踏み込まれる。
狙う前に、距離そのものが消える。
いつものエリスなら、撃つ場所を作る。
ヴェロニカが近い音を消し、ブロンテが低く支え、その奥で最大の一射を置く。
今は、どれもない。
リディアは、止めようとした。
声が出ない。
エリスの両手が、《ノクティス・ライフル》を握り直す。
長い銃身が、中央から割れた。
《ノクティス・ライフル:形態変更》
《双銃形態〈ジェミニ〉》
安全な射点はない。
ヴェロニカの近い足音もない。
ブロンテの低い支えもない。
それでも、エリスは前へ出た。
守られる場所がないからではない。
守るために、そこへ入った。
「狙撃する距離はありません」
声は震えていない。
「なら、直接聴きます」
エリスは一歩前へ出た。
守られる射点はない。
なら、自分で境界の内側へ入るしかなかった。
リディアとガイウスが倒れ、残ったのはエリスだけ。
狙撃する距離はなく、守ってくれる射点もありません。
それでも、彼女だけが聞き取れるものがあります。
次回、エリスが近すぎる音の中へ入ります。
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