第53話 地下からの呼び声
ハルキは、地球中枢指令ブロックの奥へ走っていた。
通路は、もうセレーネの施設とは呼べなかった。
壁面の白い管制灯は途切れ、床の下からは、旧い脈のような振動が返ってくる。月側の規格ではない。ユグドラシル・コアの内部へ沈んでいくための、もっと古い搬送路だった。
《局所保守搬送路:開放》
《認証対象:未照合》
《アクセス保持:ハルキ端末》
《経路:地球中枢指令ブロック → ユグドラシル・コア内縁》
端末はそう表示している。
だが、ハルキは画面だけを見ていたわけではなかった。
端末が拾う前に、胸の奥が反応している。
信号ではない。
警告でもない。
呼吸に近い。
搬送路が低く震えるたび、ハルキの中で何かが先に応える。知らないはずの方向へ、身体が向く。
自分は信号を探っていたのではない。
呼ばれていた。
その理解が、息より先に落ちてきた。
*
月側管制層では、戦術盤が白く欠けていた。
「通信、落ちた」
マルコが言った。
「どこまで」
ユイの声も短い。
「全部だ。音も、位置も、生命反応も。ユグドラシル・コアの内側で切られてる」
マルコの指が復旧経路を叩く。
返答はない。
ユイは戦術盤を見たまま、何も返せなかった。
地球にいるゼノだけが、別の表示を見ていた。
《アラミタマ残存兵力:再配置》
《ユグドラシル・コア周辺:防衛密度上昇》
内部は見えない。
だが、外側の戦場だけは動いていた。
*
リディアは《タケミカヅチ》を構えたまま、膝をついた黒い人型を見ていた。
《オハバリ》は沈黙していない。
黒い外装の亀裂から、青白い光が細く漏れている。声はない。打撃もない。だが、停止ではなかった。
《オハバリ:防衛位相低下》
《戦闘続行:不能》
《駆動反応:微弱維持》
《中枢系リンク:残存》
《再起動予測:不明》
本来なら、追撃確認。
本来なら、敵性反応の完全停止まで確認。
本来なら、任務対象の安全化を優先する。
だが、ここは通常の排除任務ではない。
ユグドラシル・コアの目的は破壊ではない。ケルベロス・ネットを掌握するために、中枢システムを稼働状態で制圧する必要がある。
オハバリは中枢系リンクを残している。
いま断てば、経路ごと落ちる可能性がある。
外部通信はない。
判断は、ここで下すしかない。
リディアは刃を下ろさなかった。
振り下ろしもしなかった。
その横で、別の反応が落ちる。
《エリス:生命反応微弱》
《観測帯域:白化継続》
《音声応答:未復旧》
消失判定ではない。
白化した観測帯域の奥で、生命反応が途切れきっていない。
まだ落ちていない。
まだ、届く。
その事実を認識した瞬間、リディアの判断はもう決まっていた。
視線が、オハバリから外れる。
一瞬。
戦術判断としては、遅れだった。
けれど、リディアはもうオハバリを見ていなかった。
「エリス」
リディアは駆け寄った。
ガイウスが、崩れかけた身体を起こす。
「俺が見る」
彼はオハバリとの間に、薄い防護圏を置いた。
「動けば、止める」
リディアは答えなかった。
答えるより先に、エリスの反応を開いていた。
《ネクタル・パッチ:隊長承認待機》
エリスは死んでいない。
だが、落ちかけている。
リディアは一瞬だけ、呼吸を忘れた。
それは記録にはならなかった。
命令にもならなかった。
ただ、反応だけが先に動いた。
「エリスを落とさない」
リディアは承認を入れた。
《ネクタル・パッチ:隊長承認》
《対象:エリス》
《生体修復ナノ流体:高活性化》
《観測帯域:再接続中》
エリスの身体が、小さく震える。
生命反応が細く戻った。
それでも、穏やかな反応ではない。
指先が痙攣する。肩が跳ねる。呼吸に似た周期が乱れる。
「っ……ぁ……」
エリスの喉から、掠れた声が漏れた。
閉じたままの瞼が震える。
苦痛から逃れようとするように眉が寄り、噛み締めた唇の端から浅い息が零れた。
身体が小さく反り返る。
意識は戻っていない。
それでも、痛みだけは届いているのだと分かった。
《ネクタル・パッチ:高活性化》
《神経負荷:上昇》
《観測帯域:再接続中》
ナノ流体が、身体を無理やり引き戻している。
リディアは、つい先ほど自分が受けた痛みを思い出した。
焼けるような痛み。
身体の内側を削られるような違和感。
戦うために押し込めていた感覚が、エリスを見ることで急に輪郭を持つ。
「……大丈夫」
声は小さかった。
届いているかも分からない。
「もう少しだから」
震える手を押さえるように、リディアはエリスの肩へ触れた。
エリスは答えない。
ただ、生命反応だけがかすかに持ち直す。
リディアはそこで初めて、息を吸った。
背後で、ガイウスが低く言う。
「まだ動かない」
「見ていて」
「ああ」
オハバリは沈黙していない。
それでも今、リディアが最初に選んだのは
エリスを残すことだった。
*
搬送路の終端が開いた。
ハルキは床へ降りる。
空気が重い。
月の施設の匂いではない。地下に沈んだ古い熱と、壊れた記録のような静けさだけがある。
通路の奥に、リディアたちがいた。
倒れたエリス。
防護圏を張るガイウス。
膝をつく黒い人型。
ハルキが一歩踏み出した瞬間、ガイウスの右手が動いた。
携行火器のグリップへ。
リディアが振り向く。
「ガイウス」
「ハルキ。戦闘領域への立ち入りは許可されていない」
ガイウスの声は低かった。
任務中の声だった。
ハルキは足を止めた。
責める気にはならなかった。
ガイウスの判断は間違っていない。
「ゼノ司令の許可はある。戦闘目的じゃない」
ハルキは端末を上げる。
《月側指揮承認:ゼノ》
《行動目的:局所保守アクセス維持》
《交戦許可:なし》
ガイウスは数秒だけ表示を見た。
それから、火器から手を離す。
「一時保留する」
信用した声ではなかった。
ハルキは端末を開いた。
通路の奥から、白い応答が返る。
《ユグドラシル・コア中枢:接続要求》
《防衛基軸個体認証:要求》
《AR-AXIS-01:応答微弱》
《認証経路:維持中》
ハルキは表示を見た。
それから、オハバリを見る。
「壊さないでくれ」
ハルキの声が、通路に落ちた。
リディアは刃を下ろさない。
「理由は」
「中枢に入るには、オハバリの認証が要る」
ハルキは端末を握り直した。
「完全に壊したら、経路ごと閉じる」
《完全破壊時:中枢接続断絶》
《ケルベロス・ネット掌握:失敗予測》
リディアは答えなかった。
ガイウスがハルキを見る。
なぜ、それが分かる。
問いは声にならなかった。
だが、防護圏の位置だけが、わずかに変わった。
ハルキはその視線を受けたまま、奥を見る。
呼ばれていた場所は、まだ閉じている。
その鍵が、さっきまで敵だったものの中に残っていた。
誰も、すぐには動けなかった。
ここから第22章です。
《オハバリ》との戦闘は終わりましたが、ユグドラシル・コアは破壊して終わる場所ではありません。
そしてリディアは、追撃より先にエリスへ駆け寄りました。
戦場の判断と、人としての反応。
その境目が少しずつ変わってきています。
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