第42話 オルフェウス・ディセント
第18章 オルフェウス・ディセント
空の杯は、作戦記録に残らない。
そう処理するべきだった。
白い更衣区画で、リディアは右腕の外装固定を確認した。
肩部。
肘部。
手首。
反応遅延、許容範囲内。
神経接続、安定。
《タケミカヅチ》との同期値は、起動前基準を超えていない。
異常なし。
端末はそう表示していた。
だが、あの夜の音だけが消えなかった。
グラスが触れる音。
ユイが笑いを抑え損ねた声。
マルコの軽い罵声。
ゼノの低い声。
全員で帰る。
命令ではない。
作戦規定でもない。
達成条件にも記載されていない。
それでもリディアは、その言葉を削除できなかった。
「リディア隊、出撃前確認」
管制音声が降る。
「リディア・プロクシスIX。同期完了」
『アウルス。側面防護、配置済みです』
『イオナ。通信補助、稼働確認。月側支援回線も正常です』
二つの声が続いた。
アウルスの応答は硬い。余計な音がない。
イオナの声は、わずかに速かった。
緊張。
そう分類してよい数値だった。
「イオナ」
『はい』
「呼吸を戻して」
一拍。
『……了解しました』
応答の速度が戻る。
前方の大型表示が切り替わる。
《第66次地球奪還作戦》
《作戦名:オルフェウス・ディセント》
《主降下群:百トリアド/プロクシス三百個体》
《後続制圧予備:四十トリアド/プロクシス百二十個体》
《現地指揮中枢》
《指揮:ゼノ・ユル・ヴァレン》
《観測・解析:ハルキ》
《月側支援中枢》
《戦術管制:ミナセ・ユイ》
《技術支援:イサギリ・マルコ》
数字が並ぶ。
百。
三百。
四十。
百二十。
表示は冷たい。
そこに名前は少ない。
黒い戦術図に、百の三角形が浮かんだ。
後方に、四十の小さな表示。
その上層に、現地指揮中枢と月側支援中枢が重なる。
ゼノ。
ハルキ。
ユイ。
マルコ。
名前のある表示は少ない。
けれど、そこには顔がある。
リディアは、そう処理した。
百の三角形のうち、三つだけ縁取りが違う。
リディア。
ガイウス。
エリス。
主力認定色。
リディアは確認し、《タケミカヅチ》の同期値へ視線を戻した。
『主力認定三隊、応答』
「リディア隊、応答」
『ガイウス隊、応答。防護圏展開準備、完了』
『エリス隊、応答。観測線、待機しています』
待機の声だった。
『こちら月側戦術管制。主降下群、同期取れています』
ユイの声だった。
同じ声だった。
けれど、笑いの余白は管制音に押し込められている。
『リディア、三隊の優先ログはこっちで持ちます。あなたは前だけ見て』
「了解」
『全部は拾わなくていい。こっちで拾うから』
ユイの識別は、月側管制層にある。
そこにいる方が、全体を見られる。
リディアはそう処理した。
それでも、一拍だけ応答が遅れた。
「頼む」
通信の向こうで、ユイが小さく息を吸った。
『うん。任された』
『任されたついでに、こっちも仕事しますかね』
マルコの声が割り込む。
軽い。
だが、背後の打鍵音は速い。
『技術支援、月側で待機。《タケミカヅチ》、降下通信、《ODIN-EYE》補助ログ、全部こっちに流せ。詰まる前に直す』
「詰まる前に分かるのか」
『詰まってから騒ぐのは三流。詰まりそうな気配で文句を言うのが二流。詰まる前に直して、誰にも感謝されないのが一流だ』
『最後だけ少し嫌じゃない?』
ユイの声がわずかに揺れた。
笑ったのではない。
笑いそうになっただけだった。
『現地観測、応答』
『ハルキ、応答。地表エーテル反応解析、準備完了』
ハルキの声は落ち着いていた。
落ち着きすぎている、とも言えた。
リディアは小型表示を開く。
降下装備のハルキが映った。
危険。
分類は成立する。
『リディア』
「ハルキ」
『《タケミカヅチ》の補助ログ、こっちにも回してくれ。何かずれたら、俺が拾う』
「拾えるのか」
『分からない。けど、見ていないよりはいい』
分からない。
名前のない違和感を、まだ名前のないまま扱うための言葉だった。
「了解。必要時、解析を要求する」
『ああ』
その通信を、低い声が断った。
『全隊、最終確認を終えろ』
ゼノだった。
回線が静まる。
『主降下群は予定通り降ろす。後続制圧予備は待機。支援要員は月側および中継系統に固定。勝手に突出するな。勝手に英雄になるな。勝手に死ぬな』
短い沈黙。
『生きて帰ってこい。俺の命令はそれだけだ』
全員で帰る。
杯の音と一緒に残った言葉が、戻る。
生きて帰ってこい。
今の命令とは同じではない。
だが、切り離せなかった。
『リディア』
「はい、ゼノ司令」
『道を開け』
「了解しました」
『ガイウス』
『はい』
『道を潰させるな』
『了解しました』
『エリス』
『はい』
『見えないものを落とすな』
『了解しました』
通信が終わる。
固定具が外れた。
リディアは歩き出す。
降下艇へ続く通路は白い。
床に影がない。
照明の角度が正確すぎるためだ。
セレーネの施設はいつもそうだった。
清潔で、明るく、誤差が少ない。
誰かが迷う余地を消すように作られている。
その先に、地球がある。
灰の星。
奪還対象。
「隊長」
アウルスが隣に並ぶ。
「側面防護、前回基準で配置済みです」
「了解。初期展開はそのまま。敵性反応が偏った場合、側面判断はアウルスに任せる」
アウルスの応答が、一拍だけ遅れた。
「……了解しました」
「イオナ」
『はい』
「通信補正はあなたに任せる。私への確認は不要。必要なら先に切って」
『隊長、それは』
「許可する」
イオナの呼吸が整う。
『了解しました。通信補正、独立判断で入ります』
リディアは、二人の声を聞いた。
確認を返す声ではない。
任されることを理解した声だった。
だから、帰る。
そう判断できる材料は、前より増えている。
降下艇内部に入ると、音が変わった。
外の白い静寂が消える。
固定具の締結音。
反応炉の低振動。
装甲板の冷却音。
遠くの降下列から流れてくる、百のトリアドの待機音。
リディアは座席に固定された。
正面表示に、百の三角形が並ぶ。
後方に四十の表示。
上層に、月側支援回線。
同じ降下列の中央に、現地指揮中枢。
ゼノ。
ハルキ。
指揮する者と、見る者が、地上へ降りる。
『主降下群、同期開始』
ユイの声。
『第一降下列、角度補正。第二降下列、遅延〇・三秒。許容内。第三から第五降下列、待機』
『月側技術支援、同期確認。通信、兵装ログ、観測補助、全部流れてる』
マルコの声。
『ハルキ、そっちは』
『現地観測、待機。端末固定、問題なし』
『問題なしって言う奴ほど、だいたい何か抱えてるんだよな』
『今は抱えてない』
『今は、な』
その直後、ユイが言った。
『雑談終了。降下二十秒前』
声が止まる。
リディアは、音を数えた。
アウルスの固定具が鳴る。
イオナの端末が一度だけ振動する。
別艇の回線で、ガイウス隊の応答。
さらに遠く、エリス隊の観測同期。
百のトリアド。
すべてが、同じ秒数を待っている。
『リディア隊長』
エリスの声が薄く入った。
「何」
『今の音、残しておいてください』
「警告?」
『いいえ。まだ、帰る前の音です』
帰る前の音。
リディアは瞬きをした。
意味は不明。
だが、削除対象ではない。
「了解。記録する」
『はい』
降下艇が揺れた。
『降下開始』
重力が変わった。
胸部固定具が身体を押さえる。
リディアは音を数えた。
三百のプロクシスが、同じ地球へ降りていく。
まだ、誰も欠けていない。
その事実だけを、リディアは記録した。
ここから第66次地球奪還作戦が始まります。
今回は出撃前の配置と、それぞれの立ち位置を描く回でした。
数字の上では整っている作戦ほど、崩れた時の音は大きくなるものです。
次回、地上戦が始まります。
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