表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
その果てに、月は神を観る 〜記憶を失った青年と兵器少女は、滅びた地球の真実へ降りる〜  作者: 大導ユウ
第17章 約束の杯

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

42/48

第41話 約束の杯


 リディアは、グラスの中身を見ていた。


 透明ではない。

 薄く色づいている。

 揺らすと、光がわずかに遅れて動く。


 補給液ではない。

 薬剤でもない。

 戦闘前に摂取する機能性栄養では、もっとない。


 それでも、全員がそれを口にしている。


 リディアはグラスを傾けた。


 苦い。

 熱い。

 だが、不快ではない。


 分類できない。


 舌に残る感覚が、予想より長く続く。喉の奥が少し熱い。呼吸は乱れていない。反応速度にも明確な低下はない。けれど、室内の声の距離が少し変わっていた。


 ユイの声が、いつもより近い。


「リディア」


 その声が、すぐ横から聞こえた。


 リディアが顔を向けるより早く、ユイの腕が絡んできた。


「リディアも、ちゃんと帰るんだよ」


 ユイの体温が近い。


 抱きつかれている、とリディアは判断した。

 回避は可能。解除も可能。だが、危険行動ではない。敵性反応もない。


 だから、動かない。


「それは、作戦目標?」


「違う」


 ユイは笑った。


「私が言ってるだけ」


「作戦目標ではないなら、記録区分が不明」


「じゃあ、ユイが言ってた、でいいよ」


 ユイの声は明るかった。


 明るすぎる。

 けれど、嘘には聞こえない。


 リディアは答えられなかった。


 ユイはそのままリディアの肩から離れ、今度はエリスの方へ向かった。エリスはすでに三杯目を手にしていた。姿勢は崩れていない。発声も安定している。目も通常と変わらない。


 ただ、飲む速度だけが、他の者より明らかに速かった。


「エリス、飲みすぎじゃない?」


 ユイが言う。


 エリスはグラスを見た。


「危険反応はありません」


「本人がそう言う時は危ないって、マルコが言ってた」


「マルコの判定基準は厳しいです」


「でも、マルコはだいたい当たるよ」


「では、少し速度を落とします」


 そう言って、エリスはもう一口飲んだ。


 マルコが遠くから顔をしかめる。


「落とす気あるのか、それ」


「あります」


「今のは落ちてない」


「主観的には落ちています」


「主観が信用ならないって話をしてるんだよ」


 ユイが笑って、エリスの肩に腕を回した。


「エリスって、ちゃんとかわいいよね」


「……かわいい、ですか」


「うん。かわいい」


 エリスは処理に迷ったように、リディアを見た。


「リディア隊長。これは、どう応答するのが適切ですか」


「分からない」


 リディアは正直に答えた。


「私も、まだ処理できていない」


「では、保留します」


「うん」


 その会話に、ハルキが小さく息を漏らした。


 リディアはそれを見た。


 最初、ハルキはグラスにほとんど口をつけていなかった。ユイの様子を見て、マルコと同じように警戒していた。場の中心にはいない。けれど、全員の様子は見ている。


 それは戦場での彼と似ていた。


 だが、今の表情は違う。


 ユイがエリスに抱きつき、マルコがそれを止めようとして失敗し、ゼノが声を太くして笑った時。


 ハルキの口元が、少しだけ緩んだ。


 リディアは、それを見た。


 戦場では見ない表情だった。


「ハルキ」


「何?」


「今、笑った」


 ハルキは少しだけ目を瞬かせた。


「そうかな」


「そう」


「記録された?」


「記録する必要はないと思う」


 自分でそう言ってから、リディアは止まった。


 必要はない。

 だが、消す必要もない。


 その違いが、まだはっきりしない。


 マルコがこちらを見て、片眉を上げた。


「お、リディアが珍しいこと言った」


「珍しい?」


「記録しなくていいって顔してた」


「顔で分かるの?」


「なんとなくな」


「不正確」


「人間関係って、大体不正確なんだよ」


 リディアはグラスを見る。


 苦い。

 熱い。

 不快ではない。


 不正確なものが、今日は多い。


 その近くで、ガイウスはほとんど姿勢を崩していなかった。グラスは空ではない。食事にも手をつけている。だが、彼だけがまだ、会議室の中にいるようだった。


 ゼノがそれに気づかないはずがなかった。


「ガイウス」


「はい」


「お前は難しく考えすぎる」


 ガイウスはすぐに顔を上げた。


「任務内容の整理は必要です」


「違う。今は飯の話だ」


 ゼノはグラスを持ち上げた。


「守る相手の顔くらい、覚えておけ。命令書より役に立つ時がある」


 ガイウスは黙った。


 リディアは、その横顔を見る。


 ガイウスが何かを抱えていることは分かる。

 ただ、それが何かまでは分からない。


 第65次作戦のあとから、彼は以前より深く後方を見るようになった。第66次を前にして、その視線はさらに硬くなっている。


 けれど、ゼノの言葉を聞いた時だけ、ガイウスの肩がわずかに下がった。


 緊張が解けた、というほどではない。

 問題が消えたわけでもない。


 ただ、別の選択肢を見たように見えた。


「命令書より、ですか」


「ああ」


 ゼノは即答した。


「紙に載るのは、たいてい遅い。だが、顔は先に見える」


「……確認します」


「確認しなくていい。覚えろ」


 ガイウスは沈黙したあと、短く答えた。


「了解しました」


 それは命令受領の声に似ていた。


 しかし、少しだけ違った。


 ゼノは、その違いを聞き逃さなかったように、満足そうに口の端を上げた。


「それでいい」


 たったそれだけ言って、ゼノは自分のグラスを傾けた。


 リディアには、その違いをまだ言語化できない。


 食卓の上では、ユイとゼノが酒の話を続けていた。


「ゼノ大佐、その銘柄、どこから持ってきたんですか」


「補給経路には、表に出ない棚がある」


「それ、言っていいやつですか」


「今は音声記録が閉じている」


「悪い大人ですね」


「現場に必要な範囲だ」


 マルコが横から口を挟む。


「必要の定義が広すぎるんですよ」


「狭すぎるよりはいい」


「それで監視まで閉じてるんだから、ほんと無茶苦茶だ」


「文句があるなら飲むな」


「飲みますけど」


「なら問題ない」


「あるんですよ。飲むことと問題があることは両立するんです」


「器用だな」


 ゼノが笑う。


 マルコは文句を言っている。

 だが、席を立たない。


 ハルキも、最初より表情が緩んでいる。

 ユイは明るい。

 エリスは静かに飲んでいる。

 ガイウスはグラスを置かない。

 ゼノは全員を見ている。


 リディアは、自分の中に残る感覚を処理しようとした。


 これは作戦ではない。

 訓練ではない。

 補給でもない。


 だが、不要ではない。


 その時、隣でエリスがふと顔を上げた。


 彼女はしばらく、室内の音を聞いていた。


 ユイの笑い声。

 マルコの軽口。

 ゼノの低い笑い。

 グラスが触れる音。

 プレートに食具が当たる音。

 ハルキが短く返す声。

 ガイウスが低く応答する声。


 エリスは目を伏せたまま、言った。


「騒がしいですね」


「騒がしいのは苦手?」


 リディアが訊く。


 エリスは少し考えた。


「苦手、でした」


 それから、静かに付け加えた。


「でも、これは残しておきたい音です」


 リディアは答えなかった。


 残す。


 記録とは違うのか。

 保存とは違うのか。


 エリスの言葉は、軍用語として整理しにくい。だが、削除する必要もない。


 リディアはその音を聞いた。


 騒がしい。

 不規則。

 非効率。


 だが、警告音ではない。

 号令でもない。


 それは、リディアの知っている軍の音とは違っていた。


 酒席の終わりは、突然ではなかった。


 少しずつ声が落ち着き、グラスの中身が減り、食卓の上に空いたプレートが増えていく。ユイはまだ明るいが、ハルキの近くで少し大人しくなっていた。マルコはそれを見て、安心したような、まだ疑っているような顔をしている。


 ゼノがグラスを置いた。


 その音は、大きくはなかった。


 だが、全員の視線が自然に集まった。


「難しい話はなしだ」


 ゼノは言った。


 長い訓示ではない。

 作戦説明でもない。

 命令書に残す形式でもない。


 ただ、食卓の向こうで、ゼノが全員を見ていた。


「全員で帰る。それでいい」


 リディアは、すぐに答えられなかった。


 命令なら、受領する。

 作戦目標なら、達成条件を確認する。

 訓示なら、記録に残す。


 だが、今の言葉はそのどれにも当てはまらない。


 それでも、グラスを持つ手が止まった。


 ハルキが静かに頷いた。

 ユイが笑った。

 マルコが軽口を言わなかった。

 ガイウスが姿勢を正した。

 エリスが目を伏せて、その音を拾った。


 リディアは、短く言った。


「……分かりました」


 それは、命令受領ではなかった。


 ゼノは何も訂正しなかった。


 ただ、少しだけ笑った。


 食事会が終わったあと、食卓には空のグラスが残った。


 リディアはそれを見ていた。


 任務に必要な物ではない。

 けれど、捨てるべき物にも見えなかった。


 全員で帰る。


 ゼノはそう言った。


 リディアはそれを、命令ではなく、約束として記録した。


 その違いを、まだ知らなかった。



ここまでお読みいただきありがとうございます。


第17章「約束の杯」は、作戦前のほんの短い時間を描く章でした。

命令でも任務でもない時間だからこそ、残るものもあるのだと思います。


次回から、物語は《オルフェウス・ディセント》へ進みます。


続きが気になると思っていただけましたら、評価・ブックマークで応援していただけると励みになります。


Xでは設定断片や制作メモも公開しています。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ