第41話 約束の杯
リディアは、グラスの中身を見ていた。
透明ではない。
薄く色づいている。
揺らすと、光がわずかに遅れて動く。
補給液ではない。
薬剤でもない。
戦闘前に摂取する機能性栄養では、もっとない。
それでも、全員がそれを口にしている。
リディアはグラスを傾けた。
苦い。
熱い。
だが、不快ではない。
分類できない。
舌に残る感覚が、予想より長く続く。喉の奥が少し熱い。呼吸は乱れていない。反応速度にも明確な低下はない。けれど、室内の声の距離が少し変わっていた。
ユイの声が、いつもより近い。
「リディア」
その声が、すぐ横から聞こえた。
リディアが顔を向けるより早く、ユイの腕が絡んできた。
「リディアも、ちゃんと帰るんだよ」
ユイの体温が近い。
抱きつかれている、とリディアは判断した。
回避は可能。解除も可能。だが、危険行動ではない。敵性反応もない。
だから、動かない。
「それは、作戦目標?」
「違う」
ユイは笑った。
「私が言ってるだけ」
「作戦目標ではないなら、記録区分が不明」
「じゃあ、ユイが言ってた、でいいよ」
ユイの声は明るかった。
明るすぎる。
けれど、嘘には聞こえない。
リディアは答えられなかった。
ユイはそのままリディアの肩から離れ、今度はエリスの方へ向かった。エリスはすでに三杯目を手にしていた。姿勢は崩れていない。発声も安定している。目も通常と変わらない。
ただ、飲む速度だけが、他の者より明らかに速かった。
「エリス、飲みすぎじゃない?」
ユイが言う。
エリスはグラスを見た。
「危険反応はありません」
「本人がそう言う時は危ないって、マルコが言ってた」
「マルコの判定基準は厳しいです」
「でも、マルコはだいたい当たるよ」
「では、少し速度を落とします」
そう言って、エリスはもう一口飲んだ。
マルコが遠くから顔をしかめる。
「落とす気あるのか、それ」
「あります」
「今のは落ちてない」
「主観的には落ちています」
「主観が信用ならないって話をしてるんだよ」
ユイが笑って、エリスの肩に腕を回した。
「エリスって、ちゃんとかわいいよね」
「……かわいい、ですか」
「うん。かわいい」
エリスは処理に迷ったように、リディアを見た。
「リディア隊長。これは、どう応答するのが適切ですか」
「分からない」
リディアは正直に答えた。
「私も、まだ処理できていない」
「では、保留します」
「うん」
その会話に、ハルキが小さく息を漏らした。
リディアはそれを見た。
最初、ハルキはグラスにほとんど口をつけていなかった。ユイの様子を見て、マルコと同じように警戒していた。場の中心にはいない。けれど、全員の様子は見ている。
それは戦場での彼と似ていた。
だが、今の表情は違う。
ユイがエリスに抱きつき、マルコがそれを止めようとして失敗し、ゼノが声を太くして笑った時。
ハルキの口元が、少しだけ緩んだ。
リディアは、それを見た。
戦場では見ない表情だった。
「ハルキ」
「何?」
「今、笑った」
ハルキは少しだけ目を瞬かせた。
「そうかな」
「そう」
「記録された?」
「記録する必要はないと思う」
自分でそう言ってから、リディアは止まった。
必要はない。
だが、消す必要もない。
その違いが、まだはっきりしない。
マルコがこちらを見て、片眉を上げた。
「お、リディアが珍しいこと言った」
「珍しい?」
「記録しなくていいって顔してた」
「顔で分かるの?」
「なんとなくな」
「不正確」
「人間関係って、大体不正確なんだよ」
リディアはグラスを見る。
苦い。
熱い。
不快ではない。
不正確なものが、今日は多い。
その近くで、ガイウスはほとんど姿勢を崩していなかった。グラスは空ではない。食事にも手をつけている。だが、彼だけがまだ、会議室の中にいるようだった。
ゼノがそれに気づかないはずがなかった。
「ガイウス」
「はい」
「お前は難しく考えすぎる」
ガイウスはすぐに顔を上げた。
「任務内容の整理は必要です」
「違う。今は飯の話だ」
ゼノはグラスを持ち上げた。
「守る相手の顔くらい、覚えておけ。命令書より役に立つ時がある」
ガイウスは黙った。
リディアは、その横顔を見る。
ガイウスが何かを抱えていることは分かる。
ただ、それが何かまでは分からない。
第65次作戦のあとから、彼は以前より深く後方を見るようになった。第66次を前にして、その視線はさらに硬くなっている。
けれど、ゼノの言葉を聞いた時だけ、ガイウスの肩がわずかに下がった。
緊張が解けた、というほどではない。
問題が消えたわけでもない。
ただ、別の選択肢を見たように見えた。
「命令書より、ですか」
「ああ」
ゼノは即答した。
「紙に載るのは、たいてい遅い。だが、顔は先に見える」
「……確認します」
「確認しなくていい。覚えろ」
ガイウスは沈黙したあと、短く答えた。
「了解しました」
それは命令受領の声に似ていた。
しかし、少しだけ違った。
ゼノは、その違いを聞き逃さなかったように、満足そうに口の端を上げた。
「それでいい」
たったそれだけ言って、ゼノは自分のグラスを傾けた。
リディアには、その違いをまだ言語化できない。
食卓の上では、ユイとゼノが酒の話を続けていた。
「ゼノ大佐、その銘柄、どこから持ってきたんですか」
「補給経路には、表に出ない棚がある」
「それ、言っていいやつですか」
「今は音声記録が閉じている」
「悪い大人ですね」
「現場に必要な範囲だ」
マルコが横から口を挟む。
「必要の定義が広すぎるんですよ」
「狭すぎるよりはいい」
「それで監視まで閉じてるんだから、ほんと無茶苦茶だ」
「文句があるなら飲むな」
「飲みますけど」
「なら問題ない」
「あるんですよ。飲むことと問題があることは両立するんです」
「器用だな」
ゼノが笑う。
マルコは文句を言っている。
だが、席を立たない。
ハルキも、最初より表情が緩んでいる。
ユイは明るい。
エリスは静かに飲んでいる。
ガイウスはグラスを置かない。
ゼノは全員を見ている。
リディアは、自分の中に残る感覚を処理しようとした。
これは作戦ではない。
訓練ではない。
補給でもない。
だが、不要ではない。
その時、隣でエリスがふと顔を上げた。
彼女はしばらく、室内の音を聞いていた。
ユイの笑い声。
マルコの軽口。
ゼノの低い笑い。
グラスが触れる音。
プレートに食具が当たる音。
ハルキが短く返す声。
ガイウスが低く応答する声。
エリスは目を伏せたまま、言った。
「騒がしいですね」
「騒がしいのは苦手?」
リディアが訊く。
エリスは少し考えた。
「苦手、でした」
それから、静かに付け加えた。
「でも、これは残しておきたい音です」
リディアは答えなかった。
残す。
記録とは違うのか。
保存とは違うのか。
エリスの言葉は、軍用語として整理しにくい。だが、削除する必要もない。
リディアはその音を聞いた。
騒がしい。
不規則。
非効率。
だが、警告音ではない。
号令でもない。
それは、リディアの知っている軍の音とは違っていた。
酒席の終わりは、突然ではなかった。
少しずつ声が落ち着き、グラスの中身が減り、食卓の上に空いたプレートが増えていく。ユイはまだ明るいが、ハルキの近くで少し大人しくなっていた。マルコはそれを見て、安心したような、まだ疑っているような顔をしている。
ゼノがグラスを置いた。
その音は、大きくはなかった。
だが、全員の視線が自然に集まった。
「難しい話はなしだ」
ゼノは言った。
長い訓示ではない。
作戦説明でもない。
命令書に残す形式でもない。
ただ、食卓の向こうで、ゼノが全員を見ていた。
「全員で帰る。それでいい」
リディアは、すぐに答えられなかった。
命令なら、受領する。
作戦目標なら、達成条件を確認する。
訓示なら、記録に残す。
だが、今の言葉はそのどれにも当てはまらない。
それでも、グラスを持つ手が止まった。
ハルキが静かに頷いた。
ユイが笑った。
マルコが軽口を言わなかった。
ガイウスが姿勢を正した。
エリスが目を伏せて、その音を拾った。
リディアは、短く言った。
「……分かりました」
それは、命令受領ではなかった。
ゼノは何も訂正しなかった。
ただ、少しだけ笑った。
食事会が終わったあと、食卓には空のグラスが残った。
リディアはそれを見ていた。
任務に必要な物ではない。
けれど、捨てるべき物にも見えなかった。
全員で帰る。
ゼノはそう言った。
リディアはそれを、命令ではなく、約束として記録した。
その違いを、まだ知らなかった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
第17章「約束の杯」は、作戦前のほんの短い時間を描く章でした。
命令でも任務でもない時間だからこそ、残るものもあるのだと思います。
次回から、物語は《オルフェウス・ディセント》へ進みます。
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