第35話 拾われる者たち
第15章 冥府への編成
休暇という言葉は、記録上ではすでに過去の欄へ押し込まれていた。
セレーネ軍務区画の解析室には、商業区のざわめきも、人工庭園の湿った匂いもない。
壁面を流れるのは、第65次地球奪還作戦の戦闘ログ。
机上に積まれているのは、作戦後検証用に切り出された映像と同期記録。
ハルキは端末に指を置いたまま、第65次作戦の戦域ログを何度も往復させていた。
結果だけを見れば、作戦は成功している。
ログの上では、すべてが整っている。
だからこそ、そこに残った小さな歪みが目についた。
ハルキは再生速度を落とした。
アラミタマ群の一部が、明らかに迎撃効率の低い動きをしている。
リディア隊を止めるなら、そこではなく別の線を塞ぐべきだった。
ガイウス隊の防護展開を崩すなら、もう一拍早い干渉が必要だった。
エリス隊の観測共有を遮断するなら、中継個体の配置が浅すぎる。
それでも、動きには意味があった。
セレーネ側の反応を見るには、十分だった。
再接続までの遅延。
防護展開の初動。
リディアの突破判断。
エリスの聴覚認識共有が、ヴェロニカとブロンテに届くまでのわずかな揺れ。
そして、マルコが月側から補正を差し込んだ瞬間の端末同期。
「……勝った、だけじゃない」
誰に聞かせるでもなく、ハルキは呟いた。
勝利の記録は、同時に観測された記録でもある。
そう考えた瞬間、第65次作戦の終わりにエリスが残した声が、耳の奥に戻ってきた。
勝った音に、聞こえませんでした。
ハルキは表示を閉じた。
未分類ノイズの欄だけを残す。
その時、扉が開いた。
「まだ見ていたか」
ゼノだった。
「気になる箇所があります」
ハルキは姿勢を正した。
「勝利報告に載せるほど確証があるのか」
「いえ。まだ、感覚に近いです」
「なら持ってこい。感覚の段階で潰すな」
ゼノはそれだけ言って、端末に転送命令を出した。
次に表示されたのは、作戦ログではなかった。
《オルフェウス特別作戦部隊》
《司令:ゼノ》
ハルキは一瞬、表示を読み違えたかと思った。
「オルフェウス特別作戦部隊……」
「今日付けで発令された」
ゼノは淡々と言った。
「ユグドラシル・コア攻略に向けた混成特殊作戦部隊だ。俺が司令を務める」
「私たちも、ですか」
「客員扱いで済ませる段階は終わった」
ゼノは端末を閉じた。
「この後、上層部会議で編成を通す。お前の違和感も持ってこい」
命令は短かった。
だが、ハルキには分かった。
ゼノはすでに、次の戦場へ誰を連れていくかを決めている。
*
軍上層部会議室には、すでに複数の承認者が入っていた。
顔を見せている者もいれば、音声だけの者もいる。
誰もが、第65次の成功の先を見ていた。
ゼノは席に着かず、中央の作戦台に立った。
「編成名簿を提出する」
表示が切り替わる。
ハルキの名があった。
ユイの名があった。
マルコの名もあった。
それぞれの横に、通常の軍階級ではない登録区分が並ぶ。
特務観測員。
特務戦術分析員。
特務技術職員。
いずれも、少尉相当の作戦アクセス権、発言権、端末権限を付与。
会議室に、低いざわめきが走った。
「客員ではないのか」
誰かが言った。
「これ以上、外部協力者のままにはしておけない。正式に編成へ組み込む」
ゼノの声は短かった。
説明というより、決定だった。
隣で、マルコが小さく息を吐いた。
「少尉相当って、給料も相当になるのかね」
ユイが横目で見る。
「今それ聞く?」
「大事だろ。責任だけ増える契約は、技術者に嫌われる」
冗談めかしていたが、声は軽すぎなかった。
上層部の一人が、わずかに語気を強める。
「エランテスを正式作戦系統に置く危険性は理解しているのか」
「理解している」
ゼノは即答した。
「だから権限を限定する。だが、必要な端末に触れない者を戦場に連れて行く方が危険だ」
ハルキは、自分の名前の横に付いた権限表示を見た。
軍人になったわけではない。
だが、もう外から助言するだけの立場でもない。
端末に触れるということは、記録に残るということだった。
記録に残るということは、判断の責任から逃げられないということだった。
次に、アルマダ・ルナリスへの協力要請が表示された。
降下艇の軌道投入。
地球周辺宙域での退避線確保。
エーテル干渉下の通信中継。
作戦中の再接続支援。
必要時の回収線防護。
これは、単なる地上作戦ではない。
月と地球の間に、帰るための線を引く作戦だった。
その下に、さらに三つの名が並んだ。
リディア・プロクシスIX。
ガイウス・プロクシスX。
エリス・プロクシスX。
登録区分は、三名とも同じだった。
特務伍長。
会議室の空気が、そこで一度止まった。
「プロクシスに階級を与えるのか」
「すでに隊を率いている」
ゼノは答えた。
「階級がないせいで、現場判断が記録の外に落ちる。命令が遅れる。責任の所在が曖昧になる。俺はそれを許容しない」
ハルキは、端末に並ぶ三つの名を見ていた。
戦場で使える奴は、肩書きより先に拾う。
以前、ゼノはそう言った。
その言葉は、この日、書類の形を取った。
*
会議後、三人の隊長は軍務区画の小会議室へ呼ばれた。
リディアはいつものように背筋を伸ばしていた。
ガイウスはそれ以上に硬い。
エリスは、両手を前で重ね、端末表示を見つめていた。
ゼノが三人の名を呼ぶ。
「リディア・プロクシスIX。ガイウス・プロクシスX。エリス・プロクシスX。本作戦部隊内において、三名を特務伍長として扱う」
端末に任命記録が浮かぶ。
リディアが最初に口を開いた。
「階級があれば、私の判断は通りやすくなりますか」
「少なくとも、無視はしにくくなる」
「なら、使います」
それは名誉を受け取った声ではなかった。
新しい武器の重さを確かめる時の声だった。
ガイウスは一歩前に出て、姿勢を正した。
「任を拝命します。防護中核として、帰還線を維持します」
声には、誇りより先に規律があった。
ハルキには分かった。
ガイウスは、階級を名誉としてだけ受け取っていない。
命令系統の中に、より深く入るということだと理解している。
守るべきものが増える。
従うべきものも、増える。
エリスは、少し遅れて任命記録を見上げた。
「私で、よろしいのでしょうか」
「お前の隊は、お前の耳で動いている」
ゼノが言うと、エリスは目を伏せた。
それから、小さく頷く。
「……はい。拝命します」
エリスは任命記録から視線を外し、リディアを見た。
「リディア隊長も、同じ階級ですか」
「そうみたい」
「では、呼び方は変えません」
「……変えるつもり、あったの?」
「ありません」
リディアは少しだけ目を細めた。
呆れたようにも、安心したようにも見えた。
ゼノは三人を見渡した。
「階級は飾りではない。命令を通すための道具だ。必要なら使え」
その言葉は、三人に別々の形で届いた。
リディアには、仲間を守るための道具として。
ガイウスには、軍規の重さとして。
エリスには、自分の耳で隊を動かす責任として。
ハルキは端末に残る三つの任命記録を見た。
認められた。
だが、逃げ場も減った。
名前が記録されるということは、その判断も、責任も、そして失われる時の記録も、もう曖昧にはならないということだった。
拾われた者たちは、もう外側にはいない。
その事実だけが、静かに記録へ残った。
第35話でした。
今回は、戦場に必要とされた者たちが、正式に名簿へ記録される話です。
認められることは前進ですが、同時に責任を負うことでもあります。
ゼノの判断が、次の章以降でどんな意味を持つのか、続けて読んでいただけると嬉しいです。
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