第33話 好きの定義
商業区の空気は、訓練区画より軽かった。
正確には、軽く感じるように調整されていた。
歩行路には柔らかな照明が埋め込まれ、店舗の前には色のついた案内表示が並んでいる。壁面には季節を模した映像が流れ、透明な天蓋の向こうには、人工陽光の薄い青が広がっていた。
リディアは、それらを順に確認した。
出口。
非常動線。
警備員の位置。
監視端末。
人の密度。
遮蔽物になり得る構造物。
休暇のために来た場所でも、最初に見るものは変わらない。
「リディア」
ユイの声がした。
「はい」
「今、警備配置を見たでしょ」
「見た」
「休暇中」
「見た方が安全だ」
「間違ってないけど、そうじゃないんだよね」
ユイは困ったように笑った。
リディアには、その意味がまだ分からない。
安全確認は必要だ。
人が多い場所では特に。
だが、ユイが求めているものは、それではないらしい。
エリスはリディアの隣を歩いていた。
普段より半歩近い。
市民区画の音が多いと言っていたから、そのせいかもしれない。
リディアは歩幅を少し落とした。
エリスが遅れないように。
それを見て、ユイが何か言いたそうな顔をしたが、結局何も言わなかった。
三人は、商業区内の小さな休憩ラウンジに入ろうとした。
入口の端末が、ユイを認識する。
すぐに通過許可。
次にリディア。
表示が切り替わった。
《プロクシス個体:市民区画自由行動には、同伴登録の確認が必要です》
続いてエリスにも、同じ表示。
音声案内は柔らかかった。
表記も丁寧だった。
係員の表情も崩れなかった。
「確認に少々お時間をいただきます」
リディアは頷いた。
「問題ない。制限区画なら移動する」
ユイの顔が、わずかに変わった。
怒っている。
たぶん、そうだ。
けれどユイは、その怒りを端末にも係員にも向けなかった。
リディアにも、エリスにも向けなかった。
「じゃあ、別のところ行こう。ここより面白い場所を選べばいいだけ」
「確認を待たないのか」
「待たない。今日の目的は、許可を待つことじゃないから」
ユイはそう言って、二人を別の通路へ連れて行った。
リディアは、もう一度だけラウンジの入口を見た。
拒絶ではない。
ただ、確認。
登録。
同伴。
そういう言葉が、リディアたちの前にだけ置かれる。
リディアには、それが特別なことなのか判断できなかった。
自分たちはプロクシスだ。
軍用人工人類個体。
行動が記録され、管理され、必要に応じて制限される。
それは、当然のことではないのか。
けれど、ユイは当然だとは思っていない。
その差が、リディアにはまだうまく掴めなかった。
ユイが連れて行ったのは、小物店だった。
軍用品ではない。
衣類用の留め具、布製の小型ポーチ、識別タグカバー、色のついた布紐、髪飾りに近い装飾品。
リディアは店内に入ってすぐ、用途別の分類を確認した。
「この区画に戦術的有用性は低い」
「その感想、店員さんには言わないでね」
「言わない」
「言いそうだから言ったの」
ユイは棚から薄い布留めを一つ取った。
「今日は、性能じゃなくて、好きかどうかで選ぶんだよ」
「好き、という基準は、任務選定項目にない」
「だから今日は任務じゃないって言ってるでしょ」
ユイはリディアの手に布留めを置いた。
薄い青。
灰色に近い。
強くはない色だった。
リディアはそれを指先で押した。
「軽い。動作阻害は少ない。耐久性は不明。汚れには弱そうだ」
「そうじゃなくて」
「価格は低い」
「それも違う」
「では、何を評価すればいい」
「見て、持って、嫌じゃないか。もう少し見たいか。自分のものにしたいか」
リディアは布留めを見た。
薄い青灰色。
セレーネの白ではない。
戦場の黒でもない。
地球の灰よりは、少しだけ明るい。
なぜ目が止まったのか、説明はできなかった。
でも、棚に戻す気にはならなかった。
「……これでいい」
ユイが少しだけ首を傾げた。
「こういう時は、“これがいい”って言うの」
リディアは一拍置いた。
言葉の違いは小さい。
だが、意味は違うらしい。
「……これがいい」
ユイは満足そうに頷いた。
「うん。採用」
「採用なのか」
「採用」
隣で、エリスが小さく笑った。
その声は、戦場で聞く通信の声より少し柔らかかった。
エリスは布紐の棚を見ていた。
淡い色の細い布紐。
指先で触れて、すぐに離す。
もう一度、触れる。
リディアはそれを見た。
「エリスも選ぶのか」
「はい。リディア隊長」
「今日は隊長ではない」
「はい。分かっています、リディア隊長」
「分かっていない」
エリスは困ったように目を伏せた。
その仕草は、戦場の彼女とは違っていた。
狙撃線を探す時の静けさではない。
叱られた子供に近い。
それでも、呼び方は変わらなかった。
リディアには、それが分からない。
今日は任務ではない。
リディアはエリス隊の隊長ではない。
この場に作戦指揮系統は存在しない。
ならば、呼称を維持する理由もないはずだった。
エリスの指先が、腰の小さなケースに触れた。
リディアはそれに気づいた。
そこは、戦闘用の位置ではない。
すぐ抜くための場所ではない。
落とさないための位置。
大切なものを確認するような仕草だった。
「エリス」
「はい」
「そのケースは、任務用か」
エリスの肩が、ほんの少しだけ揺れた。
答えるまでに、短い間があった。
「……はい。大切なものです」
「そうか」
リディアはそれ以上、聞かなかった。
任務用だと言うなら、それは任務用なのだろう。
ただ、エリスの声は少し違っていた。
戦闘装備を確認する時の声ではない。
けれど、その違いの意味は分からなかった。
ユイは何かを察したように見えた。
だが、何も言わなかった。
ユイは棚へ手を伸ばす。
「エリス、それ、好き?」
エリスは少し戸惑った。
「……柔らかいです」
「うん。好き?」
「音が、あまりしません」
「それも大事だね。で、好き?」
エリスは布紐を指先で持ったまま、少しだけ考えた。
「……はい。たぶん、好きです」
「じゃあ、それにしよう」
エリスは頷いた。
淡い色の細い布紐。
リディアの選んだ布留めよりも、さらに柔らかい色だった。
「それは何に使うの?」
ユイが聞いた。
エリスは少しだけ視線を落とした。
「……落とさないように、結びます」
何を、とは言わなかった。
リディアにも、その理由は分からなかった。
今回は、リディアとエリスの関係に少し踏み込む回でした。
エリスがリディアを「リディア隊長」と呼び続ける理由は、まだ本文でははっきり説明していません。
ただ、エリスにとってその呼び方は、単なる階級や役職ではないものになっています。
リディアはまだ、それを分かっていません。
エリスも、たぶん本人には言えません。
そしてリディアが初めて「これがいい」と選ぶ回でもあります。
小さな選択ですが、彼女にとっては大きな一歩です。
続きが気になると思っていただけましたら、評価・ブックマークで応援していただけると励みになります。
Xでは設定断片や制作メモも公開しています。




