第29話 四つの中継点
第2部 オルフェウス・ディセント
第13章 天賦の才たち
4599年8月20日。
第65次地球奪還作戦は、まだ正式な作戦名を与えられていなかった。
少なくとも、ユイの端末に表示された分類上は、そうだった。
作戦区分は、旧テラ連邦地下要塞群周辺中継拠点制圧。
目的欄には、ユグドラシル・コア周辺防衛網の部分遮断、とある。
部分。
その二文字が、かえって嫌だった。
完全制圧ではない。
あくまで本命へ進むための準備。
けれど、三つの隊を分けて投入する時点で、危険度は低くない。
作戦室の中央には、第64次作戦で制圧した旧テラ連邦要塞基地の解析図が展開されていた。
その近傍地下深部に、ユグドラシル・コアと識別された巨大反応がある。
ただし、コアは単独で存在しているわけではなかった。
四つの中継拠点。
第64次で確保した拠点も、その一つだった。
残る三つは、ユグドラシル・コア周辺の防衛網、通信、エーテル循環、アラミタマ再配置を支えている。
ならば、三つを同時に取る。
上層部の結論は、簡潔だった。
簡潔すぎるほどに。
「前回の勝利で、上が欲を出し始めた」
ゼノの声が、作戦室の温度を一段下げた。
左目に収まった新しい目は、まだ完全には馴染んでいない。
それでも、彼が端末に映した戦域図の読み取り速度は、通常の義眼ではありえなかった。
ハルキ、マルコ、ユイが設計に関わった戦術義眼。
《ODIN-EYE》。
ゼノはその調整を受けながら、いつものように余計な感傷を切り捨てていた。
「三つ同時に取れば、次が楽になる。理屈だけなら正しい」
「理屈だけなら、ですか」
ユイが確認すると、ゼノは短く頷いた。
「戦場は理屈だけじゃ動かん」
誰も笑わなかった。
三つの中継拠点は、互いに干渉し合っている。
一つずつ攻略すれば、残りの拠点が防御形態を変える。
全てを同時に押さえれば、変化する前に防衛網を切れる。
理屈は正しい。
だからこそ、危険だった。
作戦盤の上で美しいものは、戦場でよく折れる。
「リディア隊は第一中継拠点。突入、中枢制圧」
ユイは表示を切り替えた。
「ガイウス隊は第二中継拠点。防護前進、撤退線維持。敵密度が最も高い区画です」
「エリス隊は第三だな」
ハルキが隣で言った。
ユイは頷く。
「うん。観測、狙撃補正、通信支援。今回、一番不確定なのは第三中継拠点。構造図に欠落が多い」
「アラミタマが隠しているのか」
「隠しているのか、最初から記録されていないのか、そこまでは分からない」
ハルキの視線が、地下深部の黒い表示に止まった。
ユイには、その反応が少しだけ気になった。
ハルキは時々、他の誰にも見えていないものを見ているような顔をする。
本人が説明できない顔だ。
だから、ユイはその顔を見逃さないことにしていた。
「今回は私も行きます」
自分で言ってから、ユイは作戦室の空気が変わるのを感じた。
ハルキがすぐにこちらを見る。
「危険だ」
「どの口が言ってるの?」
「俺は現地観測が必要だった」
「私も現地戦術が必要なの。はい、同じ」
言い切ると、ハルキは反論の形をなくした顔をした。
マルコが、端末の向こうで肩を震わせている。
笑うなら声に出せばいいのに、こういう時だけ妙に器用に耐える。
ゼノは笑わなかった。
その代わり、ユイの戦術同期案を一つずつ確認した。
「行かせる。今回は、月からでは遅い」
「ゼノ大佐」
「ただし戦闘区域には出るな。ユイ、お前の仕事は前に出ることじゃない。全員を帰すことだ」
「分かっています」
分かっている。
勝つためではない。
帰すために行く。
ゼノが定義した敗北条件は、ユイの中で作戦設計の基準になっていた。
勝率よりも、帰還率。
突破力よりも、帰還線。
それはきっと、戦術の数字だけでは測れないものだった。
マルコは月に残る。
「拗ねてねえぞ」
誰も何も言っていないのに、マルコが先に言った。
「三拠点同時なんて欲張りなことをやるなら、月側でリンクを押さえるやつがいる。遅延補正、端末同期、エーテル干渉下の再接続。現地で全部見るとか無理だ」
「拗ねてるな」
ハルキが言う。
「拗ねてねえ。現地で面白そうなことやるお前らに、ちょっと腹が立ってるだけだ」
「それを拗ねてるって言うんだよ」
「うるせえ。切れたら怒れ。切れる前に怒ったら、オレが怒る」
「切らないで」
「注文が簡潔すぎるんだよな、ユイは」
軽口の奥で、同期予測値が次々に更新される。
頼れる。
その事実に、ユイは短く息を吐いた。
頼れる者が増えるほど、戦術の線は複雑になる。
でも、複雑になった線が誰かを帰す道になるのなら、それは怖がる理由にはならない。
*
降下艇の突入振動は、想定値の範囲内だった。
数値上は。
体感としては、まったく許容したくなかった。
地球側前線管制区画に到着した時、ユイはしばらく言葉を選ぶ必要があった。
選べる言葉が少なかったからではない。
吐きそうだったからだ。
ハルキが水のパックを差し出した。
「現地戦術が必要だったんだろ」
「必要。だから黙って水をください」
水を受け取る前に、ユイは一度だけ外を見た。
灰色の地平が、低い雲の下に広がっている。
映像では何度も見た。
戦闘ログでも、観測記録でも、地形図でも見ている。
けれど、生で見る地球は違った。
空気そのものが、焼け残った記録みたいに重い。
「……これが、地球」
「最初の感想がそれでいいのか」
「ここで吐いてもいいんだけど」
「悪かった」
「水」
ハルキは何も言わず、水を渡した。
言わない判断ができるところは、評価していい。
ユイは水を飲み、呼吸を一つ整え、前線管制端末へ手を置いた。
最初に見たのは、三隊の現在位置ではなかった。
遅延幅。
月側から届く戦術表示と、地球側拠点の実測値の間に、わずかなずれがある。
「……〇・七秒」
ユイは呟いた。
ハルキが隣を見る。
「何が?」
「月側表示との差。戦闘中なら、十分に遅い」
ユイは震える指先を一度握り、すぐに同期設定を切り替えた。
「マルコ、月側の補正は維持して。現地判断層はこっちで切る」
『了解。細かい判断はそっち、全体リンクはオレが持つ』
「うん。それでいける」
揺れは残っている。
胃の奥も、まだ反抗的だった。
けれど作戦盤が展開された瞬間、気持ち悪さは画面の外へ押し出された。
三つの拠点。
三つの隊。
一つの帰還線。
『戦術官、応答できるか』
月側からゼノの声が入る。
「できます」
『ならいい。顔色は作戦評価に含めん』
「助かります」
返答した瞬間、ユイは自分の声が戻ったことを確認した。
ハルキが横に立つ。
彼の端末には、地下エーテル反応とアラミタマの挙動予測が重ねられている。
「ゼノ大佐。現地判断層の初期同期を行います。二十秒だけ、月側の会話帯域を落とします」
『理由は』
「現地層と月側層の表示差を切り分けます。データ帯域は維持します」
『許可する。二十秒だ』
ユイは通信表示を細く絞った。
声だけが、月から遠ざかる。
その瞬間、ハルキがこちらを見た。
「ユイ」
「調べたいことがあるんでしょ?」
ハルキはすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、ユイには十分だった。
「あの時のノイズ、気になるんでしょ?」
「……気にならないと言えば、嘘になる」
「なら、今見て。作戦中は私に任せて」
ハルキは一瞬だけ、困ったように笑った。
「……頼りになるよ、本当に」
「今さら気づいたの?」
「前から知ってる」
「なら、もっと早く言って」
ユイは作戦盤へ視線を戻した。
顔が少し熱いのは、降下艇のせいにしておく。
ハルキは地下深部反応の奥へ、細い検索線を沈めた。
ここで何かを掴めるとは限らない。
けれど、ユグドラシル・コアへ近づく理由は、セレーネが掲げる作戦目的だけではなくなっていた。
会話帯域が復帰する。
ゼノの声が戻った。
『二十秒だ』
「完了しています」
『なら続けろ』
「はい」
ユイは三つの表示層を切り替えた。
「ハルキ、異常値だけ先に回して」
「全部じゃなくていいのか」
「全部見ると遅れる。三隊に必要なのは、敵の意図そのものじゃなくて、次にどこが危ないか」
リディア隊には、敵性反応と中枢殻までの最短線。
ガイウス隊には、敵密度と退路圧。
エリス隊には、通信欠落と音響補正。
同じ戦場でも、必要な情報は隊ごとに違う。
それを分けなければ、情報は支援ではなく騒音になる。
ハルキは一瞬だけ、ユイの横顔を見た。
三つの隊。
月側のゼノ。
通信を支えるマルコ。
地下深部の反応。
それらを、ユイは一つにまとめていない。
必要な形に切り分け、必要な相手へ渡している。
「本当に、よく見てるな」
「感心するなら、異常値を流して」
「了解」
月側には、ゼノとマルコ。
地球側には、ユイとハルキ。
前線には、三つの隊。
「第65次地球奪還作戦、三隊分散開始」
ユイは通信を開いた。
「リディア隊、第一中継拠点へ。ガイウス隊、第二中継拠点へ。エリス隊、第三中継拠点へ。各隊、帰還線を最優先に維持」
『了解』
三つの返答が、わずかな遅延を挟んで重なった。
『三隊を同じ速度で進ませるな』
ゼノの声が、月側から入る。
「リディア隊を先行。ガイウス隊は半拍遅らせます。エリス隊は、通信欠落が取れるまで深く入れません」
『理由は』
「第二が先に詰まれば、第一の回収型が信号を戻します。第三は見えないまま進ませると孤立します」
『いい。だがリディア隊を走らせすぎるな。速さは利点だが、孤立すれば欠点になる』
「了解。第一の上限速度を落とします」
ユイはリディア隊の表示に、進行制限の細い線を重ねた。
作戦盤の上で、三本の光が地下へ伸びる。
それは、とても綺麗な線に見えた。
だからユイは、その綺麗さを信用しなかった。
第1部では「地球へ降りること」そのものが大きな壁でしたが、第2部ではそこからさらに一段深く、地球地下とユグドラシル・コア周辺へ踏み込んでいきます。
今回はユイも現地参加です。
戦術担当としての頼もしさと、降下艇に弱いところの両方を書けたので、個人的にはかなり気に入っている回です。
次回は三隊同時攻略の本格戦闘です。
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