第21話 月の秩序
ユイは、ゼノの指摘を黙って聞いていた。
投影卓の上には、第63次作戦の三隊ログと、ユイが作成した通信途絶時行動表が並んでいる。
リディア隊。
ガイウス隊。
エリス隊。
断つ隊。
撃たせない隊。
戻させない隊。
第63次作戦では、別々の戦場で動いた三隊が、結果として噛み合った。
次も同じように噛み合う保証はない。
だからユイは、繋がっていない時でも、同じ方向へ動ける手順を作ろうとしていた。
ゼノは、その意図を見抜いている。
「通信途絶時の優先行動。発想はいい」
ゼノが言った。
「三隊を同時に動かすなら、繋がっていることを前提にするな。切れた後にどう動くかを先に揃えておけ。そこまでは合っている」
「ありがとうございます」
「だが、まだ綺麗すぎる」
ユイは端末を持ち直した。
「綺麗すぎる、ですか」
「実戦の隊は、表の通りには壊れん。火線が先に崩れる時もある。回収阻止が抜ける時もある。指揮個体を断てても、退路が詰まる時もある」
ゼノは三つのログを指す。
「お前の表は、三隊がそれぞれ役割を続けることを前提にしている。本当に必要なのは、どれか一つが欠けた時に、残った二つがどう動くかだ」
ユイは少し黙った。
それから、すぐに頷いた。
「欠けた時の代替優先順位ですね」
「そうだ」
「ガイウス隊が火線を抑えられない場合、エリス隊は回収阻止より中継妨害を優先。リディア隊は前進ではなく、退路側の敵中核を優先して断つ」
「悪くない。逆は」
「エリス隊が回収阻止不能になった場合、ガイウス隊は撃破ではなく損傷個体の搬送経路を遮断。リディア隊は、断った後の再接続を許さない位置取りを優先します」
ゼノの目が細くなった。
怒っているのではない。
評価している目だった。
「出るな、答えが」
「まだ仮です」
「仮でそれなら十分だ」
ユイは表情を緩めなかった。
ゼノ相手だからではない。
自分が出した答えに、まだ穴があると分かっているからだ。
「三隊を同時に動かすなら、通信が切れた時点で“各隊が何を優先するか”を先に揃えるべきです」
ユイは言った。
「連携は、繋がっている時だけのものではありません。切れた後に、同じ方向へ動けることも連携です」
ゼノは声を出して笑った。
大きな笑いだった。
だが、馬鹿にしてはいない。
「いい目だ。机の上だけで終わらせるには惜しい」
ユイはわずかに瞬きをした。
「怖いのを、怖いで止めずに手順へ落としたか。悪くない」
「……怖いです」
ユイは正直に言った。
「広げれば、壊れ方も大きくなります。だから、壊れる前提の手順が要ります」
「必要ならやるか」
「必要なら、やります」
ゼノは満足したように頷いた。
「なら、次の作戦案にも目を通せ」
「私が、ですか」
「他に誰がいる。今、三隊の噛み合いを一番嫌がって、一番見ているのはお前だ」
ユイは即答しなかった。
評価されることは、必ずしも軽いことではない。
できると見られた者には、次の責任が来る。
ユイは、それを分かっている。
「分かりました」
やがて、彼女は言った。
「必要な範囲で、確認します」
「十分だ」
ゼノは表示を消した。
「少なくとも、お前は“勝ったから次も勝てる”とは考えていない。その一点だけで、軍務分析の席に置く価値はある」
「褒め方が重いですね」
マルコが横から言った。
「軽い褒め言葉で命は助からん」
「ごもっとも」
マルコは肩をすくめた。
ゼノの視線が、今度はハルキへ向く。
「それから、お前だ」
「私ですか」
ハルキは思わず聞き返した。
「そうだ。お前の作った刀は上等だ」
《タケミカヅチ》のことだと、すぐに分かった。
だが、ゼノはすぐに首を振る。
「だが、俺が見ているのはそこじゃない」
「では、何を」
「現場での判断だ」
ゼノは投影卓に、帰還艇内の観測ログを表示した。
ハルキが提示した候補。
リディア隊が選んだ進路。
イオナの中継。
アウルスの位置取り。
それらが、短い時間軸で重なっている。
「戦闘能力のない人間が、帰還艇の中から候補を出した。しかも命令じゃない。前線の判断を潰さず、選択肢だけを増やした」
ゼノはハルキを見た。
「それができる奴は少ない」
「偶然です」
「偶然で一度できるなら、訓練すれば二度できる」
「私は指揮官ではありません」
「今はな」
ゼノは笑った。
「学者をやめて指揮官をやるなら、歓迎するぞ」
「冗談ですか」
「半分はな」
「残り半分は」
「戦場で使える奴は、肩書きより先に拾う」
ハルキは返事に困った。
褒められている。
おそらく、そうなのだろう。
だが、ゼノの評価は単なる称賛ではない。
役に立つ。
だから使われる。
その冷たさを、ゼノは隠さない。
同時に、使い捨てるつもりでもない。
だから厄介だった。
ハルキは、入室した時の短いやり取りを思い出していた。
カイ、とゼノは呼んだ。
右脚の同期を確認し、休止を取れと告げた。
それを特別な慈悲としてではなく、軍務の手続きの一部として行っていた。
その自然さが、かえってハルキの中に引っかかっていた。
「言いたいことがある顔だな」
ゼノが言った。
ハルキは視線を戻す。
「あります」
「言え」
「名前で呼ぶなら、なぜ制度は番号で扱うんですか」
部屋が静かになった。
ユイがハルキを見る。
マルコは、軽口を挟まなかった。
ゼノは怒らなかった。
ただ、少しだけ息を吐いた。
「いい問いだ」
そう言って、彼は作戦室の横にある観測窓へ歩いた。
窓の向こうには、月面都市の光が広がっている。
清潔で、整然としている。
外側の闇から身を守るように、光の線が区画を区切っていた。
「綺麗な社会だとは言わん」
ゼノは言った。
「だが、秩序がなければ月は崩れていた」
ハルキは窓の外を見る。
セレーネは白い。
丁寧で、静かで、管理されている。
保護されている。
そして、監視されている。
「人として見ているなら、なぜ最初から人として扱わないんですか」
ハルキは続けた。
言ってから、自分が少し強く踏み込んだと分かった。
だが、ゼノはやはり怒らなかった。
「俺一人で制度は変わらん」
「だから、受け入れるんですか」
「違う」
ゼノの声は低かった。
「制度の外で綺麗なことを言うだけなら簡単だ。だが、ここは月だ。空気も、水も、食料も、住む場所も、誰かが管理しなきゃ維持できん」
彼は窓の外を見たまま続ける。
「正しさだけで腹は膨れん。自由だけでは、住処は守れん」
その言葉は、ハルキの胸に残った。
正しいとは思いたくなかった。
だが、間違っているとも言い切れなかった。
ハルキには記憶がない。
自分がどんな世界で生きていたのかも、どんな社会を正しいと思っていたのかも分からない。
その状態で、この月の秩序を断罪できるのか。
できない。
少なくとも、まだ。
「だから俺は、この秩序の中で、できるだけ名前を呼ぶ」
ゼノは言った。
「それで、何かが変わるんですか」
「変わらん」
即答だった。
「だが、変わらんから何もしない、というのはもっと悪い」
ハルキは言葉を失った。
ゼノはセレーネを美化していない。
制度の冷たさも分かっている。
そのうえで、そこに立っている。
命令を押しつけるだけの軍人ではない。
分類し、管理し、守るという名で囲い込む側の人間ではある。
だが、この男は、その秩序の中で名前を呼んでいる。
「お前は、この月が嫌いか」
ゼノが聞いた。
ハルキはすぐに答えられなかった。
嫌いだ、と言えば簡単だった。
清潔で、丁寧で、冷たい。
人を分類し、保護と監視を同じ手つきで行う社会。
嫌う理由なら、いくつもある。
だが、さっきのプロクシス兵がいた。
名前で呼ばれていた。
休止を取れと告げられていた。
ユイがいた。
怖いものを手順で潰そうとしていた。
マルコがいた。
仲間を守るために危ない橋を渡っていた。
リディアがいた。
帰還個体数三という数字を、自分だけのものにしなかった。
この月には、冷たい制度だけがあるわけではない。
ハルキは答えられなかった。
ゼノは、それで十分だというように頷いた。
「お前らは、この月を嫌うかもしれん」
ゼノは、月面都市の光を見下ろしていた。
「だが、嫌うなら、よく見てから嫌え。ここにも、生きてる奴はいる」
ハルキは何も言えなかった。
セレーネは、清潔で、丁寧で、冷たい。
人を分類し、守るという名で囲い込む。
それでも、その光の下に、誰かの生活がある。
誰かの名前を呼ぶ声がある。
ハルキはまだ、この月を嫌う資格すら持っていないのだと思った。
「ところで、ハルキといったな」
ゼノの声が、先ほどの調子へ戻った。
「お前、次の作戦も同行するつもりだろ」
ハルキは返答に遅れた。
遅れた時点で、答えたのと同じだった。
「……まだ、正式に許可は」
ユイが目を見開く。
マルコは額に手を当てた。
ゼノは笑った。
「なら、ちょうどいい。次は俺も行く」
その一言で、部屋の空気が止まった。
お読みいただきありがとうございます。
第10章「月の秩序」は、これにて一区切りです。
セレーネは清潔で、整っていて、そして冷たい社会です。
ただ、その中にも名前を呼ぶ者がいて、守ろうとする者がいて、迷いながら進もうとする者がいます。
今回は、ハルキがその矛盾を初めて正面から見る回でした。
そして最後に、ゼノも次の作戦へ同行することになります。
次章では、第64次地球奪還作戦が動き出します。
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