第20話 少佐の部屋
第10章 月の秩序
軍務区画の通路は、共同研究室よりも白かった。
白い壁。
白い床。
白い照明。
汚れを許さない、というより、汚れが存在する前提を拒んでいるような白だった。
ハルキは、その通路を歩きながら、前を行く案内官の背中を見ていた。
案内官の歩幅は一定だった。
振り返る必要はない。三人がついてきていることは、通路脇の認証端末と監視系統が確認している。
保護と監視の境目が薄い。
セレーネでは、それが当たり前のように機能している。
隣で、ユイが小さくあくびを噛み殺した。
手元には、薄型端末が抱えられている。第63次地球奪還作戦の三隊ログを再構成し、通信途絶時の優先行動表まで落とし込んだ一次案だった。
昨夜のうちに、ユイはそれを作った。
正確には、今朝までかかった。
ハルキとマルコが差し入れを持っていく前に、軍務区画から呼び出しが届いたのだ。
「表彰なら、もう少し物々しくない場所に呼ぶと思うんだけどな」
マルコが言った。
いつも通りの軽さだった。
だが、声の端だけが硬い。
「心当たりがあるんだろ」
「ありすぎて絞れねえ」
「それは、あまり良くないと思う」
「だろうな。オレもそう思う」
ユイがちらりと二人を見る。
「マルコ。少佐の前では、少し控えて」
「善処する」
「善処は駄目な時の言い方」
「じゃあ、努力する」
「それも危ない」
ユイの声には疲労があった。
それでも、端末を抱える指はしっかりしている。
勝利は、次の作戦を呼ぶ。
それを止めるのではなく、繋げる。
不安を雰囲気で終わらせず、手順で潰す。
そう言ったユイは、今、その手順を軍務区画へ持ち込んでいる。
案内官が一つの扉の前で止まった。
「ゼノ・ユル・ヴァレン少佐がお待ちです」
扉は、すぐに開いた。
*
「カイ、右脚の同期は医療班の基準じゃなく、俺の基準で戻せ。焦るな」
中から、太い声が聞こえた。
「はい、ゼノ少佐」
「あと、休止を取れ。反応遅延を抱えたまま立たれる方が迷惑だ」
「……了解しました」
右脚に補修跡のあるプロクシス兵が一礼し、部屋を出ていく。
ゼノは、その背中を見送りもしなかった。
ただ、そうすることが当然であるように、次の資料へ目を落とす。
ハルキは、その一連のやり取りを見ていた。
番号ではなく、名前。
命令だけではなく、状態の確認。
それが特別な振る舞いではなく、日常の手続きに混ざっている。
ゼノ・ユル・ヴァレン少佐。
ユイのトリアド案を、限定運用試験へ回した名。
記録上では、短い所見だけを残す人物だった。
だが、実際の男は、記録上の文字よりずっと大きく見えた。
背が高い。
肩幅が広い。
軍服は着崩していない。
ただ、着ている本人が格式をあまり気にしていないように見える。
「来たか」
ゼノは顔を上げた。
声が大きい。
威圧のためではない。部屋の隅にいる者まで、同じ温度で届く声だった。
ハルキたちが姿勢を正すより早く、ゼノが片手を振る。
「堅くなるな。俺は書類じゃない」
マルコが一瞬、笑いかけた。
ユイは笑わなかった。
仕事中の顔をしている。
ゼノは投影卓へ手を置いた。
「さて。第63次作戦の件だ」
空中に作戦ログが広がる。
リディア隊。
ガイウス隊。
エリス隊。
三つの戦域記録が、同じ時間軸に並ぶ。
ゼノはそれをざっと見ただけで、こちらへ視線を戻した。
「リディアが断つ。ガイウスが撃たせない。エリスが戻させない。悪くない形だ」
ユイの指が、端末の縁を少し強く掴んだ。
ゼノは続ける。
「第63次の報告は読んだ。エランテスの現地判断、有効。管理分類の再検討が必要。地下深度の未登録反応は、戦闘ノイズで処理」
その言葉が出た瞬間、マルコの指が止まった。
本当に一瞬だった。
だが、ハルキは見逃さなかった。
ユイも、たぶん見た。
マルコはすぐに口元を戻す。
「……ずいぶん詳しいですね、少佐」
「俺の部屋に流れてくる報告だ。詳しくもなる」
ゼノは笑った。
笑っていたが、目は笑っていない。
「ただし、報告書に載る前の言葉まで知っている奴は、そう多くない」
部屋の温度が半歩だけ下がった。
ハルキは、マルコを見た。
マルコは何も言わない。
軽口を探している顔ではなかった。
「拾った耳は閉じておけ」
ゼノが言った。
「開いたまま歩けば、いつか首まで持っていかれる」
「……ご忠告、痛み入ります」
マルコの声は、いつもより少し低かった。
「忠告で済んでいるうちに理解しろ」
ゼノはそこで一度、ハルキを見た。
視線は短かった。
だが、その意味は十分だった。
それから、ゼノはマルコに向き直る。
「仲間を守りたいなら、手段の代償も考えろ」
マルコは笑わなかった。
「……肝に銘じます」
「それでいい」
ゼノは、少しだけ口元を緩めた。
「だが、発想と度胸は悪くない。少なくとも、この月では一番だ」
マルコが瞬きをした。
「褒めてます?」
「半分はな」
「残り半分は」
「次に同じことをしたら、俺が直々に首根っこを掴む」
「褒め言葉としては、ずいぶん物騒ですね」
「物騒なことをした奴が言うな」
それで、この話は終わりだった。
処罰はない。
追及もない。
ただ、ゼノは知っている。
マルコが何をしたのか。
なぜやったのか。
ハルキは、その事実の方が重いと思った。
自分の知らないところで、マルコは危ない橋を渡っていた。
たぶん、ハルキの処遇を知るために。
その橋を、ゼノは見ていた。
渡らせたうえで、戻ってきたところに釘を打った。
ゼノは、乱暴に見える。
だが、雑ではない。
「で、本題はこっちだ」
ゼノは投影卓の表示を切り替えた。
三隊間通信途絶時行動表。
ユイが作った一次案だった。
その文字列を見た瞬間、ユイの背筋がさらに伸びる。
「作ったのはお前か」
「はい」
「名前は」
「ユイです」
「ユイ。これは徹夜か」
「……はい」
「だろうな。眠いやつの線だ。だが、目は悪くない」
ユイは返事に詰まった。
ゼノは笑う。
「褒めてる。半分はな」
「残り半分は」
「現場に持ち込むには、まだ穴がある」
ユイの表情が変わった。
眠気が消える。
仕事の顔になった。
「どこですか」
ゼノは投影卓を指で弾いた。
三つの戦域が重なる。
「いい顔だ。じゃあ、戦術の話をしよう」
お読みいただきありがとうございます。
今回は、ゼノ・ユル・ヴァレン少佐の本格登場回でした。
マルコ、ユイ、ハルキの三人が、それぞれ違う形でゼノに見られる回でもあります。
軍人としては豪快ですが、雑ではない。
セレーネ側の人物でありながら、単純に冷たいだけでもない。
そんな人物として読んでいただければ幸いです。
次回は、ゼノとハルキの間で、月の秩序そのものに踏み込んでいきます。
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