第16話 ノイズ
青い単眼の数が、また増えた。
リディアは、帰還経路を見た。
開いている。
「イオナ、退路」
「維持しています。ただし、長くは保ちません」
「アウルス」
「防護、持たせます」
リディアは《タケミカヅチ》を握り直した。
ここで長く戦う必要はない。
旧通信節跡の確保は完了している。前線拠点構築に必要な座標、通信節、地形データは取得した。
これ以上、敵を削る必要はない。
必要なのは、戻ることだった。
「南東区画、帰還経路へ移行」
イオナが通信を流す。
返答は断片的だった。
北西区画、撤収準備。
西側、制圧継続。
第五トリアド、負傷個体搬送。
第十トリアド、通信不安定。
リディアはそれを聞きながら、前方を見た。
アラミタマの群れは追ってくる。
撤退する敵を逃がさないのではない。
帰還経路そのものを閉じる。
それが、この群れの動きだった。
*
帰還艇内で、ハルキは三つの表示を同時に見ていた。
リディア隊の帰還経路。
《タケミカヅチ》の負荷値。
アラミタマ群体の再配置予測。
その下に、見慣れない波形があった。
戦闘ログの端に、引っかかるように。
最初は、戦闘ノイズに見えた。
ケルベロス・ネットの干渉。
アラミタマの通信妨害。
地表反射。
地球戦域の観測ログは、最初から汚れている。
だが、その波形だけは違った。
地中深部。
旧ゲリラ拠点跡の直下ではない。
もっと深い。
旧体制施設群へ伸びる地下構造の、さらに下。
未登録反応。
分類不能。
ハルキは、反射的にログを拡大した。
胸の奥が、遅れて反応する。
地球を見た時と同じだった。
知らないはずのものが、知らないと言い切る前に沈む。
「何だ、これ」
波形は弱い。
だが、ただ弱いのではない。
遠い。
深い。
ノイズの中に埋もれながら、消えない。
月側へ送信しようとする。
送信失敗。
再試行。
失敗。
戦闘ノイズとして自動分類されかける。
ハルキは指を止めた。
追うべきだ。
そう思った。
この反応は、ただの戦闘ノイズではない。
断言できる根拠はない。
だが、見逃してはいけない感覚だけがあった。
通信の向こうで、イオナの声が入る。
「帰還経路、開きます。隊長、二十秒以内に」
「了解」
リディアの声。
ハルキは、地中深部の反応と、リディア隊の帰還経路を同時に見た。
見ること。
戻すこと。
その順序を間違えれば、誰かが帰れなくなる。
ハルキは未登録反応をローカルに保存した。
追跡はしない。
今は、帰す。
「リディア、帰還経路の右側に攪乱が残っている」
「断つ?」
「いや、そこは囮だ。アウルスの防護で抜けられる。切るなら後方の回収信号。追撃が一拍遅れる」
「分かった」
リディアは即断した。
《タケミカヅチ》が走る。
一太刀目。
観測。
刃が拾う反応は、やはり濁っていた。
だが、リディアはもう、その濁りを恐れなかった。
濁っているなら、全部を斬ろうとしなければいい。
必要なものだけを取る。
戻るために必要な線だけを断つ。
二太刀目。
断絶。
群れの追撃が遅れた。
アウルスが防護を展開し、イオナが通信中継を回収する。
三人が帰還経路へ入る。
灰の中から、青い単眼がいくつも開く。
だが、届かない。
帰還艇の回収扉が開いた。
「リディア隊、帰還」
イオナの声が入る。
ハルキは、思わず席から立ち上がりかけた。
固定具に止められる。
リディアが入ってくる。
続いてアウルス。
最後にイオナ。
三人。
ハルキは、その数を見た。
リディアも見ていた。
任務成功の表示より先に。
敵性反応減衰より先に。
彼女は、帰還確認欄を見ていた。
第63次作戦投入、十二トリアド。
プロクシス、三十六体。
リディア隊、帰還個体数:三。
リディアの視線は、そこからしばらく動かなかった。
「隊長?」
アウルスが声をかける。
「問題ない」
リディアは言った。
だが、その声はわずかに低かった。
問題ない。
それは報告だった。
同時に、自分へ言い聞かせる言葉にも聞こえた。
イオナが自隊の損傷欄を確認する。
「アウルス、右腕部防護機構に過負荷。隊長、《タケミカヅチ》同期負荷が基準値上限付近です」
「戦闘継続は可能」
「帰還後、再評価です」
「了解」
アウルスが息を吐いた。
「覚悟はしてました。……けど、帰れました」
リディアは短くうなずいた。
「帰った」
それだけだった。
それだけで、十分だった。
帰還艇が上昇を開始する。
地表が遠ざかる。
灰の街が小さくなる。
青い単眼の群れが、瓦礫の奥へ沈んでいく。
旧ゲリラ拠点跡は確保された。
前線拠点は構築可能。
旧体制施設群へ進むための足場は、作られた。
だが、ハルキの端末には、地中深部の未登録反応が残っていた。
消えない。
送れない。
分類されない。
それは、勝利の記録の下に、黒い染みのように残った。
*
月へ戻る頃には、灰の匂いは消毒された空気に塗り潰されていた。
帰還艇の扉が開き、白い照明が中へ流れ込む。
整備員が駆け寄る。
監督官が記録を確認する。
プロクシスたちは検査区画へ誘導される。
ハルキは観測席からようやく解放された。
足を下ろした瞬間、膝が少し重かった。
重力ではない。
まだ地球の揺れが身体に残っている。
「はい、説教の時間」
降機口の先で、ユイが腕を組んで待っていた。
マルコが隣で片手を上げる。
「おかえり、観測席の置物」
「第一声がそれか」
「無事なら雑に扱っていいだろ」
ユイはハルキの顔を見た。
「……本当に無事?」
「たぶん」
「たぶんは禁止」
マルコの視線が、ハルキの端末へ落ちた。
「で、何か見たな」
ハルキは、すぐには答えなかった。
*
帰還から数時間後。
作戦ログ検討会が開かれた。
ハルキはそこにはいない。
リディアもいない。
ユイもいない。
マルコは、当然、出席権限を持っていなかった。
だから、別の方法を使った。
非接続型記録片。
小さな保存媒体。
ネットワークに接続しない。送信もしない。受信もしない。ただ、その場の音を拾い、後で回収する。
古い方法だった。
だからこそ、最新の監査には引っかかりにくい。
マルコは、会議準備用の備品にそれを紛れ込ませた。
「悪いな」
誰に向けた言葉でもなかった。
「オレ、心配性なんだよ」
記録片が戻ってきた時、月の居住区は静かだった。
共同研究室の照明だけが、まだ落ちていない。
マルコは灰色の白衣の袖をまくり、端末へ記録を流した。
音声は悪い。
会議室の反響、机の振動、端末の駆動音。
拾えた言葉は断片だけだった。
《第六十三次作戦……戦術的成功》
《旧ゲリラ拠点跡、確保》
《リディア隊における新型近接兵装の有効性……確認》
マルコは黙って聞く。
《エランテスの現地判断……有効》
指が止まる。
《管理分類の再検討が必要》
マルコの目が細くなった。
やっぱりな。
声には出さない。
《地下深度……未登録反応》
音声が乱れる。
白いノイズ。
《分類は、戦闘ノイズで処理》
マルコは再生を止めた。
部屋が静かになる。
端末の光だけが、灰色の白衣を照らしていた。
戦闘ノイズ。
便利な言葉だった。
拾いたくないものを、拾わなかったことにする。
見たくないものを、見なかったことにする。
マルコは、もう一度だけ最後の断片を再生した。
《分類は、戦闘ノイズで処理》
再生停止。
マルコは、短く笑った。
「……ノイズ扱いされたものほど、後でだいたい本命なんだよな」
その笑いは、軽くなかった。
第8章「灰の故郷」はこれで一区切りです。
リディア隊は帰還しましたが、戦場で拾われた“ノイズ”は、まだ終わっていません。
次章では、第63次作戦の別戦域と、その評価が描かれていきます。
引き続きお付き合いいただければ幸いです。
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