第13話 降下許可
第8章 灰の故郷
試験場の白い光は、まだ目の奥に残っていた。
《タケミカヅチ》の赤い制御線。
未定義同期域。
T-LOCKED。
到達不可。
その表示は、すでに端末から消えている。
だが、記録から消えたわけではない。
少なくとも、誰かが見ていた。
ハルキは、そのことを理解していた。
試験終了後、リディアは《タケミカヅチ》から手を離した。アウルスとイオナは安全確認を受け、ユイは二人の損傷値を確認している。マルコは軽口を戻さないまま、同期ログを追っていた。
成功した。
そう言えるだけの結果は出ている。
《タケミカヅチ》は起動した。疑似位相構造を断った。トリアド運用下で、一拍の隙を埋めることもできた。
そして、その手順を一度だけ飛ばした。
第一斬撃。
第二斬撃。
本来、分かれて記録されるはずの二つの処理が、重なっていた。
そこへ、科学庁長官が入室した。
足音は小さい。
だが、空気は変わった。
監督官が即座に姿勢を正す。周囲の研究員も動きを止めた。敬礼、視線の移動、端末表示の切り替え。すべてが静かに整列していく。
サラ・アルジャン。
科学庁長官にして、セレーネ最高意思決定機関〈シノドゥス〉に席を持つ人物。
この場の誰よりも上にいる。
少なくとも、ここにいる監督官たちが逆らう相手ではない。
だが、サラ本人の歩き方は静かだった。権威を見せつける足取りではない。最初からそこにあった規則が、人の形を取って入ってきたようだった。
リディアが、彼女を見た。
「サラ博士」
その呼び方に、監督官がわずかに眉を動かした。
だが、サラは訂正しなかった。
「リディア」
サラは、いつもの落ち着いた声で応じた。
「負荷は残っていますか」
「問題ありません。少し、内側に残っている感じはします」
リディアの返答は敬語だった。
けれど、監督官に向ける硬い報告とは違う。困惑をそのまま出すことを、許されているような響きがあった。
サラは、その差を当然のように受け止めた。
「残るでしょう。新しい兵装は、身体だけでなく判断にも触れます」
「……それは、危険ではありませんか」
「危険です」
サラは迷わなかった。
監督官がわずかに視線を動かす。
「ですが、あなたの判断を止める理由にはなりません」
リディアは、少しだけ目を伏せた。
「サラ博士が、そう言うなら」
「私が言ったからではありません。あなたが判断するからです」
柔らかいようで、逃げ道のない言葉だった。
リディアは短く息を吸い、姿勢を戻した。
「了解しました」
ハルキは、二人の会話を黙って聞いていた。
マルコが横から小さく笑う。
「試験が終わったばっかりで、次の話ですか」
「はい」
サラは表情を変えずに答えた。
「第63次地球奪還作戦において、《タケミカヅチ》の実戦性能調査を実施します」
ハルキは、端末の表示を見た。
第63次地球奪還作戦。
旧ゲリラ拠点跡。
前線拠点確保。
旧体制施設群へのアクセス経路取得準備。
それは作戦名であり、次の地球への扉だった。
地球。
その文字だけが、ほかの作戦語よりも遅れて胸の奥へ沈む。
理由は分からない。
記憶もない。
それでも、目が離せなかった。
マルコが、作戦項目を見て小さく息を吐いた。
「出所不明の知識と技術。難しい拾い物ですね、オレたちは」
「マルコ」
ユイが小さくたしなめる。
マルコは肩をすくめた。
「……失礼。けど、半分は事実だ。出どころ不明。でも使える。だから次は実戦で答え合わせだ」
サラは表情を変えなかった。
「答え合わせではありません」
「じゃあ、何です」
「帰還を前提にした実戦投入です」
「その言い方も、あまり優しくはないですね」
「優しさだけで、戦場は開きません」
「でしょうね。やっぱり、やりづらい人だ」
「あなたほどではありません」
「長官、今のは評価ですか」
「分類保留です」
ユイが、こらえきれずに少し笑った。
重い空気の中に、ほんの短い隙間ができる。
だが、その隙間はすぐに閉じた。
*
作戦説明は、軍部の監督官が引き継いだ。
壁面端末に地球圏図が開かれる。月の軌道、地球外周、複数の遮断帯。赤い網のような表示が、地球を覆っていた。
「本作戦に先立ち、地球圏防衛網の概要を再確認します」
監督官の声は冷静だった。
「ケルベロス・ネットは、通信妨害網ではありません。地球圏防衛網です」
表示上の赤い網が、いくつもの軌道線を切断していく。
「艦隊規模の接近は捕捉され、対艦迎撃の対象になります」
ハルキは、赤い網を見た。
航路ではない。
罠だった。
月から地球へ向かう線が、途中で赤く折られている。火力管制線も、無人機制御線も、誘導兵器の軌道も乱される。
近づけば、撃たれる。
艦隊で押し込めば、艦隊ごと沈む。
マルコが端末を見ながら言った。
「つまり、艦隊で行くと丸ごと焼かれる。遠隔操作は噛み千切られる。だから、プロクシスを降ろして、足で穴を開けるしかない」
そこで少し顔をしかめる。
「ずいぶん原始的な話だな」
「概ね、その理解で構いません」
「通るんだ、それで」
監督官は無視した。
「地球奪還には、ケルベロス・ネットの掌握が不可欠です。そのためには、旧体制施設群に残るアクセス権、通信節、認証経路を段階的に取得する必要があります」
端末の表示が切り替わる。
灰色の市街。
地下構造。
古い抵抗拠点。
そこから伸びる通信経路の断片。
全体図ではない。
地球全土を一気に取り戻す作戦でもない。
失われた網に、もう一度手をかけるための作戦。
ハルキには、そう見えた。
「第63次地球奪還作戦の目的は、旧ゲリラ拠点跡の確保。周辺の旧体制重要施設へ進むための、前線拠点を構築することです」
地球奪還。
その言葉は大きすぎる。
今回の作戦は、その名の全部ではなかった。
もっと深く降りるための足場。
閉じられた扉へ近づくための、一歩。
「投入戦力は、十二トリアド。プロクシス三十六体」
監督官が続ける。
「各隊は別ルートから旧ゲリラ拠点跡周辺へ進入。リディア隊は南東区画から突入し、旧通信節跡の確保を担当します」
リディアは、表示を見ている。
地図。
敵性反応。
降下経路。
帰還経路。
彼女が最初に見るのは、いつもそこだった。
どう入るか。
どう戦うか。
どう帰るか。
監督官が次の項目へ進もうとした時、ハルキは口を開いた。
「私も同行します」
その場の空気が、わずかに止まった。
ユイが顔を上げる。
マルコの眉が動く。
監督官は即座に答えた。
「推奨されません」
予想どおりだった。
「地球降下作戦は、原則としてプロクシスによって遂行されます。あなたはプロクシスではありません。戦闘能力もありません。非戦闘員を降下艇に乗せる合理性は低い」
「合理性ならあります」
ハルキは、端末上の作戦図を見た。
「《タケミカヅチ》の初実戦です。あれは、私の理論で動いている。月側との通信が切れるなら、現地で見なければ判断できないことが出ます」
「あなたは戦闘要員ではありません」
「分かっています。戦闘区域には出ません。帰還艇内の現地観測席で構いません」
監督官は即答しなかった。
その沈黙は、否定ではなく、許可できない理由を探す時間に見えた。
「現地観測席は、プロクシス部隊の後方支援担当者用です。非戦闘員を想定していません」
「なら、なおさら確認が必要です」
ハルキは言った。
「いまの《タケミカヅチ》は、机上の理論と試験場の結果だけで扱える段階ではありません。本物のアラミタマを相手にした時、どこで観測が濁るか、どこで断てるか。それを現地で見ます」
「あなたが現地にいる必要はありません。帰還後ログで十分です」
「十分ではありません」
ハルキは、はっきり答えた。
「ログになった時点で、失われるものがあります。何を戦闘ノイズとして処理したか、何を有効な反応として残したか。その判断そのものを、現地で見たい」
自分でも、少し踏み込みすぎたと思った。
だが、引く気はなかった。
地球。
ケルベロス・ネット。
《タケミカヅチ》。
そして、自分の中に残る、名前のない違和感。
それらが、同じ方向を向いている気がした。
「危険です」
サラが言った。
ハルキは彼女を見た。
「承知しています」
「承知と許容は違います」
サラの声は静かだった。
「あなたが失われた場合、《タケミカヅチ》の実戦評価だけでなく、非オルガノン系統の解析そのものが後退します」
心配ではない。
だが、軽視でもない。
ハルキを人として案じているのか、資源として失うことを避けているのか。
その両方に聞こえた。
「それでも行く理由はありますか」
「あります」
ハルキは答えた。
「現地で見なければ分からない」
ユイが、小さく息を吸った。
マルコが、面倒そうに額へ手を当てる。
「その“見なければ分からない”で死なれたら、オレが困る」
「戦闘区域には出ない」
「当たり前だ。出たら引きずり戻す」
「帰還艇内から出る気はない」
「気が変わる前提で言ってんだよ」
ユイが言った。
「行かない、って選択肢は?」
ハルキはユイを見た。
彼女は笑っていなかった。
「ある」
「じゃあ」
「でも、行く」
ユイはしばらく黙った。
それから、諦めたように息を吐いた。
「帰ってきてから説教するからね」
「行く前から予約されるのか」
「帰ってくる前提だから」
その一言で、ハルキは言葉を失った。
帰ってくる前提。
地球へ向かう者にとって、軽く言える言葉ではない。
リディアが、わずかにユイを見た。
その表情はほとんど変わらない。
だが、目だけが少し動いた。
サラは、その小さな反応を見ていた。
「帰還艇内観測席。戦闘区域への降機は禁止。リディア隊との通信はイオナの中継を介すること」
サラが言った。
「以上を条件に、同行を許可します」
監督官が顔を上げる。
「長官」
「許可します」
サラは繰り返した。
「ただし、これは保護ではありません。制限付きの運用です」
ハルキは短くうなずいた。
「了解しました」
「リディア」
「はい、サラ博士」
「あなたの任務は、拠点を確保すること。そして、隊を帰還させることです」
「了解しました」
「《タケミカヅチ》は、あなたの判断を補助する兵装です。あなたの判断を代行するものではありません」
リディアは短くうなずいた。
「分かっています」
「なら、よろしい」
その声だけが、ほんの少し柔らかかった。
ハルキは、二人の間にある距離を見た。
近いとは言えない。
だが、遠いとも言い切れない。
サラはリディアの判断を止めない。
リディアはサラの言葉を、命令としてだけではなく、何か別のものとして受け取っている。
その関係の名前は、まだ分からなかった。
だが、作戦は始まる。
地球へ降りる。
灰の中へ。
今回は、第63次地球奪還作戦へ向けた準備回でした。
サラ、マルコ、ユイ、ハルキ、それぞれの立場が少しずつ見える回になっています。
次回、いよいよ地球降下です。
月とは違う場所へ向かうハルキたちを、引き続き見守っていただければ嬉しいです。
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