表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/8

電信

再び、函館。

午後の電信局。


キーを打つ音が、突然止まった。

電信技師の顔色が変わり、局内に緊張が走る。

「……至急電だ」

読み上げられた文言は、短く、無慈悲だった。

「大久保利通

 本日午後、紀尾井坂キオイザカ(オイ)

 暗殺サル」


空気が凍りつき、次の瞬間、局内は蜂の巣を突いたような騒ぎになった。



明治十一年五月十四日。


「──号外!号外!」

函館十字街の昼下がりは、初夏にはまだ早いはずの陽気と人々の異様な熱気に包まれていた。

石畳の辻々で、刷りたての紙を振りかざす声が跳ねる。

「大久保卿、暗殺!」

「紀尾井坂にて遭難そうなん!」

紙片を受け取った人々が、一斉に息を呑み、ざわめき、うわさが噂を呼ぶ。


その渦中で、佐瀬精一は一人、えつっていた。

胸の奥が、ザワザワする。

――やってやった。

自分が函館で放ったわずか数行の電信が、どこかで何かを動かしたという、得体の知れない興奮。

歴史という得体の知れない概念に、初めて触れたという実感。

この瞬間、彼のペンはすでに刃よりも鋭い「凶器」になった。


「…たいしたものね」

低い声がして顔を上げれば、中沢明里あかりが立っている。

「なにをびっくりしてるの?約束の時間ぴったりのはずだけど?」

「あ、ああ。そうだったな」


往来には行商の声が交じり、乾物屋かんぶつや軒先のきさきからは昆布と潮の匂いが漂った。

異国船の汽笛きてきが遠くで低く鳴り、坂の上からは教会の鐘が、時間を確かめるように一度だけ響く。

海から上がる風は冷たさを残しつつも、日差しだけが先走り、石畳の継ぎ目にわずかな湿り気をにじませている。


昨日の今日だというのに、明里あかりは小奇麗に身なりを整え、疲れた様子もない。

手には号外があって、その視線は佐瀬ではなく紙面に落ちていた。

「あなたのペンが帝都ていとを動かしたわけね」

「どうかね」

佐瀬は興奮を押し殺して言う。

「これで、薩摩の屋台骨がきしみ始めりゃ、面白いんだが」

「…それで?」

明里あかりの問いは、驚くほど唐突で、鋭かった。

「白井さんは?もうどうでもいいの?」

佐瀬の笑みが消えた。

「んなこたあないさ。奴が隠蔽いんぺいに加担したという確証が欲しい」


「ずいぶん決めてかかるのね」

明里あかりは、一歩、佐瀬に詰め寄った。

「少なくともあの夜、白井さんは冷静だった。それだけは、はっきり言えるわ」

佐瀬は鼻で笑う。

言ってみれば部外者に過ぎないこの小娘が、なぜこうも真実にこだわるのだろう。

「見た目がそうだったからって、奴の頭の中身までは分からないだろ?」

「あなたは白井さんを知らないし、あの目を見ていない」

「見たさ。監獄かんごくへ引っ立てられる白井をな。だからこそ言ってる」


佐瀬は、号外を畳み、明里あかりの胸元に突きつけた。

「いいかい、中沢さん。世の中にはな、聖人君子せいじんくんし気取りで裏じゃ汚いことをやってる連中なんざ、掃いて捨てるほどいるんだ」

明里あかりは、その紙を押し返した。

声が、わずかに鋭くなった。

「じゃあ、あなたは、自分の記事が“真実”だと言い切れるの?」


一瞬の沈黙。


佐瀬は視線を伏せ、だがすぐに口角を上げる。

「真実に至る途中、だ」

「……ずるい言い方」

「記者なんて、みんなそんなもんさ」

佐瀬は、低く、ささやくように言った。

「このまま行けば、黒田も、大久保も、まとめて引きずり下ろせる」

「そのために、白井さんを共犯者にするつもり?」

明里あかりの声色に、かすかな非難が滲んだ。

「不正をもみ消すために火をつけた、卑劣ひれつ官吏かんり。そう書くの?」

「違うのか?」

明里あかりは、すこし考えた。

「さあね。それを調べるのは、あなたの仕事でしょ?」

佐瀬は、じっと明里あかりを見つめた。

「…あんたは、やつに情が移りすぎだ」

「そんなのじゃない。これは、記者あなたの職分の話よ」

明里あかりはきっぱりと言った。

記事それを書くなら、少なくともちゃんと裏を取るべきじゃない?」


佐瀬は少しムッとして、それから挑発的な眼で明里あかりにらんだ。

「そうだな。もちろん、裏を取る方法がないわけじゃない」

「つまり?」

「内部資料さ。あんたの立場なら、それに近づけるんじゃないのか?」


明里あかりは少し考えて、薄く微笑んだ。

「まだわたしに危険を犯せと?」

「もちろん、ただってわけじゃない」

それは、金の話でもあり、覚悟の話でもあった。


「いいわ。手伝ってあげる」

佐瀬はうなずき、肩をすくめた。

「どうも、あんたに上手いこと乗せられた気もするが」

明里あかりは、一歩、距離を取った。

「人を踏み台にしてのし上がる気なら、それなりの義理を通さなきゃね」

その言葉に、佐瀬の笑みが消える。

「…わかったよ。お嬢さん」


明里あかりは、そっけなく背を向けた。

「内部資料の件、やってみるわ」

去っていく明里あかりの背中を、佐瀬は追わなかった。

代わりに、号外の紙を強く握り潰す。

――面白い女だ。

だが同時に、胸の奥で別の声がささやく。

――情に流されてるのは、俺の方かもな。

二人の視線が、ようやく同じ方向を向き始めた瞬間だった。




夜半、函館の海霧じりは昼よりも重く、開拓使函館支庁の赤煉瓦あかレンガを、まるで水に沈めるように包み込んでいた。


「忘れ物を取りに来た」と夜勤の守衛に告げると、その男は眠たげに提灯ちょうちんを明里の顔に近づけた。

しがない下働きの女中になど、誰も警戒心を払わない。

明里は難なく裏門を抜けた。


夜の庁舎は、昼間とはまるで違う。

人の気配が消え、建物そのものが眠っている。

巡回の邏卒らそつの足音にさえ気を配れば、

彼女にとって、この庁舎は庭のようなものだった。


庁舎の内部は、昼の喧騒けんそうが嘘のように静まり返っていた。

ガス灯の残光が、廊下を細く照らしている。

壁に掛けられた開拓地図が、影に歪んで見えた。

金庫室の前で、彼女は一瞬、足を止めた。


まだ、焦げ臭い匂いが廊下まで漏れ出している。


明里あかりは、その隣、会計課の扉を開けた。

机、帳簿棚、算盤そろばん

すべてが、異様なほど整然としている。

事件の翌日とは思えない。

まるで、すべてを終わらせる前に、片づけたみたいに。


彼女は、白井の机へ向かった。

引き出しが一つ、施錠されている。


古い箪笥、その裏。

この部屋を何度も掃除した明里は、白井が合鍵を隠している場所も承知していた。

——白井さん。

胸の奥が、ひどく冷える。

もし彼が、ただの隠蔽犯いんぺいはんなら。

ただの、私利私欲に溺れた官吏かんりなら。

こんなことをする必要はない。


明里あかりは、鍵を差し込み、ゆっくりと回した。

かちり、という音が、夜に吸い込まれる。


だが、引き出しは空。

帳簿もない。


その背面にある書架には、年度ごとに整理された議事録のファイルが整然と並んでいた。

これだけは、焼かずに残されていたようだ。

明里あかりは、一番端にあった薄いファイル、「明治十一年」と背表紙に書かれたそれを引き抜き、パラパラと中身を改めていった。

やがて——

ページを繰るうちに、そこに挟まれていた一通の紙がはらりと床に落ちた。

「電信控え?」

明里あかりは、それを拾い上げた。


そこには、赤字で「至急」の符牒ふちょう

そして、簡潔すぎる文面。


『至急 大蔵省検査官 岩手視察了  明後日十四日 当支庁監査ノ為渡函  万端準備アリタシ』

明里あかりの目が、宙を彷徨さまよった。


——五月十二日。

日付が記されている。

白井が火を放ったのは、十三日の深夜。

電信は、そのわずか2日前に届いたことになる。

つまりこれは、いわゆる「抜き打ち検査」の通達だ。


明里あかりは、紙を胸に押し当てた。

その瞬間、廊下の向こうで、足音がした。

邏卒らそつの巡回。

彼女は即座に明かりを消し、机の影に身を滑り込ませる。

足音が近づき、止まり、やがて遠ざかる。



翌朝。

庁舎は、焼失した官金の後始末に追われていた。

官吏かんりたちは落ち着かず、書類を抱えて右往左往している。

明里あかりは、流し場で湯呑ゆのみを洗いながら、会計課の若い官吏かんり二人の立ち話を聞いていた。


「しっかし、大蔵省のお役人は、ずいぶんおカンムリだったぜ?わざわざ岩手から足を延ばして来てみれば、見るべきものはすべて灰になっちまって、手ぶらで帰るほかなかったんだからな」

もう一人が、鼻で笑った。

「しかし“開拓の鬼”黒田長官殿は、上層部の覚えもめでたい。どうせ今回も、さしたるおとがめはないだろ」

一人が、声をひそめる。

「それもどうだか。後ろだての大久保卿が亡くなって、おまけに最近じゃ内務省と大蔵省の関係もうまくねえって話だ。黒田長官といえど、足元が盤石ばんじゃくとは言えん」


湯呑ゆのみの底で、水が小さく鳴った。

明里あかりは、何も言わず、洗い続けた。


——大蔵省。

——抜き打ち検査。

——黒田。

——大久保。

白井は、この渦の中心に立たされていた。


バラバラの断片が少しずつ意味を持ちはじめる。


明里あかりは、濡れた手をきながら、もう一度考えてみた。

確かに何もかも辻褄つじつまが合う。


白井が金庫室に火を放った、五月十三日。

前日は日曜の休日だったが、週明けに出勤すると、土曜日の様子とは打って変わって、庁舎のなかはやけに殺気立っていた。

確かにあの日は、官吏かんりたちが慌ただしく廊下を行き交い、

いつもであれば、

「おい、お茶だ」

「弁当が遅い」

などと横柄おうへいな男たちが、誰一人として明里あかりを呼び止めなかった。


皆、帳簿ばかりを見ていた。

――あれは前触れ、予兆よちょうだったのだ。

明里あかりは、その場で考え込むことをやめた。




——もう、この重い事実は独りで抱えきれない



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ