電信
再び、函館。
午後の電信局。
キーを打つ音が、突然止まった。
電信技師の顔色が変わり、局内に緊張が走る。
「……至急電だ」
読み上げられた文言は、短く、無慈悲だった。
「大久保利通
本日午後、紀尾井坂ニ於テ
暗殺サル」
空気が凍りつき、次の瞬間、局内は蜂の巣を突いたような騒ぎになった。
明治十一年五月十四日。
「──号外!号外!」
函館十字街の昼下がりは、初夏にはまだ早いはずの陽気と人々の異様な熱気に包まれていた。
石畳の辻々で、刷りたての紙を振りかざす声が跳ねる。
「大久保卿、暗殺!」
「紀尾井坂にて遭難!」
紙片を受け取った人々が、一斉に息を呑み、ざわめき、噂が噂を呼ぶ。
その渦中で、佐瀬精一は一人、悦に入っていた。
胸の奥が、ザワザワする。
――やってやった。
自分が函館で放ったわずか数行の電信が、どこかで何かを動かしたという、得体の知れない興奮。
歴史という得体の知れない概念に、初めて触れたという実感。
この瞬間、彼のペンはすでに刃よりも鋭い「凶器」になった。
「…たいしたものね」
低い声がして顔を上げれば、中沢明里が立っている。
「なにをびっくりしてるの?約束の時間ぴったりのはずだけど?」
「あ、ああ。そうだったな」
往来には行商の声が交じり、乾物屋の軒先からは昆布と潮の匂いが漂った。
異国船の汽笛が遠くで低く鳴り、坂の上からは教会の鐘が、時間を確かめるように一度だけ響く。
海から上がる風は冷たさを残しつつも、日差しだけが先走り、石畳の継ぎ目にわずかな湿り気を滲ませている。
昨日の今日だというのに、明里は小奇麗に身なりを整え、疲れた様子もない。
手には号外があって、その視線は佐瀬ではなく紙面に落ちていた。
「あなたのペンが帝都を動かしたわけね」
「どうかね」
佐瀬は興奮を押し殺して言う。
「これで、薩摩の屋台骨が軋み始めりゃ、面白いんだが」
「…それで?」
明里の問いは、驚くほど唐突で、鋭かった。
「白井さんは?もうどうでもいいの?」
佐瀬の笑みが消えた。
「んなこたあないさ。奴が隠蔽に加担したという確証が欲しい」
「ずいぶん決めてかかるのね」
明里は、一歩、佐瀬に詰め寄った。
「少なくともあの夜、白井さんは冷静だった。それだけは、はっきり言えるわ」
佐瀬は鼻で笑う。
言ってみれば部外者に過ぎないこの小娘が、なぜこうも真実に拘るのだろう。
「見た目がそうだったからって、奴の頭の中身までは分からないだろ?」
「あなたは白井さんを知らないし、あの目を見ていない」
「見たさ。監獄へ引っ立てられる白井をな。だからこそ言ってる」
佐瀬は、号外を畳み、明里の胸元に突きつけた。
「いいかい、中沢さん。世の中にはな、聖人君子気取りで裏じゃ汚いことをやってる連中なんざ、掃いて捨てるほどいるんだ」
明里は、その紙を押し返した。
声が、わずかに鋭くなった。
「じゃあ、あなたは、自分の記事が“真実”だと言い切れるの?」
一瞬の沈黙。
佐瀬は視線を伏せ、だがすぐに口角を上げる。
「真実に至る途中、だ」
「……ずるい言い方」
「記者なんて、みんなそんなもんさ」
佐瀬は、低く、囁くように言った。
「このまま行けば、黒田も、大久保も、まとめて引きずり下ろせる」
「そのために、白井さんを共犯者にするつもり?」
明里の声色に、かすかな非難が滲んだ。
「不正をもみ消すために火をつけた、卑劣な官吏。そう書くの?」
「違うのか?」
明里は、すこし考えた。
「さあね。それを調べるのは、あなたの仕事でしょ?」
佐瀬は、じっと明里を見つめた。
「…あんたは、やつに情が移りすぎだ」
「そんなのじゃない。これは、記者の職分の話よ」
明里はきっぱりと言った。
「記事を書くなら、少なくともちゃんと裏を取るべきじゃない?」
佐瀬は少しムッとして、それから挑発的な眼で明里を睨んだ。
「そうだな。もちろん、裏を取る方法がないわけじゃない」
「つまり?」
「内部資料さ。あんたの立場なら、それに近づけるんじゃないのか?」
明里は少し考えて、薄く微笑んだ。
「まだわたしに危険を犯せと?」
「もちろん、ただってわけじゃない」
それは、金の話でもあり、覚悟の話でもあった。
「いいわ。手伝ってあげる」
佐瀬はうなずき、肩をすくめた。
「どうも、あんたに上手いこと乗せられた気もするが」
明里は、一歩、距離を取った。
「人を踏み台にしてのし上がる気なら、それなりの義理を通さなきゃね」
その言葉に、佐瀬の笑みが消える。
「…わかったよ。お嬢さん」
明里は、そっけなく背を向けた。
「内部資料の件、やってみるわ」
去っていく明里の背中を、佐瀬は追わなかった。
代わりに、号外の紙を強く握り潰す。
――面白い女だ。
だが同時に、胸の奥で別の声が囁く。
――情に流されてるのは、俺の方かもな。
二人の視線が、ようやく同じ方向を向き始めた瞬間だった。
夜半、函館の海霧は昼よりも重く、開拓使函館支庁の赤煉瓦を、まるで水に沈めるように包み込んでいた。
「忘れ物を取りに来た」と夜勤の守衛に告げると、その男は眠たげに提灯を明里の顔に近づけた。
しがない下働きの女中になど、誰も警戒心を払わない。
明里は難なく裏門を抜けた。
夜の庁舎は、昼間とはまるで違う。
人の気配が消え、建物そのものが眠っている。
巡回の邏卒の足音にさえ気を配れば、
彼女にとって、この庁舎は庭のようなものだった。
庁舎の内部は、昼の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
ガス灯の残光が、廊下を細く照らしている。
壁に掛けられた開拓地図が、影に歪んで見えた。
金庫室の前で、彼女は一瞬、足を止めた。
まだ、焦げ臭い匂いが廊下まで漏れ出している。
明里は、その隣、会計課の扉を開けた。
机、帳簿棚、算盤。
すべてが、異様なほど整然としている。
事件の翌日とは思えない。
まるで、すべてを終わらせる前に、片づけたみたいに。
彼女は、白井の机へ向かった。
引き出しが一つ、施錠されている。
古い箪笥、その裏。
この部屋を何度も掃除した明里は、白井が合鍵を隠している場所も承知していた。
——白井さん。
胸の奥が、ひどく冷える。
もし彼が、ただの隠蔽犯なら。
ただの、私利私欲に溺れた官吏なら。
こんなことをする必要はない。
明里は、鍵を差し込み、ゆっくりと回した。
かちり、という音が、夜に吸い込まれる。
だが、引き出しは空。
帳簿もない。
その背面にある書架には、年度ごとに整理された議事録のファイルが整然と並んでいた。
これだけは、焼かずに残されていたようだ。
明里は、一番端にあった薄いファイル、「明治十一年」と背表紙に書かれたそれを引き抜き、パラパラと中身を改めていった。
やがて——
ページを繰るうちに、そこに挟まれていた一通の紙がはらりと床に落ちた。
「電信控え?」
明里は、それを拾い上げた。
そこには、赤字で「至急」の符牒。
そして、簡潔すぎる文面。
『至急 大蔵省検査官 岩手視察了 明後日十四日 当支庁監査ノ為渡函 万端準備アリタシ』
明里の目が、宙を彷徨った。
——五月十二日。
日付が記されている。
白井が火を放ったのは、十三日の深夜。
電信は、そのわずか2日前に届いたことになる。
つまりこれは、いわゆる「抜き打ち検査」の通達だ。
明里は、紙を胸に押し当てた。
その瞬間、廊下の向こうで、足音がした。
邏卒の巡回。
彼女は即座に明かりを消し、机の影に身を滑り込ませる。
足音が近づき、止まり、やがて遠ざかる。
翌朝。
庁舎は、焼失した官金の後始末に追われていた。
官吏たちは落ち着かず、書類を抱えて右往左往している。
明里は、流し場で湯呑を洗いながら、会計課の若い官吏二人の立ち話を聞いていた。
「しっかし、大蔵省のお役人は、ずいぶんおカンムリだったぜ?わざわざ岩手から足を延ばして来てみれば、見るべきものはすべて灰になっちまって、手ぶらで帰るほかなかったんだからな」
もう一人が、鼻で笑った。
「しかし“開拓の鬼”黒田長官殿は、上層部の覚えもめでたい。どうせ今回も、さしたるお咎めはないだろ」
一人が、声を潜める。
「それもどうだか。後ろ盾の大久保卿が亡くなって、おまけに最近じゃ内務省と大蔵省の関係もうまくねえって話だ。黒田長官といえど、足元が盤石とは言えん」
湯呑の底で、水が小さく鳴った。
明里は、何も言わず、洗い続けた。
——大蔵省。
——抜き打ち検査。
——黒田。
——大久保。
白井は、この渦の中心に立たされていた。
バラバラの断片が少しずつ意味を持ちはじめる。
明里は、濡れた手を拭きながら、もう一度考えてみた。
確かに何もかも辻褄が合う。
白井が金庫室に火を放った、五月十三日。
前日は日曜の休日だったが、週明けに出勤すると、土曜日の様子とは打って変わって、庁舎のなかはやけに殺気立っていた。
確かにあの日は、官吏たちが慌ただしく廊下を行き交い、
いつもであれば、
「おい、お茶だ」
「弁当が遅い」
などと横柄な男たちが、誰一人として明里を呼び止めなかった。
皆、帳簿ばかりを見ていた。
――あれは前触れ、予兆だったのだ。
明里は、その場で考え込むことをやめた。
——もう、この重い事実は独りで抱えきれない




