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噂

その夜、彼女は佐瀬を呼び出した。

場所は、港に近い安宿(やすやど)の一室。

昼間の昂揚(こうよう)がまだ抜けきらないのか、佐瀬は部屋に入るなり饒舌(じょうぜつ)だった。


「妙齢(みょうれい)のお嬢さんが、こんなところに男を呼び出すなんて、穏やかじゃないな」

明里(あかり)は、不機嫌な顔で鞄のバックルをカチリと外した。

「ふざけないで」

その中から黙って電信控えを差し出す。

佐瀬はそれを受け取ると、無精ひげを撫でながらじっと見入った。

「…それがどういう意味だかわかる?」

明里(あかり)の問いに、佐瀬は低く笑った。

「ふふ、大蔵省から抜き打ち検査のお知らせか。お役人にとっちゃ、死神からの招待状みたいなもんだな。さぞ大慌(おおあわ)てしたことだろう」

「開拓使は大蔵省から睨(にら)まれてたってこと?」


佐瀬は、電信控えを指で叩きながら早口でまくし立てた。

「いいか?今の政府は一枚岩じゃない。薩摩の黒田清隆(くろだきよたか)――開拓使長官。こいつが北海道を牛耳(ぎゅうじ)ってる。その薩摩閥(さつまばつ)の親玉が、大久保利通だ。だが、それを快く思わない連中もいる」

明里(あかり)は佐瀬を睨(にら)んだ。

「もったいぶらないで」

「大蔵大臣の大隈重信(おおくましげのぶ)と大久保は、表面上よろしくやってるが、その実、水面下では常に激しいつばぜり合いを演じてる。インフレ対策と通貨の信用問題、有司専制(ゆうしせんせい)か議会政治の導入か…」

「ちょ、ちょっと!なに言ってるのか分からないわ」


明治十一年といえば、ようやく地方選挙が行われた年であり、女性の参政権はまだない。

役所勤めの明里(あかり)は多少政治にも通じていたものの、難しい経済政策や、有司専制(ゆうしせんせい)と文民統制(シビリアンコントロール)の違いなど、理解しようがなかった。

しかし佐瀬は手のひらを突き出して、明里(あかり)の抗議を制した。

「いいから聴けよ。そして……開拓使の不透明な予算だ」

明里(あかり)はわずかに目を見開いた。

「…つまりそれが、抜き打ち検査の理由?」

「ああ。だろうな」

佐瀬は、確信に満ちた声で言った。


「黒田には、なにかと黒い噂(うわさ)がつきまとってる。官有物(かんゆうぶつ)を安く払い下げて、身内の政商(せいしょう)に儲(もう)けさせてるって話は、記者仲間じゃ有名な話さ。だが証拠がない。だから大隈(おおくま)は、黒田のお膝元(ひざもと)――函館に刺客(しかく)を送った」

明里(あかり)は思わず苦笑した。

「ずいぶん芝居がかった言い方をするのね」


そして佐瀬は、その名を口にした。

「白井鷹之進は、立場上、当然金の流れを把握(はあく)してる。検査が来れば、帳簿は全部洗われて、黒田の不正が白日(はくじつ)の下(もと)に晒(さら)されるのは自明(じめい)だろ?」

「……だから、すべて燃やした?」

佐瀬は力強くうなずいた。

「白井は黒田を守ったんだ。上からの命令か、忠義かは知らんがな。帳簿を焼けば、検査はお流れになる」


理屈は通っている。

だが明里(あかり)は、なにか腑(ふ)に落ちないものを感じていた。

「…あの人が、そんなことをするかしら」

「どうしてしないと言い切れる?」

佐瀬は、鼻で笑った。

「すまじきものは宮仕(みやづか)えかな。白井だって例外じゃない」


明里(あかり)は、首を横に振った。

「じゃあ、あの顔はなんだったの?」

「…顔?」

「仕事をやり遂げた充実感、逃げ切ったという安堵感(あんどかん)、そのどれとも違う。あれはまるで…全てが終わったと悟(さと)ったときの、諦観(ていかん)、というか…」

明里(あかり)は、言葉にならないもどかしさに首を振った。

ガス灯が揺れ、二人の影が歪(ゆが)む。

佐瀬は答えなかった。

二人はまだ、白井の真実から遠い場所にいた。




官吏(かんり)たちの噂話(うわさばなし)は、仕事終わりの酒場で尾ひれがつき、翌朝には「既成事実」として語られる。

庁舎内ではみなが白井の錯乱(さくらん)を前提にひそひそと噂話(うわさばなし)に興じている。


「仕事の重圧に押しつぶされたのだろう」

「ああいった真面目な奴ほどおかしくなりやすいものだ」

「かわいそうに」


明里(あかり)は、配膳(はいぜん)をしながらその声を聞き流していた。

しかし。

「だが、厄介(やっかい)な会計検査も有耶無耶(うやむや)にやり過ごせたし、我々にとっては返って好都合だ」

「ま、奴も最後にお役に立てたんだから本望だろう」

向井といういけ好かない官吏(かんり)の放ったその一言に、明里(あかり)は、自分が抑えられなくなった。

「よくそんな恥知らずな口がきけますね?あなたたち提灯持(ちょうちんも)ちが、白井さんを追い込んだんじゃないですか」


「なんだと小娘!もう一度言ってみろ!」

向井が明里(あかり)に詰め寄ると、周りにいた官吏(かんり)たちも騒ぎ始めて、控所前(ひかえじょまえ)の廊下はちょっとした騒ぎになった。



「なにを、騒(さば)いちょっか!」

突如、ドスの効いた薩摩弁が響いたかと思うと、

官吏(かんり)たちが一斉に直立不動の姿勢をとった。


「黒田長官殿!」


その名にハッとした明里(あかり)は声の主を見上げ、目を見張った。

開拓長官、黒田清隆。

少々腹は出ているが、軍人上がりの堂々たる体躯(たいく)と、強烈な自負が威圧感を放つ。

明里(あかり)には庁舎内の温度が一度下がったように感じられた。

しかし、彼女が驚いたのはそのせいではなかった。

――この男を知っている。


向井という官吏(かんり)が、クドクドと言い訳を始めた。

「例の白井の素行について不平を申しておりましたところ、この女中が口を挟んで参りまして」

一瞬、黒田の瞼(まぶた)がピクリと動き、それからまた、あのドスの効いた声で一喝(いっかつ)した。

「ぬるか噂話(うわさばな)は、やめんか!今は例の不祥事(ふしょうじ)の跡片付(あとかたづ)けに、精(せい)を出(だ)せい!」


黒田には、女中など目にも入っていない様子だった。


刹那、明里(あかり)の中で様々な出来事がよぎり、思わず我を失った。

「あなたが…!」

食って掛かろうとしたところを、

何者かに腕を掴(つか)まれ、控所(ひかえじょ)に使われている小部屋に引きずり込まれた。


「おまえ!いま何を言おうとした?」

「放して!」

手を振りほどこうとして、明里(あかり)はようやく相手を認識した。

明里(あかり)がこの役所に勤める口利(くちき)きをした男で、名を阿部隆明(あべたかあき)という。

四十を過ぎたばかりで、等級は六等属、いわゆる中間管理職である。

「阿部…さん?」


阿部は明里(あかり)の両肩を鷲掴(わしづか)みにした。

「聞いてんのか?おまえ、いま黒田を罵倒(ばとう)しようとしたろ?」

「ええ、そうよ。だって…!」

「だってもクソもあるか!俺の顔を潰(つぶ)すなよ」

「わたし…」

明里は、力なく肩を落とした。



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