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凶刃

末広町にある函館電信局は、港に近い煉瓦造(レンガづく)りの平屋だった。

夜明け前から人の出入りが絶えず、湿った海霧(じり)が建物の中まで染み込んでいる。

室内には、油と金属と、かすかな焦げた匂いが混じっていた。


佐瀬精一は、机に肘をつき、紙片を見下ろしていた。

明里(あかり)から受け取った、あの焼け残り。

数字の断片。

罫線(けいせん)。

帳簿――その可能性。

確証はない。

裏付けもない。

だが、匂いは十分だった。


「電文は?」

電信技師が、面倒そうに顔を上げる。

「どこ宛?」

「東京。京橋だ」

技師は一瞬、眉(まゆ)をひそめた。

「…ははあ、大物を釣り上げたな?」

当時の京橋は、数十の新聞社がひしめく情報の中心地であり、近代新聞発祥の地とも言える。


佐瀬は、にやりと笑った。

「でもないさ」

紙に向かい、ペンを走らせる。

一字一句を選びながら、しかし迷いはない。


昨夜、函館支庁にて公金並びに裏帳簿(うらちょうぼ)焼却。

北海道開拓長官、黒田卿関与の疑い強し。

実行犯の会計官、現在拘留中(こうりゅうちゅう)。


短く、断定的。

そして、確信的に曖昧(あいまい)。

だが佐瀬の胸は、高鳴っていた。

――捏造(ねつぞう)じゃない。

――これは、真実へ至るための近道だ。

頭の中で、物語が組み上がっていく。

薩摩閥(さつまばつ)の、黒田清隆。

汚職。

証拠隠滅。

会計官という駒。


世間は、こういう話が大好きだ。

そして、東京の連中は、こういう火種をいつも待っている。


「送るぞ」

電信技師がキーに指をかける。

「内容に、相違ないな?」

佐瀬の脳裏(のうり)に、一瞬だけ明里(あかり)の眼がよぎった。

だが、その映像はすぐに押し流された。

「ああ。問題ない」


カタ、カタ、カタ――。

金属音が、室内に乾いて響く。

言葉が、線となり、電気となり、海を越えていく。

函館から東京へ。

わずか数分。

佐瀬は、その場で深く息を吐いた。


――やった。

これで、俺はもう「地方の記者」じゃない。


外に出ると、霧が少し薄れていた。

港の向こう、空が白み始めている。

「ねえ」

背後から、明里(あかり)の声がした。

振り返ると、彼女は局の入口に待っていた。

腕を組み、あの、冷めた目でこちらを見ている。

「…あれを、送ったの?」

「ああ」

佐瀬は、なぜか咄嗟(とっさ)に目を反らした。

「紙面には間に合わんが、掲示板に出る。今日中にな」



同じ頃。

東京、京橋。

朝の空気は、まだ夜の名残を引きずっていた。

商家の軒先では箒(ほうき)の音がし、馬車の蹄(ひづめ)が石畳を叩く。

新聞社の社屋前には、すでに数人の人だかりができている。


彼らの視線の先にあるのは、建物の正面に据えられた一枚の掲示板だった。


当時はまだ、印刷技術や配送網が未発達で、新聞が各家庭に届くのは翌朝だった。

そのため、電信で届いたばかりの外電や政変などを、新聞社は「大掲示板(だいけいじばん)」と呼ばれる社屋前(しゃおくまえ)の巨大な板に墨書きで貼り出す。

ここに書かれた言葉は、活字よりも早く、街を支配した。


『函館支庁にて公金焼却事件

黒田清隆関与の疑い』


人々が足を止める。

囁(ささや)きが広がる。


明治維新の功労者を数多く輩出した薩摩藩の醜聞(スキャンダル)。

なかんずく、黒田清隆は、維新後北海道開拓や政府財政を掌握(しょうあく)する要職にあり、中央でも絶大な権力を持つ人物である。

彼の背後には、新政府の中心人物である大久保利通の影が常にちらついた。


そうした定説を念頭に置けば、その文言が人々の疑念を煽(あお)り、中央政界の動揺につながることは誰の目にも明らかだった。


そして。

掲示板を取り巻く人々の中に、食い入るようにその文言に見入る男がいた。


島田一郎。

維新後に行き場を失った元士族で、新政府に対する鬱屈(うっくつ)を胸に溜め込んでいる男だった。

彼は、肩を並べる男に、震える声で尋ねた。

「……見たか」

「ああ…。薩摩(さつま)は、あんがに腐(くさ)っとったんか」

「やっぱし黒田も、大久保も、おんなじ穴の狢(むじな)やったがいね」

低く呟く。

黒田だけではない。

中央政界でも、多くの薩摩藩出身者たちが、絶大な権力を握り、函館のような遠隔地の政治さえ掌握(しょうあく)している。


島田は、ゆっくりと息を吐いた。

昨年の十一月以来、この日のためだけに準備を重ねてきた。

いまや、「権力の腐敗を斬る」という理念だけが、彼らを繋(つな)ぎ止めている。

それでも、

国家を動かす巨人、維新(いしん)の功労者を斬るという大事(だいじ)に、時折、臆病心が首をもたげる。

だが、それを少しでも口にすれば、積み上げてきた覚悟が砂のように崩れてしまうことを、誰もが知っていた。


しかし。


「今日(きょう)という朝に、これを見(み)たんは天啓(てんけい)や。もはや情けは無用、薩賊(さつぞく)の親玉を誅(ちゅう)すべし」

掲示板の前で、二人は静かに頷(うなず)き合った。

刃を抜く理由は、もう十分だった。


函館で起きた一件が、東京で “証明”にすり替わった瞬間だった。

それが誰かの功名心(こうみょうしん)から放たれた裏付けのない電信であったとしても、誰も気にしない。

掲示板の前を、一人の新聞記者が足早に通り過ぎる。

墨の文字をちらりと見て、彼は口角を上げた。

「こりゃ、売れるぞ」



東京・麹町(こうじまち)。

時間は少し遡(さかのぼ)る。


夜が、ようやく朝に譲ろうとしていた。

大久保利通の書斎には、もう灯が残っていた。


福島県令・山吉盛典(やまよしもりすけ)は、正座したまま背筋を伸ばしていた。

すでに二刻近く話を聴いているが、大久保の声は衰えない。


ようやく辞去の挨拶(あいさつ)を述べようと腰を浮かせたそのとき。


「この十年、戊辰(ぼしん)の役やら不平士族の反乱やらと、戦(いくさ)に明け暮れたものだが…」

大久保は、卓上の紙に目も落とさず言った。

「これからの十年は、その金を国の内治と殖産興業(しょくさんこうぎょう)に振り替えねばならん。その大業(たいぎょう)を見届け、私は後進に道を譲(ゆず)るつもりだ」

話を締めくくるように淡々と語った未来が、

この朝の最後の言葉になった。



午前八時。

大久保は、いつものように麹町(こうじまち)三年町の自邸を出た。

二頭立ての馬車は赤坂仮皇居へ――

御者(ぎょしゃ)は中村太郎。

天皇に謁見(えっけん)する、いつもと変わらぬ行程だった。

馬車の中で、大久保は書類に目を通していた。


午前八時半。

紀尾井町(きおいちょう)、清水谷(しみずだに)。

不意に衝撃が走り、馬が嘶(いなな)く。

刃が、蹄(ひづめ)を斬る音がした。

従者(じゅうしゃ)の芳松(よしまつ)が、なにごとかと馬車から飛び降りる。

背後で風を切る音がして帽子が宙を舞い、地面に落ちた。

「賊(ぞく)だ」

芳松は北白川宮(きたしらかわのみや)邸へ助けを呼ぶために走った。



次の瞬間、馬車が止まった。

「――!」

丸腰のまま飛び降りた御者(ぎょしゃ)の中村太郎は、背後から刺し貫かれ、声を上げる間もなく斃(たお)れた。


異変は、すでに終わりかけていた。

大久保が扉に手をかけたときには、すでに白筒袖(しろつつそで)の男たちが馬車の両側を塞いでいた。

引きずり下ろされ、脇に置かれていた御用箱が地面に砕け散る。

地面の冷たさが、膝(ひざ)に伝わった。


「――無礼者!」

よく通る声だった。


しかし、それが最後だった。

数度、白刃(はくじん)が閃(ひらめ)き、

最後の一撃は、介錯(かいしゃく)の形で首に突き立てられ、

その刃は地面に届いた。


大久保利通、四十七歳。


初夏の陽射しが、木立の影を石畳に落としていた。

馬車の音。

通行人のざわめき。


大久保が夢に描いた理想は、この坂の上で潰(つい)えた。



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