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野心

夜明け前の函館は、異様なほど静まり返っていた。

鎮火(ちんか)したばかりの開拓使函館支庁舎(かいたくしはこだてしちょうしゃ)の裏門には、まだ霧がまとわりつき、焦げた木と湿った紙の臭いが、潮風に溶けきれずに残っている。


赤レンガの壁には、昨夜の火の名残が黒い煤(すす)となって貼り付いていた。

その前に、ひとりの青年が立っていた。

佐瀬精一(させせいいち)、二十三歳。

地元小新聞の駆け出し記者である。


彼は目深(まぶか)にかぶった帽子のつばの下から、正面玄関を睨(にら)みつけていた。

門前には、昨年設けられたばかりの函館警察署の邏卒(らそつ)が二人、銃剣を肩にかけて立ち、部外者を遠ざけている。

「新聞だ。通してくれ」

その若さゆえか佐瀬は、媚(こ)びることを知らない。

だが邏卒(らそつ)はちらりと彼の腕章を見るだけで、首を横に振った。

「上から現場保全の命令が出ている。帰れ」


お上(かみ)、か。

佐瀬は心の中で舌打ちした。

――なにか隠している。

それが、彼の第一印象だった。

ただの小火(ぼや)であれば、警察の対応はもっと雑だ。

それなのに、邏卒(らそつ)が入口に張り付き、記者を締め出している。

これは単なる失火ではないのか?

焦げ臭い匂いが、十四のとき、会津で見た敗走の記憶を呼び起こす。

新選組の土方歳三が、この函館で死んだと聞かされたあの日。

勝者が「正義」を名乗り、敗者の声が土煙の中に消えていった、あの感覚。


―薩摩の唱える正義は、どうも胡散臭(うさんくさ)い。


幕末の勝者である薩摩藩は、維新後も北海道開拓や官僚の配置に強い影響力を持っていた。函館を支配しているのは、まさに薩摩の論理だ。

黒田清隆、その名が、佐瀬の頭に浮かぶ。

彼は門前で粘ることをやめ、さりげなく裏へ回った。


しばらくすると、裏口の戸がきしりと音を立てて開き、若い女が一人出てきた。

少々背が高いが、役所の女中にしておくには惜しい容姿(ようし)だ。


女の袖口(そでぐち)には、薄く煤(すす)がついている。

洗っても落ちきらなかった、夜の痕跡。

佐瀬は、その瞬間に「当たり」を引いたと直感した。


「お勤め、ご苦労さんです」

声をかけると、女は一瞬だけ足を止めた。

警戒はしているが、怯えてはいない。

「何か?」

低く、なのに透明さを感じさせる、不思議な声。

感情を削ぎ落としたような、乾いた響き。


「昨夜の火事のことでね。新聞記者だ」

名乗ると、女はちらりと彼を見た。

値踏(ねぶ)みする目だ、と佐瀬は思った。

「もう警察で話しました」

「でしょうな。でも、警察が聴きたいことと、世間が知りたいことは違う」

女は答えない。

ただ、視線を逸らそうともしない。


佐瀬は半歩、距離を詰めた。

「金庫室でも焼けたんですか?」

女のまぶたが、わずかに揺れた。

霧の中で、港の汽笛(きてき)が低く鳴った。

女は、ふっと小さく息を吐いた。

「記者さん」

その呼び方に、親しみはない。

「あなた、鼻がいいのね」

――やはり。

佐瀬は、口元だけで笑った。

猟犬(りょうけん)が、獲物の匂いを確かめた時の笑いだ。


「あんたの袖(そで)についてる煤(すす)。それは紙の燃えカスだ。まったく。いまどきのお金ってやつぁ、当てにならんね」

女は答えない。

だが、その沈黙自体が、肯定だった。


「お嬢さんのお名前を聞いても?」

「……中沢です。中沢明里(なかざわあかり)」

「じゃ、中沢さん。昨夜見たことを、俺にも教えてもらえませんかね?」

彼女は少し考え、そして挑発的な眼で佐瀬に微笑(ほほえ)みかけた。

「話せば…いくらもらえるのかしら?」

佐瀬は一瞬ぎょっとして、それから大笑した。

「中沢さん、あんた分かりやすくて気に入ったぜ?」

足で煙草(たばこ)をもみ消しながら、彼は確信した。

この女は、使える。

そして、この火事の一件は、いい踏み台になるかもしれない。

霧の向こうで、函館の街がゆっくりと目を覚まし始めていた。



庁舎から少し下った坂の途中に、その茶屋はあった。

昼間は船員や役人が立ち寄るが、朝靄(あさもや)の残るこの時間帯に客はほとんどいない。

煤(すす)けた行灯(あんどん)が一つ、戸口にぶら下がっているだけだった。

佐瀬は先に座り、湯呑(ゆのみ)を両手で包んでいた。

茶はぬるく、舌に渋みだけを残す。


佐瀬は、正面に腰を下ろす明里(あかり)を、あらためてまじまじと眺めた。


顔の半分を占めるのではないかと思わせるほど大きな瞳。

鋭く、山形に吊りあがった眉(まゆ)。

細く長く伸びた首と、完璧な鎖骨の線(ライン)。

明かりの下で見ると、こんな北の果ての港町には場違いな女だ。

まだ若い佐瀬は、彼女の瑞々(みずみず)しい唇に魅入(みい)られた。


「で?なにが聞きたいんです?」

その唇が言った。

彼女は警戒しているが、逃げ腰ではない。

佐瀬は単刀直入に切り出した。

「まずはこれだ」

一円札を数枚差し出すと、明里(あかり)は数えもせず、バッグに投げ入れた。


「ずいぶん、ぞんざいじゃないか」

佐瀬が咎(とが)めると、女は少しだけ口角をあげた。

「わたしね、少し前まで大森町のお茶屋で働いてたの」

「…なるほど」

夜の女、か。妙にあか抜けている理由が分かった気がした。

「しつこい客がいて、もう辞めたんですけど」

明里(あかり)の言葉は、やはりどこか乾いている。

「なら、この取引はいい副業になるはずだ」


交渉成立。

明里(あかり)は居住まいを正した。

「いいわ。始めましょう」

「まずは聴取で話したことを聞かせてくれ」

明里(あかり)は、その夜見たことを淡々と、要点を押さえて話した。


――なかなか、頭のいい喋(しゃべ)り方をする。

開拓使に潜り込ませる間諜(スパイ)としてはうってつけだ。


「それで全部?」

聞き終えた佐瀬が念を押すと、明里(あかり)は片方の眉をあげて笑った。

「警察にしゃべったことはね」

そう言って、着物の袂(たもと)に手を入れ、小さな紙片を出した。

焼け焦げ、端(はし)が崩れかけている。

佐瀬は身を乗り出す。

「紙幣じゃないな」

「ええ。ノートみたいな、数字や罫線(けいせん)が見えるでしょ?」

背筋に、ぞくりとしたものが走る。


佐瀬は無言でその紙片を折りたたんだ。


確信はない。

だが、匂いは十分だった。

「白井が、これを?」

「燃えたのは、大部分がゲルマン紙幣や太政官札(だじょうかんさつ)だったから、これを意図して焼いたのかは分からない」

明里(あかり)は言葉を選ぶように続ける。

「けど、彼はすごく丁寧(ていねい)に。まるで、供養するみたいに火にくべてた。だから、これも…」

供養、か。

佐瀬は、頭の中で別の言葉に置き換えた。

――なにかの隠滅(いんめつ)。

だが、もう一つ、引っかかる。

「なあ、中沢さん。白井は…なにか恐れてる様子はなかったか?」

彼女は、首を横に振った。

「いいえ。何というか、とても静かな佇まいだった」

佐瀬は、湯呑(ゆのみ)を置いた。

この事件は、単なる横領でも、放火でもない。

誰かが、何かを「終わらせた」。


佐瀬は立ち上がった。

「この記事を、東京へ飛ばす。書き様(よう)によっては、この記事は化けるぜ?」

「…嘘を書く、ってこと?」

「おいおい、人聞きの悪いことを言わないでくれ」

佐瀬は、胸の奥の高鳴りを抑えきれなかった。

「多少の誇張は、真実に至るための、近道だ」

明里(あかり)は、彼を見上げた。

「悪い人ね」

佐瀬は、否定しなかった。


茶屋の外では、霧が少しずつ晴れ始めていた。


佐瀬精一には、この火事の残り火が、ちらちらと燻(くすぶ)っているのが見えるような気がした。



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