第百二矢 来客
春風が心地良い。
雲一つない青空の下、朝支度を済ませた俺は駿府館の廊下を歩いていた。
(それにしても不思議な夢だったな…)
あの彼岸花で赤く染まった平原も、そこで出会った恵探も、恵探の言い放った忠告も細部まで鮮明に覚えている。
まるで実際に起こった出来事だったかのような、現実味のある夢であった。
ゆえに、俺には恵探の忠告をただの夢だと安易に片付けられなかった。
(でもあれが正夢だったとしても、山に気を付けろってどういうことだろ…?)
そう考え事をしていると、ふと廊下に落ちている一枚の花びらに目が留まった。
俺は足を止め、廊下の外側を見やる。
見れば、庭園に根を張る一本の古びた桜の木があった。
その枝先には、あまたの淡い桃色のつぼみが芽吹いているのが確認できる。
「そっか、もうそんな季節か…」
思えば、俺が初めて駿府館へと訪れたのもこのくらいの時期だった。
あれから数十年。
様々なことが変化すれど、この桜だけは変わらず駿府館を見守り続けている。
(和尚生きてるかな…いや、流石に寿命だよね…)
そうして感傷に浸りながら桜を眺めていると、吉田氏好の声が耳に入ってきた。
「大殿、お客人がお待ちでございます。」
「ごめん、今行く。」
俺はハッと我に返り、大広間へと向かった。
大広間の襖を開けると、すでに客人が座っているのが見えた。
(だいぶ待たせちゃったかな…)
俺は頭を下げながら、そそくさと客人の真正面に座る。
そこで客人の顔を見た。
白い髭を長く伸ばした、鋭い眼光をした僧侶。
最後に会ったのは数十年前だったものの、見間違えるはずがない。
「和尚!?」
思わぬ来客に、俺は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
すると、みるみるうちに和尚が怪訝な表情へと変化した。
「何じゃ、物の怪に会ったような顔をしよって。」
「だって、てっきり亡くなってるんだろうなって思ってたから…」
「人を勝手に殺すでないわ!!」
そうけたたましく叫んだ後、和尚は大きなため息をついた。
「…全く、おぬしは相変わらずのようじゃな。」
「和尚も元気そうで何より。でも、どうして今になって俺に会いに?」
「ちょうど駿河に用があっての。ついでに駿府館へ寄ったんじゃ。」
和尚の眉が少しだけ上がる。
「というか、おぬし忘れとることはないか?」
「え?」
「文じゃ!定期的に文を寄こせと別れ際に言うたであろうが!!」
「あ~…」
俺はサッと目を逸らす。
駿府館に来てまもない頃こそまめに書いていたのだが、いつの間にやら文のことを忘れていたのである。
そんな俺を見て察した和尚はこめかみを押さえながら、呆れたような声で言った。
「いらんとこまで師に似おって……おぬしが一国を治める殿とは未だに信じられんわい。」
「正確には大殿だけどね。」
「どちらにせよ、じゃ。」
すると、ふいに和尚が大広間を見回した。
「そういえば、承菊が見当たらぬがどこにおるのじゃ?」
「承菊は亡くなったよ。」
「亡くなった、だと…!?」
よほど衝撃的だったのだろう。
和尚は放心した様子で天を仰いだ。
「あまりにも早過ぎる……」
歳を重ねたしわの多い手が震え出す。
「最期くらい文を寄こさんか、馬鹿者…!」
和尚の頬を一筋の涙がつたる。
柔らかな光が差し込む大広間でのことだった。
その後、俺と和尚は空いた時を埋めるように話を交わした。
京の町の状況や互いの近況など、話題が尽きることはなく、一度も会話が途切れることはなかった。
そして和尚と再会を果たしてから小一時間ほど過ぎた頃、和尚がポツリと呟いた。
「さて、そろそろお暇しようかの。」
「もう帰るの?」
「うむ。」
「そっか。ま、近々京へ向かうからさ。その時にまたゆっくり話そう。」
「京に…おぬし、よもや上洛をいたす気か!?」
「うん。」
うなずく俺に和尚は唖然としていたが、少しして目を細め、口角がわずかに上がった。
「そうか…ならば、首を長くして京で待っておるぞ。」
そうして、和尚は駿府館から去って行ったのだった。




