第百三矢 上洛開始
暗雲が空一面に立ち込める。
「雨が降りそうだな…」
鎧を身につけた俺は、輿から灰色の空を見上げていた。
輿といっても、ただの輿ではない。
塗り輿と呼ばれる非常に格式高い代物だ。
なぜ俺がそんな塗り輿に乗っているのか。
時は約二ヶ月前に遡る。
和尚が駿府館を訪れてから数日後のこと。
桜が満開となった駿府館の一室では、俺と今川氏真による話し合いが行われていた。
「今年中に上洛しよう。」
俺は目の前に座る氏真に告げる。
それを聞き、氏真が目を丸くした。
「真にございまするか…!?」
上洛―朝廷ひいては足利将軍家の治める京へと赴く行為である。
筋書きはこうだ。
まずは大軍を率い、京へと向かう。
そして京へ着いたら、今川の国力を全国に示すため、朝廷や将軍へ謁見する。
その際、足利将軍家の臣下という今川の立場を利用し、将軍の信を得る。
よって今川の軍力で他国を治め、将軍の権威を以て天下を成し遂げるのだ。
この計画を考えたのは、今は亡き太原崇孚だ。
そのため、俺が隠居するずいぶん前から上洛自体は準備されてきた。
すると、氏真はウットリとした様子で呟く。
「上洛…ついに花の都へ行けるのか…」
「あ、氏真は駿府館で留守番ね。」
「え…」
明らかさまに肩を落とす氏真を、俺は慰める。
「万一の事態を考えてのことだから。上洛が成功して、一段落ついたらゆっくり京へ来なよ。」
「わかり申した…しかしながら父上、何故に今上洛をしようと決断したのですか?」
「今が最小限の犠牲で上洛できるのが思ってさ。」
三河国の反乱が収束した直後、尾張国でも大きな出来事が起こった。
反信長の筆頭であり、今川が支援していた織田信勝が暗殺されたのだ。
これを機に織田信長と争う者は尾張国にはいなくなり、尾張国の内乱は収束していった。
今川として見れば、支援していた信勝が敗北したのは痛い話だった。
だが、内乱の際に失われた国力は大きく、しばらく織田の動きを封じ込めることに成功したのである。
さらに二年の月日をかけて、三河国の復興もほぼ終えた。
ゆえに、俺は上洛を決行する時が来たと決断したのだ。
だが、ここのところ妙な胸騒ぎがする。
まるで重要な何かを見落としているような。
「…父上?」
氏真の声で、俺はハッと我に返った。
「ん、いやちょっと考え事してただけ。」
「ならば良いのですが…」
氏真はなおも心配そうにしながらも、今後の上洛について確認する。
「して、京へ向かう道は鎌倉街道でよろしいですね?」
「うん。そのためにも、まずは大高城の守りを固める。もし尾張を通過してる間に大高城が奪われたら挟み撃ちにされちゃうからね。」
大高城。
かつて鳴海城の城主・山口教継の策略により今川方へと寝返ったこの城は、目前に清須城があり、尾張攻めにおいて絶好の拠点であった。
だが、同時に織田軍が今川領に攻め込みやすい城でもあった。
というのも、大高城は織田領に深く入り込む場所に位置しており、周囲には織田側の砦が四つ囲うように築かれているのだ。
そこで俺は再び織田に寝返らせぬように、城主に親戚の鵜殿長持を置いた。
ところが、その長持が四年前に死去してしまい、現在は長持の息子で俺の甥にあたる長照が城主を務めている。
「ただ…長照くんってお調子者なとこがある じゃん。」
「同感にございまする…」
氏真が切実にうなずく。
常日頃、真面目な氏真とお調子者の長照ではそりが合わないのだろう。
俺は言葉を続ける。
「だから、もう一人二人頼りになる人を守りにつかせたいんだよね。」
「であれば、ぜひ松平元康に任せてみてはいかがでしょうか。」
松平元康とは、元服した竹千代の名前である。
この時、織田と今川の間で振り回された童は立派な今川家臣となり、日々研鑽を積んでいた。
「確かに元康くんなら氏真と似て実直だから信頼できる。じゃ、元康くんに大高城を守ってもらおうかな。」
俺は氏真の提案を採用し、次の話題へ移る。
「で、尾張を抜けた後のことなんだけど…」
そう、仮に尾張国を無事に通過しても京への道はまだ続く。
京へ行くには、尾張国の他に美濃国と近江国を通らなければならない。
そこで重要になってくるのが、二国を治める大名たちへの取り次ぎだ。
だが俺は隠居して、尾張国の監視と三河国の再興に力を注いでいたので、その取り次ぎには関わっていない。
関わっているのは、現当主である氏真だ。
「そこは問題ござりませぬ。近江の六角と美濃の斎藤からは良い返事を頂き申した。」
「よかったー。将軍に忠誠誓ってる六角さんはともかく、斎藤さんは通行拒否してくるかと思ったよ。」
「斎藤とは交渉に苦戦し申したが、どうにか話を取り付けることができました。」
「まあ、とにもかくにもこれで上洛の下準備が整ったね。」
その後も、俺たちは動員する兵数や出陣する日時など綿密に上洛の作戦を確認した。
そして半刻ほど過ぎた頃。
ついに話し合いが終わった。
「では、私はこれで失礼いたしまする。」
氏真が立ち上がり、部屋を後にした。
俺はもはや二年前の面影がなくなった氏真の後ろ姿を見送る。
俺が隠居してから、氏真は変わった。
当主としての自覚がついたのか、人に弱音を見せなくなったのだ。
それに伴い顔立ちもどこかたくましくなり、真面目さに拍車がかかった。
(成長を嬉しく思えばいいのか、寂しく思えばいいのやら…)
俺は仰向きに寝転がった。
眼前には、古びた天井が広がる。
「それにしても、ここまで長かったな…」
あと少しで乱世を終わらせることができる。
決して、楽な道ではなかった。
戦国時代に生まれ、家督争いを制し、他国と戦をし、息子に家督を譲り。
様々な人々と出会い、そして別れて。
今までの半生を振り返りながら、俺は目をゆっくりと閉じた。
そうして、現在に至る。
駿府館に集結したおびただしい数の兵士たち。
吉田氏好が俺に報告する。
「大殿!兵の準備が整い申した。」
それを聞き、俺は命を下す。
「よし、じゃあ京都へ行こうか。」
今川軍二万五千、駿府館より出陣。
かくして、今川悲願の上洛が始まった。




