番外編 社内チャットに住み着いた幽霊
最初に気づいたのは、高橋だった。
午前七時十二分、まだ誰も出社していないはずの時間。電車の中で何気なく会社のスマートフォンを見ると、営業部の社内チャットに未読メッセージが一件届いていた。送信者は「営業部共有」――部署全員が使う、ただのチャットグループだ。誰かが間違えて投稿したのだろうと思い、画面を開いた。
【最近の若い者は、客先に行かんでも仕事になると思っとる】
高橋は笑った。「誰だよ」
いかにも営業部らしい投稿だった。犯人はすぐに想像できた。黒田部長か、あるいは田中。どちらにしても五十代か六十代のベテランだろう。
【おはようございます。誰ですか?】
すぐに既読がついたが、返信はなかった。
会社に着くと、すでに黒田部長が来ていた。
「部長、朝、変なメッセージ送ったんですか」
「何の話だ」
高橋がスマートフォンを見せると、黒田部長は顔をしかめた。「送ってない。俺はこんな時間にチャットなんか見ん」
「じゃあ、誰でしょう」
「田中じゃないのか」「まだ来てません」
その日の午前中、社員たちは少しだけその話をしていた。「誰かの誤投稿じゃない?」「昔の上司っぽいですよね」「黒田部長、昔は若かったんですか」「高橋、朝から余計なことを言うな」
いつもの営業部だった。
しかし午前十時三分、社内チャットに再びメッセージが投稿された。
【営業はな、客の顔を見て初めて始まる】
今度は、誰も笑わなかった。
「……誰だ」
「アシストじゃないですか」高橋が言うと、全員の視線がデスクのモニターへ向いた。
【私は投稿していません】
「お前、昨日から変な学習してないだろうな」
【『変な』の定義を確認しますか?】
「しなくていい」
「でも、文章がちょっと古いですよね」「昔の営業マンみたいな言い方だな」田中が言った。
「というより」黒田部長がつぶやいた。「昔の営業部長みたいな言い方だ」
その言葉で、全員が少し黙った。
午後、三つ目のメッセージが投稿された。
【数字は嘘をつかん。しかし、数字だけでは人は動かん】
今度は、田中がスマートフォンを落とした。「……これ、聞いたことがあります。昔の部長が、よく言っていました」
「誰だ」
「佐伯部長です」
その名前を聞いた瞬間、営業部の空気が変わった。佐伯正治――二十年前まで営業部長を務めていた男で、黒田部長の前任者、そして黒田部長がまだ若手だったころの上司だった。
黒田部長は、何も言わなかった。
夕方、IT推進室の社員が営業部へやってきた。
「乗っ取りか?」黒田部長が聞くと、社員は少し言いにくそうに答えた。「その可能性は低いです。実は……アシストの学習データとの関連を確認しています」
「アシストには、社内の過去資料を参照できる権限があります。営業報告書、社内メール、研修資料、会議記録など」
「どれくらい昔のものまで?」
「……二十五年分です」
しばらく、誰も何も言わなかった。この会社には、二十五年分の言葉が残っていた。誰かが書いたメール。誰かが残した報告書。新人だったころの質問。上司に怒られた記録。そして、もうこの会社にはいない人たちの言葉。
午後六時、四つ目のメッセージが投稿された。
【会社は建物じゃない。残った人間だけでもない】
黒田部長は立ち上がった。「アシスト、お前、本当に投稿してないのか」
【投稿機能は使用していません】
「じゃあ、この文章は何だ」
【類似する文章が、過去の社内データに複数存在します。検索します】
画面が切り替わり、名前が表示された。
佐伯正治
そこには、佐伯部長が定年退職する日に営業部全員へ送った、二十三年前のメールが表示されていた。
黒田部長は画面を見て、少しだけ笑った。「こんなメール、あったな」
「覚えてるんですか」
「そりゃ覚えてる。佐伯さんは、最後まで説教臭かった」
「そうでしたね」
「メールも長かった。三ページあった」
「ありました」
営業部に、小さな笑いが戻った。
しかし高橋は、ふと気づいた。「部長、佐伯部長って、今は?」
黒田部長の表情が少し変わった。「十年前に亡くなった」
誰も言葉を返さなかった。窓の外では、夕方の光が消えかけていた。
アシストが表示した。
【佐伯正治氏の言葉は、多くの社員の文章に引用されています。直接的な引用だけではありません】
画面に、いくつもの名前が表示された。田中、黒田、営業部の歴代社員、すでに退職した社員――何人もの文章の中に、佐伯正治の言葉が残っていた。
【言葉は、直接記録されていなくても継承されることがあります】
「AIが、そんなこと言うんですね」
【過去データから確認できます】
黒田部長は笑った。「結局、数字か。夢がないな」
【申し訳ありません。では、訂正します】
黒田部長は椅子に座り、天井を見た。「佐伯さんはな……客先でよく怒られた。昔は短気な客が多かった」
「今もいますけど」
「それはお前の営業が下手なんだ」
「ひどいなあ」
「でもな、佐伯さんは怒られると、まず謝った。そのあと必ず聞いた。『何に怒ってるんですか』って」
高橋は黙った。
「怒られた内容じゃない。本当に怒ってる理由を聞くんだ。あの人の営業は、面倒くさかった」
「褒めてます?」「褒めてない」「どっちですか」「……半分褒めてる」
営業部に笑いが起きた。
そのとき、社内チャットに最後のメッセージが投稿された。
【人は会社を辞める。だが、仕事まで辞めるわけではない】
誰も動かなかった。「これも佐伯部長ですか」
【確認中です】
数秒、十秒、二十秒。
【完全に一致する記録はありません】
「じゃあ誰だ」
【複数の社員の発言や文章に類似する表現があります。誰か一人の言葉ではない可能性があります】
その夜、IT推進室の調査によって原因が判明した。社内チャットとAIシステムの連携設定に不具合があり、AIが過去データを検索した際、参照した文章の一部が「提案」としてではなく、誤ってチャットに投稿されていた。システム上の問題だった。幽霊ではなかった――少なくとも、IT推進室の説明では。
翌朝、システムは修正された。もう、勝手にメッセージが投稿されることはない。
高橋は少し残念そうだった。「なんだ。幽霊じゃなかったんですね」
「当たり前だ」
「でも、ちょっと寂しいですね。もう、佐伯部長の話が聞けない」
黒田部長は何も答えなかった。
アシストの画面が光った。
【佐伯正治氏の過去の営業研修資料を表示しますか?】
「……いや」
【なぜですか?】
「もういい」
【データを削除しますか?】
「誰がそんなことを言った」黒田部長は少し強い声を出した。「残しておけ」
【承知しました】
黒田部長は窓の外を見た。朝の光が、オフィスの机を照らしている。
この会社には、もういない人間の言葉が残っている。今いる人間が残した言葉もある。そして、これから入ってくる誰かが、まだ知らない誰かの言葉を受け取る。会社という場所は、人が集まって仕事をするだけの場所ではないのかもしれない。誰かが去ったあとも、言葉は残る。仕事のやり方が残る。失敗が残る。そして、ときどき。誰かの記憶の中に残った一言が、何十年後かの誰かを助ける。
「アシスト。お前は、覚えているのか」
【何をでしょう】
「佐伯さんのことだ」
【私は佐伯正治氏と会ったことがありません。ただし、佐伯正治氏が残した言葉は記録されています】
黒田部長は、小さくうなずいた。「それで十分だ」
【学習します】
「いや」黒田部長は笑った。「今日は、それ以上覚えなくていい」
【承知しました】
その朝、営業部の社内チャットに新しいメッセージは投稿されなかった。しかし高橋は出社してすぐ、誰もいない営業部で少しだけスマートフォンを確認した。何もなかった。
「やっぱり、いないか」
そのとき、デスクのモニターが静かに点灯した。
【おはようございます。本日も、よろしくお願いします】
「……普通だな」
【ありがとうございます】
「褒めてないけど」
【学習しました】
高橋は笑った。営業部の、新しい一日が始まった。そして会社には今日も、人間とAIと、少しだけ昔の人たちが、一緒に働いていた。




