八話 飼い主の追憶
猫の悲しい記憶の余韻に震えながら、俺の意識は再び、泥のような深い混濁の底へと沈んでいった。
今度は、もっと生々しく、もっとドス黒い「人間の絶望」の匂いがする記憶の濁流だ。
流れ込んできたのは、あの飼い主の男の視点だった。
◇
妻と子供に捨てられたあの日、僕の世界は完全に色を失った。
「猫はあなたに預けます」と言い残して出て行った妻の、あのゴミを見るような冷徹な目。僕は何も言えなかった。何も言い返せなかった。だって、自分が情けないせいで、会社をリストラされ、家賃の安いペット禁止のマンションへ引っ越さざるを得なくなったのは事実なのだから。
残されたのは、静まり返った部屋と、一匹の猫だけ。
僕は毎日、ハローワークに通った。けれど、三十代後半で特別なスキルもない男に、社会はどこまでも冷たかった。面接官たちの、履歴書を一瞥しただけで興味を失うあの薄汚い目。
「申し訳ありませんが、今回は――」
何十回、何百回と繰り返される拒絶の定型文。貯金は底を突きかけ、明日の食費すら危うくなっていく。社会から「お前は不要な人間だ」と毎日後ろから突き落とされているような感覚だった。
いつしか僕は、外に出るのをやめた。
パソコンの画面だけを見つめ、ネットの暗がりに救いを求める日々。そんなある日、僕の目に、不気味に光る海外の闇サイトの広告が飛び込んできた。
『大麻栽培キット・苗木一式。1kgで10万円の利益。愛用者100人以上』
最初は、ただの悪質なスパムだと思った。だが、通帳の残高を見るたびに、脳の裏側で悪魔が囁くのだ。
(これなら……これなら、誰にも会わずに、家の中で大麻を育てれば、一気にまとまった金が手に入るんじゃないか?)
苗を外国のサイトから安く仕入れて、国内の密売人に8万円で売る。利益は7万、税金もかからない。一度手を染めれば、信じられないほどのスピードで、画面上の口座の数字が増えていった。
いつかつかまる。それは分かっていた。
毎日、パトカーのサイレンの音が聞こえるたびに心臓が跳ね上がり、ビクビクと怯える地獄の日々。けれど、もうこの犯罪の味を知ってしまった指は、栽培を止めることができなかった。
そして、僕は――足元にすり寄ってくる、あの猫を見ることができなくなった。
「ニャー」
寂しそうに鳴き、僕の顔を覗き込んでくる純粋な瞳。
それを見るたびに、胸の奥が張り裂けそうになるのだ。
(頼むから、僕に近寄らないでくれ……。優しくしないでくれ……)
僕はいつかつかまる犯罪者だ。もし僕が警察に連行されたら、この子はまた、誰もいない部屋で一人ぼっちになって餓死するか、処分される。
もし今、この子に優しくして、僕のことを大好きにさせてしまったら、引き離された時にこの子をもっと傷つけてしまう。
だから、関わらない。関わってはいけない。
飯をやるのも忘れがちになり、どれだけ寂しそうに鳴かれても、心を鬼にして無視し続けた。それは、クズである僕が、この小さな命に対してできる、唯一の、そして最悪の「配慮」のつもりだったんだ――。
◇
「っ……!」
テレビ台の隙間で、俺はハッと目を覚ました。
鋭い呼吸が漏れる。涙が、猫の短い毛を伝って床にポトリと落ちた。
あいつが、猫を無視していた本当の理由。
それは、純粋な悪意からではなかった。いつか破滅する我が身を知っているからこそ、「自分を好きにならせないため」の、あまりにも不器用で、歪みきった優しさだったのだ。
人間は醜い。あいつは大麻に手を染めた犯罪者で、言い訳のしようもないクズだ。
だけど。
だけどあいつもまた、この理不尽な世界に背中を押され、絶望の泥の中に突き落とされた、俺と同じ「人間」だった。
暗闇の中、俺は静かに前足を見つめた。
猫の記憶と、飼い主の記憶。二つの切ない追憶が、俺の脳内で完全に一つに融合していくのを感じていた。




