七話 猫の追憶
男の狂気じみた怒号が耳の奥で鳴り響き、冷たい拒絶の視線に射抜かれた四日目の夜。
俺はリビングの最も暗い隅っこ、テレビ台の隙間に深く身を潜めていた。
鋭敏すぎる耳は、寝室から聞こえる男の不規則で荒い呼吸を拾い続けている。寝不足の頭はズキズキと痛み、胃の底からはあのキャットフードの生臭い酸がせり上がってくる。
(もう嫌だ……。人間も、猫も、全部やめたい……)
精神も肉体も限界だった。深い疲労の底へ引きずり込まれるようにして、俺はいつの間にか意識を失っていた。
だが、それは安らかな睡眠ではなかった。
真っ暗な意識の底で、ドクン、と奇妙な鼓動が跳ね上がる。
それは俺の記憶ではない。脳の奥深く、この肉体の持ち主であった「元の猫」の魂の記憶が、濁流のように俺の精神へと流れ込んできたのだ。
◇
視界に広がったのは、今のようなモノクロで歪んだ世界ではなかった。
もっと色彩に溢れ、暖かく、光に満ちた世界。
『私は、ずっと幸せだった』
温かい思考が、俺の意識とシンクロする。
記憶の中の猫には、大好きな「3人の家族」がいた。
いつも優しい匂いのする女の人間。大きくて頼もしい男の人間。そして、いつも小さな手で不器用に自分を撫でてくれる、子供の人間。
かつての私は、トイレの仕方も分からなかった。器から上手に水を飲む方法も知らなかった。けれど、彼らは怒ることもなく、何度も優しく頭を撫でながら、世界の歩き方を教えてくれた。
仕事から帰ってきた男の人間の足元にすり寄れば、彼は嬉しそうに笑って、私を抱き上げてくれた。その胸の中はポカポカと暖かく、ゴロゴロと喉を鳴らすだけで、世界中の幸せがここにあるのだと信じられた。
毎日が、優しくて、温かい時間だった。
ずっと、ずっと、この幸せが続くのだと思っていた。
けれど――ある日突然、その温かい世界は音を立てて崩壊した。
「どうするのよ、この子。新しいマンション、ペット禁止なんでしょ?」
ある夜、部屋の中で女の人間のヒステリックな声が響いた。
いつもの優しい匂いは消え、部屋の空気は針のように尖っていた。
「かわいそうだけど、しょうがないだろ。どこか遠くの公園にでも、ダンボールに入れて捨てるしかない」
男の人間の口から出たのは、かつて私を抱き上げてくれたあの優しい声だった。けれど、その言葉の意味を、当時の私は理解できなかった。ただ、大好きな人たちが酷く冷たい顔をしているのが、悲しくて、怖くてたまらなかった。
「なんでよ! なんで捨てるなんて発想が出るのよ! 意味がわからない!」
「じゃあどうしろって言うんだよ! 引っ越し費用だってギリギリなんだ。ペット可の物件に変える余裕なんてどこにあるんだよ!」
「はぁ……もういい。もうあなたにはうんざりだわ。離婚しましょう」
女の人間は激しく荷物をまとめ、子供の人間の手を引いた。
子供の人間は、泣きながら私を振り返っていた。けれど、ドアは冷たく閉められた。
「あなたのその、いつも大事なことから逃げて、他人のせいにする態度にはヘドが出るわ。猫はあなたに預けます。新しい家に、私たちは二人で行きますから」
それが、幸せだった家族の最後の言葉。
残された男の人間は、冷え切った部屋の真ん中で、ぽつんと立ち尽くしていた。彼は何も言わなかった。うなだれて、ただ静かに、絶望に震えていた。
その男の顔が、ゆっくりとこちらを振り返る。
涙と脂で汚れた、ボサボサの頭の男。
――それは、いま俺をこの部屋に閉じ込めている、あの飼い主の男の顔だった。
◇
「っ……、はっ……!」
激しい動悸と共に、俺はテレビ台の隙間で目を覚ました。
全身の毛が恐怖と興奮で逆立っている。冷や汗が皮膚を濡らし、小さな肉球がガタガタと震えていた。
夢じゃない。今のは、この猫の記憶だ。
そして、あの犯罪に手を染めている飼い主の男の、過去の姿だ。
あいつは、最初からクズだったわけじゃない。家族を愛し、猫を愛していた普通の人間だった。それが、経済的な破滅と、家族からの拒絶によって、あそこまで擦り切れてしまったのだ。
(人間は……やっぱり醜い。でも……)
捨てられたのは猫だけじゃない。あの男もまた、人間たちの都合によって、社会の底辺へと突き落とされた「被害者」だったのだ。
暗闇の中、俺は寝室のドアを見つめた。
猫の悲しい追憶が、俺の冷え切っていた心の中に、ジリジリとした切ない痛みを残していた。




