九話 思い、そして決意
五日目の朝。
カーテンの隙間から差し込む薄暮の光の中で、俺の頭はこれまでにないほど澄み渡っていた。
脳裏に焼き付いて離れない、二つの記憶。
家族の崩壊に絶望し、大麻という泥沼に足を踏み外した飼い主の男。そして、その男に無視され、飢えを突きつけられながらも、かつて自分を抱き上げてくれた温もりを忘れられずにいた猫。
その時、融合した記憶の奥底から、小さな、けれど明確な「意志」が俺の胸に直接語りかけてきた。それは、この肉体の本来の持ち主だった、あの猫の魂の残滓だった。
『やり返さなくて、いい。……もう、やり返さなくていいよ』
切ない、泣き出しそうなほどの優しい声が脳内に響く。
猫は怒っていなかった。ご飯を忘れられても、お風呂で怖い目に遭わされても、冷たく無視されても。男の不器用で歪んだ「これ以上好きにさせないための配慮」を、この小さな生き物は本能で察していたのだ。だから、自分を苦しめた男への復讐なんて、1ミリも望んでいなかった。
(やり返さなくていい……? こいつをこのまま放置しろって言うのか?)
俺の胸の奥から、ドス黒い感情がせり上がってくる。
(いいわけがないだろ。こんなの、いいわけがない!)
前世の俺、人間だった頃の「涼太」なら、きっと猫の言う通りにしただろう。「悪いのは自分だ」「恨みを買った自分が悪い」と、すべてを諦めて殻に閉じこもり、母さんに死ねと言われたら大人しく死ぬだけの、無気力な操り人形のままでいたはずだ。
だが、今の俺には自由がある。前よりずっと人間らしい。この男がこのまま大麻栽培を続ければ、待っているのは警察の逮捕と、完全な社会的な破滅だ。そして男が消えれば、残されたこの猫も今度こそ本当に処分される。
(誰がそんなバッドエンドを受け入れるかよ……!)
猫の健気な思いなんてクソ喰らえだ。当事者の思いがどうあれ、俺は俺のやり方で、この最悪の結末をひっくり返してやる。
『だめだ! 俺の独り言に聞き耳立ててんじゃねーよ。……お前を守るためだ。だからこそ、お前の責任にもさせねーし、この男も絶対に破滅させない。今度は俺が、ここにいるからな』
脳内で、猫の魂に向かって強く言い放つ。自分でも驚くほど、おこがましくて熱いセリフだった。松葉杖をついて、他人の顔色ばかり窺って、何もできずに階段から突き落とされたあの惨めな涼太とは、まるで別人みたいな言葉。
でも、それでいい。
変わるんだ。変わる機会が、今ここに与えられたんだ。
(変われ、変われ、変わっていけ……! 変わるんだ、涼太!!)
胸の奥で、カチリと何かが嵌まる音がした。
初めて、この「猫の身体」と自分の「人間の精神」が、本当の意味で完全に噛み合ったような感覚。身体が驚くほど軽い。寝不足の疲労も、キャットフードへの嫌悪感も、すべてが一時的に吹き飛んでいた。
俺はこの世界で、猫として生きていく。
どれだけ飯が不味かろうが、耳が痛かろうが、言葉が通じなかろうが、泥水をすする覚悟でこの肉体を乗りこなしてやる。そして、あのクズで、寂しがり屋で、不器用な飼い主を、この犯罪の泥沼から引きずり出してやるんだ。
俺はテレビ台の隙間から、のっそりと這い出た。
ベランダのカーテンの向こうには、男の人生を狂わせている、あの忌々しい緑の葉が並んでいる。
(待ってろよ、飼い主さん。今からお前の悪事を、全部俺が片付けてやるからな)
四つの肉球でしっかりとフローリングを踏み締めながら、俺はベランダの窓へと向かって、静かに、しかし確かな足取りで歩き出した。




