十話 俺は
六日目の、朝早く。
まだ外の空気が白く濁り、夜の冷気が街に居残っている時間帯だった。
奥の寝室からは、男の重苦しいいびきが時計の針の音と共に大音量で響いている。俺にとっては発狂しそうな騒音だが、今ばかりは好都合だった。あいつが眠っているこの僅かな時間だけが、俺に残された唯一のチャンスだ。
(音を出せば即、終わりだ。慎重にいけ、俺……!)
俺は四つの肉球に全神経を集中させ、フローリングを1ミリずつ滑るように進んだ。
目指すはリビングの大きな窓。昨日、あいつとのコミュニケーションを試みて突き飛ばされた後、男が乱暴に閉めた窓だ。鍵(クレセント錠)はカチリと深くかかっている。普通の猫ならここで手詰まりだが、俺の頭の中にあるのは人間の地頭だ。
ソファに跳び乗り、そこから窓枠の僅かな出っ張りに爪をかける。重力を無視するような猫の身体能力をフルに使い、鍵のレバーに前足を引っ掛けた。全身の体重を乗せて、下へと押し下げる。
カチャリ。
静まり返った部屋に、心臓が止まるほど鋭い金属音が響いた。俺は動きを止め、寝室の様子を窺う。いびきは途切れない。
安堵の息を漏らしながら、今度はサッシの隙間に前足をねじ込み、渾身の力で横に引いた。ズズズ……と重いガラス戸が開き、ひんやりとした朝の空気が、あの甘ったるい薬品臭を伴って室内に流れ込んでくる。
カーテンの隙間を潜り抜け、俺はついにベランダへと足を踏み入れた。
目の前には、朝露に濡れて怪しく光る、大量の緑の絨毯。男の人生を完全に狂わせ、破滅へと引きずり込んでいる大麻の苗木たちが、所狭しと並んでいる。
俺が思いついた作戦は、極めて単純で、極めて無茶な「悪事の隠蔽」だった。
道具も手もない猫の俺が、この犯罪の証拠をすべて消し去る方法。それは、この鋭い牙を使って、草を根こそぎ噛みちぎり、俺の胃袋の中にすべて処分してしまうことだ。
(やるしかねぇ……っ!)
俺は一番手前にあった苗木に顔を近づけ、ギザギザとした7枚の葉にガブリと噛み付いた。
その瞬間、脳が沸騰するほどの強烈な衝撃が口内を襲った。
『っぐ、ううぅ、あぁぁあ!!!』
それは、キャットフードの生臭さとは全く違う、別のベクトルの地獄だった。
舌の上に広がったのは、粘り気のある、暴力的なまでの激苦ア。人間の味覚を保ったままの俺の口内を、油分を含んだドロドロとした植物の毒液がじわじわと侵食していく。薬品をそのまま口に流し込まれたような、おぞましい化学臭が鼻の奥に逆流し、一瞬で涙がボロボロと溢れ出た。
猛烈な嘔吐感が胃の底からせり上がってくる。
『吐くな! 飲み込め! 吐いたら証拠が残るだろ!!』
脳内で自分に激を飛ばし、喉の拒絶反応を無理やりねじ伏せて、ゴクリと苦い塊を胃へと押し込む。
一枚、また一枚。俺は狂ったように首を振り、緑の葉を咥えては引きちぎり、噛み砕いて飲み込み続けた。
口の中は完全に麻痺し、感覚がなくなっていく。胃のあたりが異常な熱を帯び、内臓が焼け付くように痛む。
※あらかじめ言っておくが、決してハイになっているわけではない。ただ、目の前の男を救うという盲目的な使命感だけで、俺の精神は限界を超えて駆動していた。
顎を動かすたびに、バリ、ボリと不気味な音が頭蓋骨に響く。
泥水をすする覚悟なんて、とっくに完了している。あいつが家族を失い、社会に突き落とされて、どれだけ寂しい思いをしてきたかを知っているから。だから、この程度の苦痛、何十回だって耐えてやる。
どれほどの時間が経っただろうか。
ベランダを埋め尽くしていた緑の絨毯は、今や見る影もなく、すべて根元から無惨に狩り尽くされていた。俺の胃袋は、信じられない量の苦い植物でパンパンに膨れ上がり、呼吸をするたびに青臭い息が漏れる。
(やった……全部、消してやったぞ……)
口の周りを緑の汁で汚しながら、俺はフラフラとした足取りでリビングへ戻ろうとした。
その時だった。
ガラララッ!!
背後で、カーテンが勢いよく引き開けられる音が響いた。
「……おい。何やってんだ、お前」
冷や水を浴びせられたように、俺の総毛が逆立った。
振り返ると、そこには寝巻き姿のまま、目を見開いて立ち尽くす飼い主の男の姿があった。
男の視線が、かつて緑で溢れていたベランダの床を彷徨う。そして、口元を緑色に染め、床に転がる茎の真ん中にぽつんと佇む、俺の姿へと突き刺さった。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、男の完全に崩壊していく表情を、残酷なほど鮮明に照らし出していた。




