二話 食と初苦
え、嘘だろ。つまり俺は猫になって、しかもこれ、どこかの部屋の飼い猫ってことだよな……?
一瞬、脳裏に甘い妄想がよぎる。
人、やめられたぞ。あの息苦しい生活からも、母さんを擦り減らし続ける罪悪感からも解放されたんだ。これからは、ただ寝て、食べて、人間に甘やかされて死んでいけばいい。ありがとう母さん、突き落としてくれて。感謝するなんて頭がおかしいけど、俺は――。
「はい、餌だぞー」
上空から、大気を震わせるようなだみ声が降ってきた。
ポマードと脂の匂いを漂わせる巨大な人影が、床に身をかがめる。プラスチックの器がフローリングに置かれる「コン」という乾いた音が、鋭敏すぎる猫の鼓動を跳ね上げた。
その瞬間、部屋の空気が一変した。
器の中から立ち上ったのは、人間の鼻では決して許容できない、悍ましい濃度の悪臭だった。
(なっ、……う、嘘だろ……!?)
それは、真夏の炎天下にドブ川の泥と魚のハラワタを放置して腐らせ、そこに金属のサビを混ぜ込んで煮詰めたような、強烈極まりない生臭さ。嗅覚が何倍にも跳ね上がっているせいで、その毒ガスのような臭気は容赦なく俺の脳髄を直接引っ掻き回す。
『嫌だ! 離れろ! 近づくな!』
あまりの激臭に頭がクラクラし、気絶を求めて目を閉じようとした。
だが、俺の意志とは裏腹に、首の筋肉が、前足が、まるで誰かに見えない糸で操られるマリオネットのように、ガチガチと機械的な動きでその器へと近づいていく。
『やめろ! 動くな俺の体! 食べるな、頼むから食べるな!!』
脳内で喉が千切れるほどの悲鳴を上げるが、肉体には1ミリも届かない。身体に刻まれた「飢餓感」と「食欲」という獣の本能が、涼太という人間の意識を完全に無視して、強制的に食事のプロセスを開始したのだ。
ベチャリ、と湿ったピンク色の舌が、その茶色い固形物の塊に触れた。
『ひっ、あ、あああぁぁぁあ!!!』
口内に広がったのは、脳が全力で「毒物」と判断するような、どろりとした脂の不快感と、生魚の死臭を凝縮したような悍ましい味だった。
吐き気が爆発する。喉の奥が拒絶反応で激しく収縮し、今すぐ全てをぶちまけろと脳が命令を出している。
なのに、顎はボリ、ボリ、と不気味な音を立ててそれを噛み砕き、食道はウネウネと波打って、そのゲテモノを胃袋の底へと容赦なく押し込んでいくのだ。
吐きたいのに、嚥下される。
込み上げてくる酸っぱい吐瀉物が口まで戻ってくるが、猫の肉体はそれを「食事」と判断し、再び強引にゴクリと飲み干す。
自分の口の中が、汚物と死臭で完全に破壊されていく。
『おぅ、おえぇ、げほっ……!』
涙で視界が完全に塞がる。喉の奥から漏れるのは、掠れた獣の悲鳴だけだ。
意識が苦痛で真っ白になり、何度も失神しかけるが、そのたびに強烈な味覚と悪臭が俺の意識を現実へと引き戻す。なんで、なんで身体は猫なのに、感覚は人間のままなんだよ……!
どれほどの時間が経っただろうか。ようやく器が空になり、肉体の強制執行が解除された。
お腹は物理的に満タン。だが、涼太としての精神的・肉体的な吐き気は、すでに限界を突破してマックスに達していた。
(ハァ、ハァ……自分で、動かせる……っ!)
主導権が戻った瞬間、俺は四つの足を震わせながら、猛烈な嘔吐感に耐えて走り出した。
こんなものを腹に収めておけるわけがない。せめて、人間の意地として、あの清潔なトイレの中で吐き出したい――。
視界を回しながら、辛うじて開いていたドアの隙間から人間のトイレへと滑り込む。
「おいおい、何やってんだ。そこは人間のトイレだよ。お前のトイレはあっちだろ」
突然、背後から伸びてきた巨大な手に、むんずと胴体を掴み上げられた。
よりによって、破裂しそうな胃袋を真ん中から強く圧迫される。鉄棒でお腹を強打した時のような、あるいは内臓を雑巾のように絞られるような激痛。
限界だった。
「うえぇ……ッ!!」
人間の服の胸元に向かって、俺は胃の中のものを一気にぶちまけた。どろどろとした茶色の汚物が、男のシャツを汚していく。
「は? ……何してんの? まじかよ。このクソ猫が!!」
男の声から温度が消え、凄まじい怒気が膨れ上がる。
次の瞬間、俺の身体はゴミのように空中へ放り出された。
あ、また突き落とさ――。
バサリ、とリビングのクッションの上に叩きつけられる。
飼い主は汚れた服を忌々しそうに脱ぎ捨てながら、奥の部屋へと離れていった。
胃の中を全てぶちまけたおかげで、皮肉にも身体はだいぶ楽になった。
けれど、口の中を支配する最悪の残臭は消えない。俺は、縋るような思いで水の器へと向かった。
隣にある餌の匂いは相変わらず鼻を曲げそうになるが、背に腹は代えられない。
ペチャペチャと必死に水を舐めとる。これも人間の感覚としてはただの「ぬるい生水」で酷く不味かったが、喉の焼け付くような不快感は少しだけ和らいだ。
水を飲み終え、部屋の隅の暗がりにうずくまる。
いきなりの地獄で大混乱していたが、少しずつ冷静さを取り戻していくにつれて、この肉体の異常なスペックに気がついた。
五感の苦痛は凄まじいが、身体は軽い。さっき男に投げ飛ばされた時も、猫特有の柔軟な骨格のおかげで、痛みはほとんどなかった。
(……一応、俺の理想通り、なのか?)
人間をやめて、猫になった。もう松葉杖はいらない。歩けない足に絶望する必要もない。誰かに介護の負担をかけて申し訳ないと、夜中に一人で泣くこともない。
望む形では全くなかったし、食事は完全に拷問だけど、人間から蹴落とされてすべてを失うような結末には、もうならないはずだ。




