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アニマルメモリーズ  作者: syun
一章 
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一話 おはよう、ただいま

――真っ暗だった。

光の一筋すら存在しない、完全なる漆黒。上も下も、右も左もわからない。それどころか、自分に手足があるのか、それともただの肉塊として転がっているのかすら判別がつかない。

まるで、宇宙の果てにある「無」という名の底なし沼に、ぷかぷかと浮いているような感覚だった。

いや、ここは本当に「無」そのものなのかもしれない。

ということは。

(……俺は、死んだんだな)

今度こそ、間違いなく。

あの凄まじい衝撃。階段を転げ落ち、頭から床に叩きつけられたあの瞬間、俺の貧弱な人生は完全に幕を閉じたのだ。

俺を殺したのは、他ならぬ母さんだった。

けれど、不思議と彼女を責める気持ちは湧いてこなかった。

(責める権利なんて、俺にはないよな……)

二年前、誰ともわからない奴から背中を押され、歩けなくなった。そのせいで母さんの人生のすべてを奪い、生気を奪い、金まで搾り取った。俺があの日、理不尽な恨みを買ったのがすべての原因だ。だとしたら、悪いのは全部俺だ。最後に母さんは「ごめんね」と言ってくれた。あれまでの感謝と、これまでの苦労を考えれば、あの最後のひと突きくらいで帳消しにしてやってもいい。

満足のいく人生ではなかった。

学校にはろくに行けず、高校三年生まで出席日数はいつも留年ギリギリ。当然、青春なんてキラキラしたイベントが俺の灰色の日常に滑り込んでくる余地はなかった。

そこにきて、最後は実の母親からの処刑だ。

(まぁ……もう、いいか)

二年前に足を奪われた時、俺の心はすでに死んでいたようなものだ。それが一年、あるいは二年延びたところで、大した違いはなかった。

というか、ここは天国か何かなのだろうか?

だとしたら、随分と想像していたものとは違った。神様が光の階段を用意して待っているわけでもなく、ただただ、不気味なほど静かな闇があるだけ。

突然訪れた二度目の死に対して、俺の脳内は驚くほど冷静に、どうでもいい雑念を次々と生み出していた。

小学生の頃の一番楽しかった記憶、中学の時にやらかした黒歴史、そんなしょうもない記憶の断片が、真っ暗な空間に浮かんでは消えていく。それだけ「涼太」という一人の人間の人生は、中身の薄い、価値のないものだったということだ。

(……ん? でも待てよ)

思考はこんなにハキハキしているのに、なぜ視界が開けないんだ?

まさか、死んだ後もこの暗闇の中で、永遠に一人で自分の黒歴史を反芻し続けなきゃいけないのか? それはあんまりな拷問だ。

声を出そうとしてみる。

『転生もこのままじゃないかー』

あ、声が出た。自分の頭の中に、確かに間抜けた自分の声が響く。

声が出るなら、目だって開けられるはずだ。

固まって動かない瞼を、内側から必死に押し上げるようにして――よいしょ、と力を込めてみる。

じん、と奇妙な感覚と共に、視界の奥でかすかな変化が起きた。

『眩しっ……!』

思わず、脳内で悲鳴を上げる。

閉じていた世界の幕が、唐突に割れた。けれど、そこに広がっていたのは見慣れた白い病院の天井でも、実家の自室の天井でもなかった。

――世界が、ひどく歪んでいる。

まず、目がおかしい。圧倒的に視界がぼやけているのだ。

色の境界線が曖昧で、全体的に灰色がかったモノクロに近い世界。おまけに、ピントが全く合わない。視覚という情報が、人間のそれとは根本的に違っているのが本能的にわかった。

さらに異常だったのは、鼻だ。

『臭っ……!??』

強烈な、脳の芯を直接殴られたような悪臭が、文字通り限界突破して鼻腔に突き刺さった。

それは、古びたポマードと汗が混ざり合ったような、強烈な加齢臭。小さい頃、まだ家にいた父親の後頭部に、鼻をこれでもかと密着させて限界まで息を吸い込んだ時のような、あのツンとする不快な匂い。

それが、嗅覚の許容量を遥かに超えた大音量で、脳内に直接流れ込んでくるのだ。

あまりの臭さに息を止めようとした。しかし、なぜか自分の意志で肺の動きをコントロールできない。過呼吸のように、その悪臭を何度も何度も強制的に吸い込まされてしまう。

(な、なんだこれ……! 身体が、動かない……!?)

パニックに陥る俺の視界の端に、灰色に濁った「巨大な人影」のようなものが映り込んだ。

すると突然、俺の肉体が、俺の意志を完全に無視して勝手に動き出した。

一歩、二歩と、その人影に向かって前進していく。右足と左足を交互に出すのではない。もっと多く、複雑な関節の駆動を経て、身体が勝手に滑るように歩いていく。

(やめろ! どこに行くんだ! 俺は動かすなと言って――)

恐怖のあまり叫ぼうとした俺の口から、信じられない音が漏れ出た。

「ニュ、――ニャー」

かすれた、高く、情けない、獣の鳴き声。

え?

これ、俺の声か?

いや、違う。これは、猫の、鳴き声だ。

その瞬間、ぼやけた視界の隅に、床にペタリとついた「自分の前足」が映った。

白く短い毛並みに覆われ、小さな肉球がついた、まぎれもない四足歩行の獣の足。

『えええええええええええええ!!?』

喉の構造が違うせいで、外には一切漏れ出ない、けれど魂を引き裂くような絶望の叫びが、俺の脳内を狂ったように駆け巡った。

俺は、動物になりたいとは願った。

だが、まさかこんな形でそれが叶うなんて―。

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