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アニマルメモリーズ  作者: syun
一章 
1/7

プロローグ

もしも動物になれたら。


人間の皮を脱ぎ捨てて、まったく別の生き物になれたのなら、俺は少しは幸せに生きられただろうか。


断言してもいい、人間は醜い。


その内側に、計り知れないほどドス黒く濁った醜悪さを抱えている。


彼らは善人の仮面をかぶったまま、自分のため、あるいは何かの言い訳のために、他人を平気で泥の中に突き落とす。


そして、背後から音もなく近づいて、人生そのものを崖っぷちから突き落とすのだ。


その生々しい証拠が、まさに今の俺だった。


俺の足は、今も白く無機質な包帯に何重にも巻かれたままだ。


白い布の隙間から覗く肌には感覚がなく、自分の肉体でありながら、まるで他人の死体を無理やりくっつけられているかのように冷たい。


医師は哀れみの目を隠そうともせず、「これから動くことはもうない」と言った。


そんな今の俺からすれば、他の動物たちはどれほど魅力的で、美しく気高い世界に見えることか。


彼らには、人間のような陰湿な悪意も、裏切りもない。


ただ生きるために、なんの苦労もなく生きて、本能のままに食べて、ただ静かに死んでいく。


もし生まれ変わることが許されるのなら、俺は絶対に動物になりたい。人間なんて、もう二度と御免だ。


すべての始まりは、二年前のあの日に遡る。


当時、高校一年生だった俺は、ごく普通の道路を歩いていた。


出席日数はギリギリで、青春なんてキラキラしたものはどこにもない、灰色の日常。


学校から出た瞬間に感じる、重苦しい湿気。


駅へ向かう道すがら、すれ違う同級生たちが交わす他愛のない会話さえも、俺にとっては遠い銀河の出来事のように疎外感を感じていた。


俺の日常には、彩りがなかった。


ただ、鉛色の空の下、一日一日をやり過ごすだけの、終わりの見えないマラソンのような日々。


その帰り道だった。


後ろから突然、濁流のような質量を伴った「ドン」という衝撃が背中に走った。


突き飛ばされたのだ。


その瞬間、視界がぐにゃりと歪み、アスファルトが恐ろしい速度で迫ってきた。


脳裏を走馬灯のようなものが駆け抜けたのを覚えている。


ただ、それは死ぬ間際に見るような美しい記憶の断片ではなかった。


ただ、どうして自分がこんな目に遭わなければならないのかという、やり場のない憤りと、地面へ激突する直前の極限の恐怖だけが渦巻いていた。


幸いにも急所は外れ、一時の意識不明で済んだらしい。


だが、引き換えに一生消えない絶望が刻まれた。それがこの足だ。


事故直後は、本当に肉がちぎれて取れかかっていたという。


それを医師たちが必死のオペで、文字通り皮一枚で繋ぎ止めてくれたのだ。


けれど、ズタズタに引き裂かれた神経までは元に戻らなかった。


意識が完全に覚醒した後、何度念じても、脳からの命令は足先まで届かなかった。


ピクリとも動かない肉の塊。


病院からは義足の提案もされた。


しかし、俺はそのパンフレットをすぐにゴミ箱へ捨てた。


女手一つで俺を支えてくれている母親に、これ以上の出費という凶器を突きつけるわけにはいかなかったからだ。


結果として、俺の移動には最も出費の少ない松葉杖を使うことになった。


そして、母さんへも結局迷惑をかけてしまっている。


行きたい場所への移動、ベッドからの起き上がり、そのすべてで母親の細い肩を借りなければならない。


なんとも不便で、惨めで、情けない日常だ。父親は、ずっと昔に離婚していなくなった。


母さんはそれ以来、必死に頭を下げ、身体を壊す寸前まで働いて、一人で俺を育ててくれた。


だから、もうこれ以上は絶対に迷惑をかけないように、静かに、息を潜めるように生きていくはずだったのだ。


なのに、どうやら神様は俺のことが大嫌いらしい。


何か悪いことをしただろうか。


誰かを傷つけただろうか。


本当に、どれだけ記憶を掘り返しても心当たりがない。


ただ、理不尽に背中を押され、理不尽に自由を奪われた。


「トイレとか、大丈夫?」


部屋のドアが開き、聞き慣れた声が響く。彼女は俺の母親だ。


ベッドで眠る俺の様子を窺う彼女の目は、いつからか濁り、生気がすっかり消え失せてしまっている。


彼女が毎日必死に汗を流して稼いだお金が、何ヶ月分、何年分も、あの白い病院の天井に吸い込まれていったのだろう。


決して病院が悪いわけではない。


母さんの目が死んでしまったのは、全部俺のせいだ。


俺が誰かから理不尽な恨みを買って、こんな足になったせいだ。


「大丈夫。気にしてくれてありがとう、母さん」


だから、俺は絶対に母さんには反抗できない。


彼女の人生を壊してしまったという圧倒的な罪悪感が、俺の首を絞め続けている。


もし今、母さんから「死ね」と言われたら、俺は一切の躊躇なく、ベランダから身を投げるだろう。


それくらいしか、もう償う方法がないのだから。


「そう」


母さんの返事はそれだけだった。


毎日の会話は、いつもこの数言で終わる。


部屋の中に立ち込める、重く息苦しい気まずさを紛らわす方法を、俺たちはどちらも知らなかった。


母さんの背中は、昔よりもずっと小さく、薄く見える。


俺を背負って歩くたびに、その骨格が軋むような音がする気がして、俺はいつも息を詰めていた。


何気なくつけていた古いテレビから、無機質な女性アナウンサーの声が流れてくる。


『ニュースです。殺人の疑いで昨日、九十九つくもゆり容疑者、19歳が逮捕されました。


一昨年五月から今年三月にかけて、海浜市、霧浜市、雲浜市で22名もの高校生が次々と亡くなり、1名が重症を負いました。


なお、被害者たちと九十九容疑者は同じ小学校の出身で、この24名は全て当時の同級生だったとのことです。


九十九容疑者は現在、黙秘を続けており――。』


テレビの画面には、見覚えのある、けれどどこか酷く冷え切った少女の顔写真が映し出されていた。


九十九。


心臓が、嫌な音を立てて波打つ。あいつだったのか?


二年前、俺の背中を押して一生の怪我を負わせたのも、小学校の同級生たちを次々と惨殺していったのも。


皮膚の内側から、ぞわぞわとした悍ましい寒気がせり上がってくるのを感じた。


22人が死んで、1人が重傷。


その生き残りの「1人」が、まさに今ここにいる俺だ。あいつは、クラスメイトの全員を殺すつもりだったのか。


「母さん、ごめん……トイレ行かせて」


沈黙に耐えかねて、声を絞り出す。


下の階のリビングにいたはずの母さんが、静かに階段を上がって俺の部屋に入ってきた。


不安定な体をもらいながら、廊下に出る。


テレビからはまだ、事件の詳細を伝えるニュースの音がかすかに聞こえていた。


「あの事件、解決したんだね」


母さんが、ぽつりと言った。


久しぶりに、日常の定型文以外の言葉をかけられた気がした。


「そうだね……まさか、ゆりちゃんがそんなことをするなんて、思わなかったな」


俺がそう返すと、それきり会話は途絶えた。


また、気まずい沈黙が廊下を支配する。


俺の部屋からトイレに向かうには、どうしてもあの場所を通らなければならない。


短いけれど、急で、手すりだけが頼りの――階段。


ふと、頭の片隅に妙な違和感が浮かんだ。


改めて考えてみれば、なぜ母さんは、足が完全に動かなくなった俺の部屋を、わざわざこの階段の上の階に作ったのだろうか。


移動するたびに母さんの負担になることくらい、最初から分かっていたはずなのに。


……まぁ、そんなこと、口が裂けても聞けるわけがないけれど。


「ねぇ、涼太。ごめんね」


階段の最初の、一段目に差し掛かったところで、母さんの手が俺の肩から離れた。


同時に、背中に冷たい皮膚の感触が伝わる。


「え? どうしたの、いきなり――」


言いかけるより早く、俺の視界が爆発したように揺れた。


重力が消えたような、奇妙な浮遊感。


え。


あれ、なんで。


なんで、俺の頭が下を向いているんだ?


あ、松葉杖が、宙を舞っている。


母さん……?


突き落とされる瞬間、俺の視界の端に映ったのは、感情のすべてが抜け落ちた、能面のような母親の顔だった。


それは、俺を愛していたはずの母さんの顔ではなく、ただ淡々と、邪魔な荷物を下ろすときのような無機質な慈悲すら感じない表情だった。


状況を理解した瞬間には、もう遅かった。


家の中に、肉と骨が硬い床に激突する、凄まじい破壊音が響き渡る。


もう、あの冷酷な母親しか残っていない、誰も助けてくれない静かな家に。


――意識が、急速にブラックアウトしていく。


(ああ、これで、やっと死ねるんだな……)


痛みすら感じないほどの衝撃の中で、俺は確かにそう思った。


人間という醜い生き物の世界から、ようやくおさらばできるのだと、安らかな終わりの訪れを確信していた。


だが。


世界は、涼太という一人の人間に、そんな簡単な幕引きすら許さなかった。


これが、俺の物語のほんのプロローグに過ぎないことを、この時の俺はまだ知る由もなかった。

読んでいただきありがとうございます!!

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