三話 予想外
タクシーを降りると、冷えた空気が義足の隙間から入り込み、肌を刺した。家はひっそりと静まり返っていた。玄関のドアは、鍵がかかっていない。俺はゆっくりと、まるで獣が獲物の巣穴を覗くように中へと足を踏み入れた。
リビングへ続く廊下を歩くたび、義足が床を叩く音が家全体に響き渡る。そのリズムが、心臓の鼓動と重なって不吉なノイズを奏でていた。
扉を開ける。リビングの空気が、まるで何年も動いていなかったかのように停滞している。そして視界に入ったのは、かつて俺を突き落としたあの母の、枯れ木のように痩せ細った姿だった。
空になった薬の瓶が、足元でカチリと音を立てて転がる。
「……嘘だろ」
声が震えた。自分が望んでいたのは、こんな幕引きではなかったはずだ。
喉の奥に、鉄のような味がこみ上げる。俺は無心に駆け寄り、母の冷え切った手に触れた。かつて俺を突き落とし、俺の人生を狂わせたその手は、今や驚くほど軽く、何の力も持たなかった。
(なんでだよ。あんたが死んだら、俺は誰に問いかければいいんだ? なぜ俺を落としたのか、俺の何が気に入らなかったのか……その言い訳も、懺悔も、全部聞かせてくれるはずだったろうが!)
激しい憤りが込み上げる。だが、同時に胸の奥で、恐ろしいほどの空虚が口を開けた。
母さんが死んだ。それは、俺がこの人生で直面していた最大の「敵」が、自ら退場したことを意味する。同時に、俺が「死ぬことでやり直せる」と信じていたこのループの、終わりを告げているのかもしれない。
俺は椅子から崩れ落ちるように座り込み、母の亡骸と向き合った。
一体、何を話せばよかったんだろう。
「あんたなんて憎い」と叫べばよかったのか。それとも「どうして産んだんだ」と責めればよかったのか。いや、違う。俺が本当に聞きたかったのは、もっと根源的なことだ。
俺は、自分の人生をどう定義すればいいのか分からなくなっていた。
母さんを突き落とす――いや、突き落とされた後の自分の人生を、あんたの呪縛からどう切り離せばよかったのか。
(もし、ここで俺が死んだら、次はまた『涼太』に戻れるのか? それとも、ただの虚無が待っているだけなのか?)
死んだらやり直すことになるのはラクダのとか確認した。だが、今は違う。この取り返しのつかない喪失に直面した今、死ぬことへの恐怖よりも、「もう二度とあんたの真実には辿り着けないのではないか」という不安が、俺の魂を激しく揺さぶっていた。
「……最て、いだよ、母さん」
誰もいない部屋で、自分の声が空虚に響く。
母さんは答えない。当然だ。彼女はもう、言葉という概念の外側にいる。
(ああ、そうか。あんたは最初から、俺を困らせることしか考えてなかったんだな。突き落とした理由も、こうして死んでいく理由も、全部俺に押し付けて。俺が一生、この後悔と疑問に苛まれるように仕向けたんだ)
俺はふらりと立ち上がり、窓辺へと向かった。
カーテンを引きちぎり、結び目を作る手つきは、一度目の人生で経験したはずなのに、信じられないほど滑らかだった。自分の死に方を覚えているなんて、皮肉なものだ。
義足の足が床を離れ、視界がゆっくりと上昇する。
首にかかるカーテンの感触は、首を吊るにはあまりに心許ないが、今の俺にはこれで十分だった。
(死ねば、やり直せるはずだ。やり直せてくれ。次は必ず、母さんが死ぬ前に間に合う。そして今度こそ、あんたの正気を無理やりにでも引きずり出し、俺が知りたかったすべての答えを聞き出してみせる……)
いや、もしこれが最後だったら?
もし、この首の骨が折れた瞬間、俺の人生も、ラクダの記憶も、このどうしようもない憎しみも、すべてが闇の中に溶けて消えてしまったら?
恐怖で足がすくみそうになる。
真相を知りたい。俺は、母にとって何であったのかを、どうしても知らなければならない。このままでは終われない。納得できない。
(頼む。神様とかいうふざけた存在がいるなら、もう一度だけチャンスをくれ。俺はまだ、自分の人生を諦めちゃいないんだ。あんたを追いかけ、あんたの業をすべて引き受けて、その上で俺自身の生を勝ち取ってみせる!)
視界の端で、母さんの亡骸が、何かを言いたげに歪んで見えた。
俺は呼吸を止める。
首にかかった負荷が、頸椎をギシりと軋ませる。
(――行ってくるよ。次は、必ずあんたを問い詰めてやる)
俺はそのまま、重力に身を委ねた。
最後に見たのは、夕闇に沈んでいく田舎の空と、母さんの、死してなお醜く、そしてどこか愛おしい、動かない背中だった。
暗転。
意識が急速に、奈落の底へと引きずり込まれていく。
どうか、病院へ。
どうか、あの白くて無機質な天井へ。
そう願いながら、俺は深い闇の中へと消えていった。




