二話 リハビリ
「……吸って、吐いて。足に力を入れて」
リハビリ室に響く理学療法士の声が、遠くの風音のように聞こえる。
俺は自分の足を見つめた。そこには、アルミ製の義足が冷たく光っている。今、俺にとって足は忌々しい異物だった。きっと感覚は元と同じなのだろう。
「涼太さん、無理はしないでください。急激に筋肉が落ちていますから」
理学療法士の忠告を、俺は右から左へと受け流す。無理? そんなものは這いずり回る苦痛に比べれば、何でもない。
俺は震える足に力を込めた。自分の神経を、筋肉を、人間の頃の感覚に強引に繋ぎ直していく。
ギチリ、と義足の継ぎ手が嫌な音を立てる。
一歩。体重をかける。
膝が笑い、身体が大きく傾ぐ。そのまま床に叩きつけられ、冷たいリノリウムの床に顔を擦り付けた。
「涼太さん!」
慌てて駆け寄ってくる声。だが、俺は誰の助けも借りずに起き上がろうとした。
掌に痛みが走る。この痛みさえも、今は心地よかった。ここでは誰も俺を貪り食ったりはしない。自分の力で立ち上がることさえできれば、この世界は俺を殺しはしない。
それからの日々は、まさに地獄の再演だった。
喉の使い方もそうだ。言葉を発するということは、空気を整え、声帯を震わせ、形を作るというあまりにも複雑な儀式だった。
独り言のように、何度も「あ」という音を繰り返す。
最初は掠れた獣の吐息のようだった声が、少しずつ人の響きを帯びていく。自分の名前を呼ぶ。それが、俺という人間を再び形作るための唯一の作業だった。
夜、消灯後の病室で俺は一人、ベッドの縁に座り続けた。
誰もいない静寂の中で、自分の指先を見つめる。ラクダの重厚な蹄では決して掴めなかった、薄い紙の感触。ボールペンを握り込む力加減。それらすべてが新鮮で、そして狂おしいほどに人間らしかった。
「……おはよう」
鏡に向かって、何度も練習する。
「おはよう」
「母さん、ただいま」
「今日は、いい天気ですね」
ぎこちない表情筋が痙攣する。笑顔を作るという行為が、こんなにも筋肉を酷使するものだとは知らなかった。
二週間が過ぎた頃、俺は自力で病院内を歩けるようになっていた。
理学療法士は「奇跡的な回復ですね」と目を丸くする。看護師たちは「強くなりましたね」と微笑む。
だが、彼らは知らない。俺がこの病院という檻の中で、どれほど必死に、ただ「人間であること」を演じ、身体の自由を取り戻すために自分を追い込んできたか。
退院の朝。俺は鏡の中に、かつてないほど鋭い目をした青年を見つけた。
松葉杖をついて俯き、世界を呪っていたあの情けない少年は、もうどこにもいない。そこにいるのは、生きることに執着し、死を経験して帰ってきた一人の人間だ。
俺はゆっくりと深呼吸をした。
肺に清浄な空気が満ちていく。
ここなら俺はまたやり直せる。
タクシーを呼び、実家へ向かう準備を整える。
病院にあったカバンの中には、財布とスマホしか入っていなかった。
でもそれでいい。
「……待っていろよ」
誰に言うでもなく呟いたその声は、驚くほど滑らかで、そして冷たく響いた。
この病院を出れば、そこには地獄が待っている。母と対峙し、過去を尋ねるために。
俺は一歩、また一歩と、確実な足取りで病院の玄関を目指した。義足が床を叩く音が、未来への合図のように心地よく響いていた。




