一話 人間
「どうして……どうして生き返ったのよ!?」
狂気じみた母の叫びが、無機質な病室の空気を震わせた。
懐かしむ余裕なんて、これっぽっちもない。鼓膜を突き刺すその声を聞いた瞬間、俺のラクダとしての本能が、かつて感じたことのないほど鋭く危険信号を鳴らした。
(まずい。また殺される。このままじゃ終わる)
「帰、て……」
喉が焼け付くように痛い。声帯を鳴らそうと力んだが、出てきたのは「ヒュッ」という、無様で湿った吐息だけだった。
声の出し方。空気の震わせ方。そんな基本的な身体の使い方が、どうしても思い出せない。
俺はたまらず、シッシッと手で追い払うような仕草をした。せめて、今すぐこの場から母親を遠ざけなければ。
母は何かを言いかけたが、俺の死んだような虚ろな目を見て、ふと気圧されたように口を閉じた。彼女もまた、この異常な状況に動揺しているのだろう。無言のまま、足音を立てて病室を出ていった。
重い扉が閉まる音を聞いて、ようやく肩の力が抜けた。
(……俺は、何をしたかったんだ?)
ベッドの白さに目を細める。生きたいと願ったはずだ。死の間際、砂漠の地平線に沈む夕日を見ながら、魂を焦がすほど強烈に「生きてやる」と誓ったはずだった。
だが、その目的は霧のように霞んでいる。人間的な情熱や執着が、砂に埋もれて風化してしまったような感覚がある。
(……まあ、いい)
今は、まずこの不自由な肉体を掌握することだ。
ふと、サイドテーブルに視線をやる。そこには、声が出ない患者用だろうか、メモ帳とボールペンが置かれていた。
ラクダの四肢で砂を掻くのとはわけが違う。鉛筆を握るという、あまりに繊細な人間の所作。指先が微かに震える。
カチ、とペン先を出そうとするが、それすら上手くいかない。
指先の力の加減も忘れているらしい。なんとかペンを構え、震える手で白い紙に文字を刻んだ。
『話せない。これでいい?』
それは、自分の声とは到底思えないほどに歪んだ文字だった。
ちょうどその時、慌ただしい足音が廊下を駆けていき、看護師らしき女性が勢いよく扉を開けて飛び込んできた。
「目覚められたんですね! 本当に良かった、大丈夫ですか!?」
タイミングが悪すぎる。だが、会話の糸口は必要だ。俺はゆっくりとノートを看護師の方へ向けた。彼女は驚いたように目を見開き、そして表情を曇らせた。
「身体の、痛みは?」
『頭が、割れるように痛い。それ以外は何も思い出せない』
事実だ。特に、この病院に運ばれてくる直前の、母親とのやり取りがどうしても霧の向こうにある。
看護師は食い入るようにノートを覗き込み、そして次の質問は、あまりに唐突だった。
「なるほど、頭部の打撲がひどいので当然です。……ですが、確認させてください。あなたは本当に、単なる不注意で階段から転落したのですか?」
質問の意図が一瞬で理解できた。
俺は思考を巡らせる。今の俺に、怯えは必要ない。ここで嘘をついて、この不自由な生の時間を無駄にする理由もなかった。
『母に、突き落とされた』
その文字を書いた瞬間、ペン先が紙を突き破った。
看護師が息を呑むのがわかった。
「えっ……! 突き落とされたのですか? 本当に、お母様に……?」
俺は小さく頷いた。その拍子に、首の根元に走った鋭い痛みに顔をしかめる。彼女は表情を硬くし、即座に「警察へ連絡します。あなたもそれがいいですよね!」とまくし立てた。
返事をする間もなく、彼女は嵐のように病室を飛び出していった。
静寂が戻る。俺は荒い呼吸を整えながら、震える手でスマートフォンを手に取った。
母さんへのメール。送信画面に浮かぶのは、自分でも驚くような、冷ややかで、どこか諦念に満ちた言葉だ。
『母さん。警察が来るかも。自分が悪いと思ってるなら、ちゃんと捕まってね』
打ち終えて、溜息をついた。
俺は、なんと大概なバカなのだろうか。
殺されかけた相手に対して、この程度の言葉しか投げられない。怒りすら湧かないほどに、何か大切な感情をどこかに置き去りにしてきてしまったのかもしれない。
ただ、窓の外に広がる、あまりに清潔すぎる青空を見つめた。
どこまでも広い空だ。
『……さて、と』
声を出そうと、もう一度だけ喉を震わせた。
「あ……あ」
かすれた、獣のような呻き声が漏れる。
まだ、足りない。もっとまともな、人間としての音を拾わなくては。
この地獄のような日常を、今度こそ俺の手で終わらせるために。




