十三話 日は沈む
ドクン。、ドクン。、……ドクン。
胸の奥で刻まれる鼓動が、明らかに冷たく、そして遅くなっていくのが分かった。
母親ラクダの遺体を貪り食うハイエナたちの、骨を噛み砕く悍ましい音や肉を引きちぎる咀嚼音は、もう遠い世界の出来事のようにかすんで聞こえる。奴らは、俺の背後で肉の壁となって死んだ母に夢中で、足の壊れた俺のことなど、もう視界にも入れていなかった。
(動け……。前へ、前へ進むんだ……ッ!)
俺は、ボロボロの前足で砂を掻き毟り、狂ったように地を這った。
ハイエナに噛み砕かれた後ろ足は、もう完全に感覚を失い、ただの重い肉の塊として砂を引きずっている。移動するたびに、引き裂かれた腹の傷口から、生暖かい赤黒い血液がドロドロと溢れ出し、黄金の砂漠に一本の不吉な赤い線を引いていく。
痛いなんて、もう感じない。
ただ、身体の芯から凄まじい「寒気」がせり上がってきて、全身の筋肉がガタガタと拒絶反応のように震えていた。灼熱の砂漠、まだ空気は40度近い熱を孕んでいるはずなのに、俺の肉体だけが、まるで氷水に浸されているかのように冷え切っていく。
失血死だ。
医学的な知識なんてなくても、自分の命の灯火が、この流れる血と共に限界を迎えていることくらい、嫌というほど理解できた。
(嫌だ……、死にたくない……っ! 生きるんだ、俺は生きるんだよ……!!)
涙が、血と砂の混ざった顔をぐちゃぐちゃに濡らす。
かつて人間として階段から突き落とされたときも、猫としてベランダから投げ落とされたときも、俺はどこかで「諦めて」いた。どうせ俺の人生なんてこんなものだ、世界はクズばかりだから死んだ方がマシだ。そうやって、被害者のフリをして命を投げ出していた。
けれど、今は違う。
自分の命を身代わりにして、世界中のすべてを敵に回してまで俺を守ってくれた、あの野生の母親がいた。言葉なんてなくても、あの不器用な鼻先の温もりが、俺の魂に「生きろ」と刻み込んでくれたんだ。
あんたが遺してくれたこの命を、こんなところで、ただの無惨な屍にしてたまるか。
這いつくばってでも、泥をすすってでも、何年でも何十年でも生きて、この砂漠の空を見上げてみせる。
「ウ、グゥゥ……、ルゥ、ゥォォ……ッッ!!」
声を限りに叫ぼうとしても、喉の奥に血が上ってきて、不気味な息漏れにしかならない。
視界が、だんだんと狭くなっていく。
周囲の色が急速に失われ、まるで古い白黒映画を見ているかのように、世界の輪郭がボヤけていく。
ああ、なんて皮肉なんだ。
世界を呪って、死にたいと願っていたときには、あんな糞尿の泥水をすすらされてまで、強制的に生きながらえさせられたのに。
初めて心から、魂の底から「生きたい」「生きてあいつの愛に応えたい」と強く願った瞬間に、この世界は俺から容赦なく命を奪い去っていく。
神様、あんたはどこまで俺のことが大嫌いなんだ。
どれだけ俺を甚振れば、その歪んだ悪意は満足するんだよ。
西の地平線に、ゆっくりと太陽が沈んでいく。
砂漠の空が、燃えるような、あるいはドス黒い血のような、圧倒的な夕日に染まっていく。
その美しさが、今の俺には、無様に死にゆく畜生をあざ笑う、冷酷な世界の嘲笑にしか見えなかった。
(おかあ、さん……、ごめん……、俺……立てなかった……)
頭を支える筋力すら失われ、俺の長い顎が、バサリと冷たい砂の上に落ちた。
最後に視界に映ったのは、自分の血で赤黒く汚れた砂の粒子と、地平線を真っ赤に染める、どこまでも残酷で美しい日没の光だった。
体温が、完全に消失する。
心臓が、最後の弱々しい拒絶の脈動を刻み、そして――完全に停止した。
涼太の、ラクダとしての、二度目の人生が、あまりにも激しい「生への未練」を残したまま、最悪の結末で幕を閉じた。
◇
暗闇。
五感も、肉体の重さも、灼熱の熱も、すべてが消失した、完全な無の世界。
どれほどの時間が経ったのかすら分からない。
ただ、激しい「怒り」と、最愛の母を失った「悲しみ」、そして生きたかったという強烈な「執念(未練)」だけが、魂の形を保ったまま、暗闇の中でドロドロと渦巻いていた。
(……生きる。次があるなら、次こそは絶対に、何があっても生き抜いてみせる……!)
不意に、遠くから、微かな「音」が聞こえてきた。
ピピッ、ピピッ、ピピッ、……。
それは、砂漠の獣の鳴き声でも、風の轟音でもない。
どこか無機質な、聞き覚えのある電子音。病院の、心電図のモニターのような、冷たい機械の音だ。
そして、信じられないほど「軽くて小さな肉体」の感覚が、じわじわと魂の周りに構築されていく。
ラクダのあの泥のような重さはない。それどころか、手足の先まで、自分の意志が完全に通じる、あまりにも懐かしい「人間の肉体」の感覚。
(人間……? 嘘だろ、また人間に戻ったのか……!?)
驚愕に魂が震える。
その瞬間、視界の先にある、固く閉じられていた「まぶた」の向こう側から、強烈な蛍光灯の白い光が透けて見えた。
同時に、俺のすぐ耳元で、一人の女性の、酷く狼狽した、だけど聞き間違えるはずのない「あの声」が、ハッキリと鼓膜を揺らしたんだ。
「嘘……、嘘でしょ……!? なんで、なんで生き返るのよ……ッ! あんたはあの階段から落ちて、確実に死んだはずでしょ、涼太ァッッ!!!」
その、ヒステリックに響く絶叫。
俺の頭を乱暴に揺さぶる、生暖かくて冷酷な「人間の手」。
――それは、二年前、俺を階段の上から突き落とした、実の母親の、狂気に満ちた顔だった。




