十二話 絆
「ガ、ハッ……、ゴホッ……!」
血混じりの砂を吐き出しながら、俺は強引に目を開けた。
ハイエナの強靭な顎に後ろ足を噛み砕かれ、生きたまま肉を引きちぎられていたはずの身体。だが、今俺の肉体を包み込んでいるのは、肉食獣の冷酷な牙ではなく、驚くほど巨大で、圧倒的に温かい「肉の壁」だった。
「ルゥ、ゥゥゥォォォォン……!」
頭上で響く、かすれた、けれどどこまでも気高い咆哮。
見上げた視界の先、俺を覆い隠すように覆い被さっていたのは、追憶のなかで何度も俺の後ろ姿を見守ってくれていた、母親ラクダだった。
彼女は、ハイエナの群れに貪り食われかけていた俺の肉体を引き剥がすように、その巨体で割り込んできたのだ。
クカカカカ! クケケケッ!
獲物を横取りされたハイエナたちが、激しい怒りの声を上げて母親ラクダへと一斉にターゲットを変える。
十数頭の飢えた悪魔どもが、彼女の細い四肢、無防備な腹、そして長い首筋へと、容赦なくその凶悪な牙を突き立てていく。
バリ、ブチリ、と肉が裂ける悍ましい音が、俺のすぐ目の前で鳴り続け、熱い、ドス黒い血液が、雨のように俺の顔へと降り注いできた。
(やめろ……、やめてくれ……っ!!)
叫びたかった。代わってやりたかった。
だが、ハイエナに後ろ足を破壊された俺のラクダの肉体は、どれだけ前足で砂を掻いても、地を這うように数センチ動くのが限界だった。動かない足。人間の時の「動かない足」の呪いが、この最も大切な瞬間にも、冷酷に俺の自由を奪い去っている。
「ブモォォォッ! ルゥゥゥッ!!」
俺の口から漏れるのは、ただの情けない畜生の悲鳴だけだ。
目の前で、母親ラクダの分厚い皮膚が引きちぎられ、白い骨が剥き出しになっていく。ハイエナどもは彼女の肉を骨ごと噛み砕き、生きたまま貪り食っている。それでも、彼女は頑なにその場から動こうとはしなかった。
ただの一歩も退かず、ハイエナたちの攻撃のすべてをその身に受け止めながら、俺を自らの身体の影に隠し続けている。
なぜだ。なぜそこまでして、俺みたいな化け物を守る。
俺の魂は人間だ。あんたの本当の子供じゃない。中身は、人間に裏切られ、母親に突き落とされ、世界中のすべてを憎んで呪っている、薄汚い人間のガキなんだぞ。
それなのに、彼女の濁った瞳には、俺に対する恐怖も、嫌悪も、1ミリも存在しなかった。
ただ、愛おしい我が子を見る、あの追憶のなかとまったく同じ、静かで、底なしに温かい眼差しだけがそこにあった。
「ルゥ、……ゥゥ……」
ドスッ、と力なく地響きを立てて、母親ラクダの巨体が膝から砂の上に崩れ落ちた。
大量の出血と、容赦なく肉を削り取られたことによる、限界の兆候。それでもハイエナどもは容赦しない。動けなくなった彼女の背中に群がり、まるで黒い蟻のように、その肉体を蹂躙し、貪り続けている。
群がる捕食者たちの隙間から、母親ラクダが、最期の力を振り絞るようにして、その長い首を俺の方へと伸ばしてきた。
血と泥に塗れ、あちこちの肉が剥き出しになった、ボロボロの鼻先。
それが、俺の額のあたりに、そっと触れた。
トン、と。
追憶の中で、幼くて歩けなかった俺を、何度も何度も励ましてくれた、あの不器用な、優しい小突き。
言葉なんて、やっぱり何一つない。
けれど、彼女のその最期の接触は、俺の魂の奥底に、どんな人間の言葉よりも雄弁に、重く、温かく突き刺さった。
『生きなさい』
ただ、それだけを、彼女は俺に伝えていた。
世界がどれだけ過酷でも、群れからどれだけ拒絶されても、肉体がどれだけ痛みに引き裂かれようとも、あなたがどんな姿であっても。私はあなたの母親だから、あなたが生きることを、絶対に諦めない。
――ああ、あああ、あああああああッッッ!!!!
俺の心の中で、何かが完全に決壊した。
かつて、実の母親に階段から突き落とされたあの朝から、俺の心は完全に凍りついていた。人間は醜い、愛なんて嘘だ、世界は敵だ。そうやって心を黒い炎で焦がし、被害者の殻に閉じこもることで、俺は自分を守っていた。猫のときも、自分の身勝手な正義を押し付けて、裏切られたと勝手に絶望していた。
けれど、違った。間違っていたのは、俺の方だ。
この世界には、言葉をもたない獣の世界には、こんなにも純粋で、命を丸ごと投げ出すような、本物の無償の愛が存在していたんだ。俺は、それを受け取るための目すら持たずに、ただ世界を呪って、勝手に自暴自棄になっていただけだった。
(お母さん……、お母さんっ……!!)
人間の言葉で、魂の底から激しく号泣する。
涙が、砂と血で汚れたラクダの顔を伝ってボロボロと流れ落ちる。
失いたくない。この、生まれて初めて触れた、本物の温もりを、絶対に失いたくない。
人間だった頃にも得られなかった、心の底から求めていた本当の『愛』が、今、目の前で、ハイエナたちの牙によって、無残に引き裂かれて消えようとしている。
(いやだ……! 死ぬな! 俺を置いていかないでくれよぉぉぉッッ!!)
俺はボロボロの前足を狂ったように動かし、母親ラクダの顔にしがみつこうとした。自分のトゲだらけの口を、彼女の血塗れの皮膚に擦り付け、必死にその体温を繋ぎ止めようとした。
けれど、彼女の大きな瞳から、ゆっくりと光が失われていく。
夕日の黄金色の光を反射していた彼女の瞳が、完全に濁り、ただの硝子玉のようになっていく。
額に触れていた鼻先から、急激に、命の熱が失われ、冷たい砂と同じ温度へと変わっていった。
「ルゥ、ゥォォォォォォォォォンッッッ!!!!!?」
それは、この砂漠の地平線のすべてを震わせるような、涼太の、ラクダとしての、魂の絶叫だった。
野生の母は、死んだ。
俺を守るためだけに、その肉体のすべてを悪魔どもに差し出して、逝ってしまった。
周囲では、母親ラクダという巨大な肉塊を手に入れたハイエナたちが、狂喜乱舞しながらその肉を貪り食っている。骨を噛み砕く嫌な音が、静まり返った夕暮れの砂漠に響き渡る。
だが、今の俺には、肉体的な恐怖なんて微塵もなかった。
胸の奥を激しく締め付けるのは、最愛の母を失ったという、圧倒的な、底なしの喪失感と絶望。
そして、彼女が命を懸けて遺してくれた『生きろ』という無言のメッセージが、俺の折れかけていた心に、消えない消えない、あまりにも強烈な「生の執着」の火を、激しく灯していた。
生きたい。
あんたが守ってくれたこの命を、こんなところで終わらせたくない。
人間として死んだときも、猫として死んだときも、ただ諦めて死を受け入れていた。けれど、今度は違う。俺は、このラクダの肉体がどれだけボロボロになろうとも、這いつくばってでも、生きて、生き抜いてみせる。
(お母さん……、俺、生きるよ……っ!)
赤く染まった砂漠の夕日を見上げながら、涼太の魂は、かつてないほどの激しい慟哭と共に、本当の「生」への足掻きを始める。




