九話 どうして?
泥溜まりの底に沈んでいた、あの獣たちの糞尿と死骸の混ざった生温かい臭みが、いつまでも喉の奥にこびりついて離れない。
生きるために尊厳をドブに捨て、泥水をすすってまで繋ぎ止めた命。
その重すぎるラクダの巨体を引きずりながら、俺はまた、どこにいるかもわからない母をあてもなく砂の海の中で探していた。
不意に、周囲の空気がピタリと止まった。
生き物の気配が完全に消え失せ、不気味なほどの静寂が砂漠を支配する。熱風すら止んだその異常な気配に、俺の長く裂けた耳がピクリと跳ね上がった。
地平線の彼方を見つめた瞬間、俺の視界は絶望で塗りつぶされた。
(なんだ……あれ……。雲、じゃない……!?)
そこにあったのは、天を突くほどの巨大な「砂の壁」だった。
高さ数百メートルはあるだろう、漆黒に近い赤褐色の砂の津波が、地平線の端から端までを完全に埋め尽くし、凄まじい速度でこちらへ向かって押し寄せてきている。
砂漠の巨大砂嵐だ。
逃げる場所なんて、どこにもない。遮る岩陰も、隠れる穴もない。
「ゴォォォォォォォォォッ!!!」
遠くから、世界が鳴動するような轟音が響いてきたかと思った次の瞬間には、猛烈な暴風が俺の巨体を真っ正面から殴りつけていた。
一瞬で、世界から光が消えた。
昼間だったはずの砂漠が、一瞬で完全な闇に包まれる。視界はゼロ。1センチ先すら見えない暗黒の中で、弾丸のような砂粒が、ボコボコに腫れ上がった俺の噛み傷へと容赦なく突き刺さる。
「ウ、ルゥ、ゥゥ……ッ!」
悲鳴を上げようと口を開いたのが、最大の過ちだった。
激しい暴風と共に、大量の熱い砂が、口の中、そして鼻の穴から一気に肺の奥深くへと注ぎ込まれたのだ。
「カハッ! ゲホッ、ゴホッ……! ゲフッ、ウ、おえっ……!!」
痛い。肺の形に沿って、無数のガラスの破片を流し込まれたかのような激痛が走る。
呼吸をするたびに、気管支が砂粒でズタズタに削られ、喉の奥から生暖かい血の味がせり上がってくる。肺が酸素を拒絶し、激しく咳き込むが、吐き出せるのは血の混じった砂の塊だけだ。
目を無理やり開けようとしても、鋭い砂が網膜を傷つけ、涙すら一瞬で乾燥して砂の塊に変わっていく。
強風に煽られ、数百キロあるはずのラクダの巨体が、まるで木の葉のようにグラグラと揺れる。
動かない足。砂に埋もれていく蹄。
もがけばもがくほど、底なし沼のような砂に身体が沈み込み、自由を奪われていく。
(動け……、動いてくれよ……ッ! なんで、俺の足は……!)
その瞬間、肺を焼く激痛と、自由を奪われた足の恐怖が、俺の脳の奥底に眠る最も触れられたくない記憶の檻を、乱暴にこじ開けた。
視界を支配する闇が、あの実家の、狭くて暗い階段の景色へと変貌していく。
――『涼太、あんたなんて生まれてこなければよかったのよ』――
ヒステリックに響く、大好きな、信じたかった母親の金切り声。
視界の端に映る、二年前からずっと俺の身体の一部だった、忌々しいアルミ製の松葉杖。
そして、背中に触れた、あの生暖かくて冷酷な人間の手。
ドン、と背中を押され、世界のすべてが反転したあの朝の感覚。
階段の一段目から奈落へと突き落とされ、重力を失って真っ逆さまに落ちていくときの、あの心臓が引きちぎられそうなほどの恐怖と絶応。
「が、はっ、……あ、あああああああッ!!」
今の砂嵐の暴風と、あのとき背中を押された衝撃が、完全に重なり合う。
コンクリートに叩きつけられたあの瞬間の、全身の骨が粉々に砕け散る幻痛が、ラクダの肉体を突き抜けて魂を激しく 甚振る。
(なんで……なんで俺だけが、こんな目に遭わなきゃいけないんだよ……!!)
心が、内側から黒く焦げて、ボロボロと崩れ落ちていく。
前世で何か悪いことをしたか? 松葉杖をつきながらも、必死に周りの顔色を窺って、真面目に生きようとしていただけじゃないか。
猫のときだってそうだ。あの不器用な飼い主を救いたくて、自分の身体を犠牲にした。なのに、裏切られてベランダから投げ落とされた。
そして今度は、野生のラクダになって、泥水をすすらされて、真っ暗な砂嵐の中で息もできずに死にかけている。
神様、あんたの言う通りだ。俺は世界から拒絶されたゴミなのかもしれない。
誰も俺を見ていない。誰も俺を助けない。
人間も、動物も、この大自然すらも、寄ってたかって俺を突き落とし、泥をかけ、踏みにじっていく。
「ウ、グゥゥ、……オ、オオオオッ……!!」
暴風の中に、俺の血を吐くような悲鳴が虚しく消えていく。
砂嵐の冷酷な轟音は、ただ絶望に震える俺の巨体をあざ笑うかのように、さらに激しく吹き荒れるだけだった。
全身を砂に埋められながら、俺は暗黒の地獄の中で、ただ自分の無惨な運命を呪い続けることしかできなかった。




