八話 泥水
涙はいつの間にか止まった。
周りを見渡しても見つからない。
母さんは見つからない。
『なんだ、このラクダ愛されてんじゃん。俺にはもったいない体だな。』
少し嫌味っぽく言う。
実際羨ましかった。
憧れた。
この体の母さんはきっとこいつのことを殺したりしない。
俺の母さんは殺してきたけどな。
俺は血が止まるまで、その場に座り続けた。
その間、特に何もなかった。
強いて言うなら、また喉が渇いてきた。
やはりサボテンの水分量は少ないらしい。
っていうか口が痛い。
少し慣れたかもしれないけど、痛いものは痛い。
なんであんな安直に食っちまったんだろうって後悔もした。
ただ次の行動は決まっている。
水の確保、そして、母さんとの再会だ。
喉乾いた。
すごい今更だが、過酷すぎやしねーか?
喉乾くだけでも痛いのに、砂漠で少し喉に砂が入ったりする。
痛みに痛みが重なって本当にどうしようもないほど、痛い。
その上、身体に刻まれた無数の噛み傷は、砂漠の強烈な熱に炙られて赤黒く腫れ上がり、一歩歩くたびに皮膚が突っ張って、じくじくと膿が混じった血を滲ませる。
あ!
水だ。
、、、。
サボテンだった。
一時間ほど歩いただろうか。
喉の痛みは少しずつ増していっていた。
でも朗報がある。
そこで俺は軽い傾斜の下に水を見つけていたのだ。
ただそれはとんでもなく濁った泥水。
まぁ飲みたくはないよな。
うん、別のを探そう。
躊躇うことはなかった。
あれ?
動かない。
また始まったらしい。俺のさらなる痛みが。
長い首を激しく前後に振りながら、俺の意志を完全に置き去りにして、肉体が砂丘の斜面を狂ったように駆け下り始めた。
砂煙を巻き上げて辿り着いた。
「ウ、グルゥゥゥ……ッ!!」
ラクダの喉から、歓喜に震える地鳴りのような鳴き声が漏れる。
周囲には、他の野生動物たちが残していった糞尿の強烈なアンモニア臭が立ち込め、直射日光で生温かく熱せられた水面からは、アブやハエの群れがブーンと耳障りな羽音を立てて湧き立っている。さらに最悪なのは、その泥溜まりの対岸に、力尽きて腐敗し始めた小さな草食動物の死骸が半分浸かったまま、ドロドロに溶け出しているのが丸見えだったことだ。
排泄物、死骸の腐敗液、そして泥。それらが40度を超える熱で何日も煮詰まり、発酵した、まさに悪魔のスープ。
(だめだ、飲むな! 触るな!! こんなの飲んだら、今度こそ俺の胃袋が死ぬ……ッ!)
俺の理性は全力で拒絶の悲鳴を上げ、首を後ろに引っ張ろうとした。
だが、ラクダのサバイバル本能は、そんな贅沢な注文を聞き入れるはずもなかった。肉体にとっては、成分がどれだけ糞尿に汚染されていようが、腐敗していようが、関係ない。「 H₂O 」が含まれているという一点のみで、それは極上の聖水なのだ。
ズブ、ズブ、と分厚い蹄が自ら汚泥に踏み込んでいく。
そして、俺の抵抗も虚しく、ラクダの長い口がそのドス黒い水面へと、勢いよく突っ込まれた。
ジュボボボボボボボボボボッ!!!
もの凄い勢いで、生温かい泥水が、ダイレクトに口内へと吸い上げられていく。
その瞬間、俺の「人間の味覚」は、文字通り地獄の業火で焼き尽くされた。
『ッおえええええええええええええッッ!!!!?』
脳の芯まで突き抜ける、あまりの臭気と不潔感。
口の中に流れ込んできたのは、水なんて生ぬるいものじゃない。ジャリジャリとした不快な砂粒の感触と共に、動物の排泄物のあの鼻を突くツンとした酸味、そして腐り落ちた肉の脂が混ざり合った、生温くてドロドロとした腐敗した泥そのものだった。
かつて猫だった頃、風呂場で無理やり飲まされた、埃まみれのあの水なんて、これに比べればアルプスの天然水も同然だ。
これは、野生の現実。生きるために、この世界に存在するありとあらゆる「汚れ」を五感すべてで受け入れるという、究極の尊厳破壊。
バリバリに裂けた喉の生傷に、細菌まみれの泥水が容赦なく流れ込み、炎症を起こした肉が焼けるように痛む。
精神が、魂が、「吐け! 全部ブチまけろ!」と狂ったように命令を出すのに、ラクダの強靭な食道は、そのドロドロの汚泥をゴクリ、ゴクリと、冷酷なまでのリズミカルなテンポで胃袋へと送り込み続ける。
一滴、また一滴と、俺の「人間としてのプライド」が、糞尿の混ざった汚泥によって黒く汚染されていく感覚。
「ゴホッ、ガハッ……! ゲホッ……!!」
ようやく肉体が満足して口を離したとき、俺は泥溜まりの縁に崩れ落ち、激しく咳き込んだ。
長い唇からは、茶褐色の汚泥と、粘り気のある唾液が糸を引いてダラダラと滴り落ちる。
胃の底からは、先ほど無理やり詰め込まれた糞尿と死骸の成分が、生温かいガスのようになって鼻の奥へと逆流してくる。
どれだけ精神的に拒絶しようが、激しい吐き気に襲われようが、四足の頑強な肉体はビクともしない。嘔吐することすら許されず、その不潔な水分をすべて吸収して、強制的に「生きながらえさせられて」しまうのだ。
(ああ……俺は、何のために生きてるんだ……?)
俺は動物の糞の混ざった泥水をすすってまで、この醜い世界にしがみついている。
口の中に残る、強烈な糞尿の臭みとドロリとした不快感があった。




