四話 野生の掟
昨日はよく眠れなかった。
口の中に残ったサボテンのトゲが、顎をわずかに動かすたびに肉の奥へと食い込んで、ジンジンと脈打つように疼く。
滲み出た血と、サボテンのあの暴力的なまでの青臭い粘液が混ざり合い、口内は完全に鉄と生草の錆びた味に支配されていた。
だが、その悍ましい余韻に蹲ることも、この過酷な砂の海は許してくれない。
地平線の向こう、やはり陽炎がドロドロと空間を歪めている。
俺は、自動運転モードが終わり自分で歩き続けていた。
幸いもう体には慣れた。
自分の適応力は誉めたいものだ。
とはいえ、もう無理かもしれない。
さらにもう一時間は歩いた。
どれだけ強くてもこの地獄は無理だろう。
本当に猫の頃は楽だったかもしれない。
睡眠も取れて、食べ物もまだマシで、水も困ることなく入手できた。
それなのに、今は、。
まぁ、ネガティブにしか考えられないよな。
すると、俺は砂嵐を見つけた。
『仲間かも!』
その砂嵐はこちらへ近づいてくる。
風に乗って届く、ドス、ドス、という地響きのような不気味な足音。
(何かが……来る)
砂煙を引き裂いて現れたのは、十数頭からなるラクダの群れだった。
俺は少し嬉しかった。
何か収穫あるかも、と俺は近づく。
群れの先頭を行くのは、他の個体よりも一回りも二回りも巨大な、傷だらけのボスラクダだった。顔中には過去の死闘で引き裂かれたような白い肉腫が走り、その濁った瞳が俺の姿を捉えた瞬間、ピきりと空気が凍りついた。そいつは長い首を天に向かって引き絞るように持ち上げ、
「グルゥゥゥオオオオオオアン!」
と、鼓膜を直接揺らすような地鳴りの咆哮を上げた。
『なんだ?感動の再会に嬉しくてたまらねぇのか?』
「グルルッ、ルゥアアアッ!!」
ボスラクダの瞳から、完全に温度が消え、純粋な拒絶と排除の光が宿る。そいつは数百キロの巨体を弾ませ、砂を文字通り爆発させながら、凄まじい突進力で俺との距離を詰めてきた。
(へ?)
足は動かなかった。
鈍く、重い、肉と骨がまともに衝突する凄まじい衝撃音が響く。
ボスラクダの岩のように堅い肩が、俺の側腹部に容赦なく叩きつけられたのだ。トラックに撥ねられたかのような圧倒的な質量に押し潰され、俺の巨体は砂丘の斜面をなす術なくゴロゴロと無残に転がり落ちた。
あ、これダメなやつだ。そう今更、察する。
「カハッ、ウ、グ、ゥゥ……ッ!」
視界が天地無用に回転し、燃えるような熱い砂が目、鼻、そしてトゲだらけの口内へと容赦なく侵入してくる。肺の空気がすべて強制的に絞り出され、目の前がチカチカと暗転する。
だが、地獄は転がり落ちた先で待っていた。
斜面の底で息を詰まらせ、身悶えする俺の周囲を、群れの他のラクダたちが一斉に取り囲んだのだ。上空を無数の巨大な影が覆い尽くす。彼らは代わる代わる、俺の長い首、無防備な腹、背中のコブに向かって、剥き出しの黄色い牙を突き立ててきた。
ガブリ、と、分厚い皮膚が強引に引きちぎられる激痛。
「グルゥゥ!」「ルゥア!」
彼らは容赦なく俺の肉を噛みちぎり、それを口の中で咀嚼することもなく、ただ排除するためだけに引き裂いていく。さらに、太く硬い蹄が、容赦なく俺の頭や背中に何度も何度も振り下ろされた。
ドスッ! バキッ! と、肉がひしゃげ、骨がきしむ音が頭蓋骨の裏側で鳴り響く。
痛い、痛い、痛い!
言葉なんて通じない。
今ここで俺が受けているのは、自然界が突きつけてくる、一切の感情を排した純粋な物理的排除だ。
どれほどの時間が経っただろうか。全身が赤黒い血と砂まみれになり、完全にピクリとも動かなくなった俺を見下ろし、ボスラクダが勝利を誇示するように高く咆哮を上げた。
彼らは哀れみの一瞥すらくれることなく、再び砂煙を上げて、地平線の彼方へと去っていった。
静寂が戻った砂漠の底で、俺は砂に半分埋まった視界の端で、遠ざかっていく群れの足音を聞いていた。
俺の目はもう開くことはなかった。




