十二話 自己犠牲の代償
視界が不自然に浮き上がり、ベランダの手すりが俺の視界の下へと消えていく。
頬を撫でる朝の空気は、驚くほど冷たかった。
「え? なんで……なんでだよ……! どうしてみんな、俺を置いていくんだよ……!」
上空から降ってくる男の叫び声。それはもう、怒りですらなかった。ただ世界に拒絶され、すべてを失った子供のような、惨めで、哀れな泣き言。
「俺は悪くない。悪くない、悪くない、悪くない……っ!」
壊れたオーディオのように同じ言葉を狂ったように繰り返し、自己暗示に縋る男の顔が、急速に遠ざかっていく。
男の手から放たれた俺の肉体は、ゆっくりと、しかし確実に、重力に捕らえられて速度を増していった。
(ああ……。俺は、間違えたんだ)
空中を落下しながら、俺の脳裏を埋め尽くしたのは、猛烈な、胸を掻きむしりたくなるほどの後悔だった。
あいつの犯罪を止めてやりたかった。あいつを救ってやりたかった。
だから、自分の身体がどうなろうと構わないと、胃を焼き切るような苦痛に耐えて大麻を全部喰らった。それが俺なりの「正義」で、この二度目の人生で見つけた「変わるための覚悟」だったはずなのに。
結果はこれだ。
俺の自己満足の優しさは、男がこの世界でギリギリ繋ぎ止めていた、生への最期の糸を最も無残に叩き切る凶器にしかならなかった。
寿命を全うさせてあげたかった。いつか、あの優しかった頃の笑顔に戻してあげたかった。なのに、俺のせいで、あの男は完全に人殺しの境界線を越えてしまった。
(情けないな、何やってんだ俺……。今度こそ、何か変えられると思ったのに)
視界が反転する。
見上げる空はどこまでも白く、冷たかった。
そして、その白い視界の奥から、忘れることすら許されないあの光景がフラッシュバックする。
二年前のあの日。そして、俺が死んだあの朝。
あの時も、俺の視界はこうして反転し、重力を失ったような奇妙な浮遊感の中で、頭から奈落へと吸い込まれていった。
人間だった時も、猫になった今も、俺を上から突き落として殺すのは、いつだって「信じたかった人間」の手だ。
人間は醜い。裏の顔がある。その本質から、俺は一歩も逃げ出すことなんてできていなかったんだ。
迫ってくる、灰色のアスファルト。
人間の感覚を保ったままの俺の全身の細胞が、間近に迫る死の衝撃を察知して、発狂しそうなほどの恐怖の悲鳴を上げている。
(ごめん……。ごめんな、猫……)
最後に脳裏に浮かんだのは、夢の中で見たあの健気な猫の姿だった。
『やり返さなくて、いい』
あのとき、この身体の持ち主が遺した警告を、俺が人間の浅知恵で踏みにじったから、こんな最悪の結末になったんだ。俺が責任を取る。この死の激痛は、俺の身勝手への罰だ。
――ド、グシャリ。
硬いコンクリートに、肉と骨が凄まじい速度で叩きつけられる。
一瞬だけ、全身の骨が粉々にひしゃげ、内臓が口から飛び出すような、筆舌に尽くしがたい激痛が神経を焼き尽くした。
「……やり返しなんて、しなくてよかったのに」
遠のいていく意識の最果てで、そんな猫の切ない声が聞こえた気がした。
もう、いい。
もう、何もかも嫌だ。次の転生なんて、あるわけがない。今度こそ俺の意識は粉々に砕け散って、夜空の星か何かに変わるだけだ。うん、それがいい。それがいい。
(神様、……もし本当にいるなら、もう俺を星にしてください……)
冷たいアスファルトの上で、俺の意識は完全に暗転した。
◇
「――ッ!!?」
どれほどの時間が経っただろうか。
不意に、俺の肺が猛烈な勢いで外気を吸い込んだ。
星になんて、なれていなかった。
全身を襲うのは、骨が砕けた痛みではない。皮膚がじりじりと焼け付くような、容赦のない、圧倒的な「熱さ」だった。
目を開ける。
視界に飛び込んできたのは、モノクロの世界ではない。
どこまでも、どこまでも果てしなく続く、黄金色の砂の海。吹き付ける熱風が、細かな砂粒を俺の全身の皮膚へと叩きつける。
砂漠?
ここ、……砂漠、じゃねえか……?
死すら許されず、涼太の魂は、さらなる渇きと飢えの地獄へと強制的に引きずり出される。




