調印の儀
応接室は、静かな緊張に満ちていた。
オルドシュタイン家の主要な家臣が居並ぶ中、テオドールが上座に座り、レオンハルトがその隣に控えている。アルテアはさらにその隣、一段引いた位置に立っていた。
エレオノーラは、父の正面に座っていた。
さっきまでとは、まるで別人だ。
背筋が伸び、視線が静かに前を向いている。言葉は簡潔で、的確で、無駄がない。
施行しようとしている法律の内容について家臣が質問を挟むたびに、エレオノーラは回答に窮する様子はなく、スラスラと答えた。条文の背景、施行の意図、他領への影響。どれも淀みなかった。
これが本来の姿なのだ、とアルテアは思う。先ほど抱きついて離れなかった女と、同一人物とは思えない。
今日の調印を求められているのは、帝国三柱勅書。
三大貴族と、ハンテンブルク王室との関係を取り決める勅書である。
この勅書に調印することで、オルドシュタイン公国は、通商権の一部を得る。帝国に納める関税が減少し、自由に他国と交易ができるようになるのだ。
これは、公国としては、莫大な利益になる。交易の要所としても栄えているため、その国へ納める税は馬鹿にならない。
現皇帝が病床に伏し、摂政率いる共和政議会派閥が力をつけ始めている今、帝国としての政体を維持するためには、三大貴族の力が必要だった。その協力を引き出すための通商権譲渡だ。
テオドールも、レオンハルトも当然ながら状況はわかっている。帝国議会の反発は招くだろうが、正直なところ調印しない理由がなかった。
テオドールの横顔を見る。その表情からは何も読み取れない。
家臣たちの質疑が一通り終わり、静寂が落ちた。
疑問点が払拭されたことで、調印することに問題なし。そう判断したのだ。
調印の書類が、テオドールの前に置かれた。テオドールは一通り目を通してから、静かにペンを走らせた。
大げさな所作も、感慨めいた間もなかった。ただ、長年このオルドシュタイン家を治めてきた男の、いつもの事務仕事のように、自然かつ、流ちょうな動作だった。
調印の式典は滞りなく終了した。
廊下に出ると、周囲に人の気配が薄くなった。
退室する流れで、エレオノーラがアルテアの隣に並んでいた。気がつけばそうなっていた、という感じで、自然に。
「アルテア」
「はい」
「真剣な顔も、かわいいですね」
「……式典中も私のことを見ていたのですか」
この女は式典中にもかかわらず、私のことを盗み見ていたらしい。式典に集中しなさい。
「もちろんです」
そう言った。悪びれもなく。
アルテアは小さく息を吐いた。
「殿下も、式典中《《は》》立派でいらっしゃいました」
「お世辞ですか」
「事実です」
エレオノーラが少し間を置いた。それからくすりと笑った。
「アルテアに褒められると、嬉しいですね」
年頃の少女らしい、無邪気な笑みだった。
夕刻、邸の大広間に灯りが入った。
晩餐は正式な形で催されたが、場の空気は穏やかだった。テオドールを囲むように皆が座っている。
「殿下、今夜の料理はいかがでしょうか」とテオドールが言った。
「料理長が腕を振るいました」
「まあ」とエレオノーラは目を輝かせた。
「このスープ、香草の使い方が絶妙ですね。帝都ではなかなかこういう味に出会えません」
「それは嬉しい。来るたびに喜んでいただけるので、料理長も張り合いがあると申しておりました」
「毎回楽しみにしているんです」とエレオノーラは言った。
それからアルテアを見た。
「アルテアも好きですか、このスープ」
「私も好きですよ」
「それはよかった」
ただそれだけのやりとりだったが、エレオノーラは本当に嬉しそうだった。
私が好きなものを、自分も好きだということが、そんなに嬉しいのか。少し不思議な女だと思う。
恋をする、というのはそういうものなのだろうか。
「お姉さまは昔から食の好みが渋いですよね」とコルネリアが口を開いた。
「濃い味付けのものよりかは、こういう滋味のある料理の方が好きで」
「そうなのですか」とエレオノーラが興味深そうに言った。
「コルネリアさんはどちらがお好きなんですか?」
コルネリアが少し間を置いてから答えた。
「……私は、どちらかというと、濃い味付けの方が」
「お姉さまと正反対ですね」
「……姉妹だからといって、何でも同じというわけにはいきませんわ」
それはそうだ、とエレオノーラは笑った。
「私はアルテアと同じで、濃い味はあまり得意ではないんです。こういうあっさりとした味付けの料理の方が好きで」
コルネリアが「そうなのですか」と短く答えた。
エレオノーラとアルテアの味の好みが一致したことが、あまり面白くなかったらしい。
テオドールがその少し陰険な雰囲気を感じ取ったのか、穏やかに口を開いた。
「アルテアは子供の頃から食の好みがはっきりしていましてな。苦手なものがあると、静かに端へ寄せるんです。それを見て、この子は我が強いなと思ったものです」
「お父様」
「殿下、それに、アルテアは三歳の頃から——」
「お父様」
アルテアが繰り返した。
テオドールがなおも続けようとしたとき、エレオノーラがくすりと笑った。
「続きは後でこっそり教えていただけますか、公爵」
テオドールが嬉しそうに頷いた。
恥ずかしい過去を明かされず、助かったのかどうか。アルテアは静かに視線を皿へ戻した。
しばらくして、メインのお肉料理が運ばれてきた。
テオドールが料理長を褒め、エレオノーラがそれに相槌を打ち、コルネリアがときどき話に加わった。
レオンハルトは静かに食事を進め、多くは語らなかったが、エレオノーラが話しかけると短く、簡潔に答える。普段は真面目な兄らしかった。
気がつけば食卓の会話は自然に弾んでいた。エレオノーラはよく笑い、よく話した。
灯りの中で、晩餐は穏やかに過ぎていった。
晩餐が終わり、それぞれが席を立った。コルネリアがアルテアに「おやすみなさい、お姉さま」と言って廊下を去り、テオドールとレオンハルトもそれぞれに引き上げた。
廊下に出ると、エレオノーラがアルテアの隣に並んでいた。
「アルテア」
「はい」
「お風呂、ご一緒してもよろしいでしょうか」
来た。今日会ってから一切触れなかったので、忘れているかもしれないと思っていた。甘かった。
「……わかりました」
エレオノーラが満足そうに微笑んだ。廊下の灯りが揺れる中、その足取りは妙に軽かった。
歩き出したアルテアの隣で、エレオノーラが静かについてきた。廊下の灯りが揺れる中、彼女の足取りは妙に軽かった。




