百合皇女、襲来。
執務室の窓から差し込む午後の光の中、アルテアは黙々と書類に目を通していた。
公務は嫌いではない。元来人付き合いが苦手な生粋の陰キャである自分にとって、誰とも話さなくていいし、黙々と書類とにらめっこするのは、そこまで苦ではない。
むしろ、静かで過ごしやすい。寝室での読書とは違う種類の静けさだが、それはそれで悪くない。
「アルテア様」
侍女のマルタだった。盆の上に一通の封筒を載せて立っている。
「帝国より書状が届いております」
アルテアは書類から目を上げた。封筒を受け取り、封蝋を確認する。帝国の紋章だった。
すぐさま開封した。
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アルテア・オルドシュタイン様へ。
此度は帝国新法の施行にあたり、三大貴族の皆様への調印をお願いしたく、私が直接、公国へ参ずることとなりました。
日程については追って随行の者より詳細をお伝えいたします。何卒よろしくお願い申し上げます。
なお、今回の訪問は完全に公務でございます。アルテア様にお会いしたいという気持ちが八割を占めてはおりますが、残りの二割は純粋に公務です。
前回お会いしてから三ヶ月が経ちました。オルドシュタイン公国は今の季節、過ごしやすいと聞いております。
視察も兼ねて、できれば一緒に散歩をしていただけますか。散歩の後はお茶などをご一緒していただけますか。お茶の後はよろしければ夕食もご一緒していただけますか。夕食の後は、そのまま泊まってもよろしいでしょうか。泊まる際はアルテア様のお部屋にお邪魔してもよいでしょうか。広いお部屋はひとりでは寂しいものです。それから長旅で疲れると思いますので、お風呂をご一緒していただけますか。
お互いに背中を流すだけです。流すだけでございます。
警戒なさらなくても結構です。先日のように、不用意にアルテア様の体に触れることはございません。触れたい気持ちは、前回より多少増しておりますが、理性は保っております。今のところは。
どうかご信頼いただけますと幸いです。おそらく、大丈夫だと思います。
帝国第一皇女 エレオノーラ・フォン・ハルテンブルク
追伸 前回の私の不徳は、水に流していただけると、とても嬉しいです。
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アルテアは便箋を静かに折り畳んだ。
エレオノーラのことは、嫌いではない。むしろ好きな方だ。ただ、相手の好きが、こちらの三倍くらいある。しかも、LIKEではなく、LOVEなのだ。
そして、相手は帝国の皇女だ。無下にもできない。
「マルタ」
「はい」
「受諾する旨を返送してください」
「かしこまりました」
アルテアは書類に視線を戻した。
三ヶ月ぶりか、と思う。長いようで、短い。
翌朝の朝食で、テオドールが口を開いた。
「エレオノーラ殿下がいらっしゃるそうだな」
静かな一言だったが、食卓の空気がわずかに締まった。帝国第一皇女の来訪は、どれだけ友好的な関係であっても、それなりの緊張を伴う。
「歓迎の準備は整っております、お父様」
「うむ」とテオドールは頷いた。
「殿下には相応のおもてなしを。それと、アルテアも公女として粗相のないように」
「かしこまりました」
テオドールはそこで少し表情を緩めた。
「しかしまあ、アルテアの幼馴染でもある。堅苦しくなりすぎる必要もないだろう。友人を歓迎してやればいい」
公爵としての言葉と、父親としての言葉が、自然に同居していた。
「エレオノーラ様、またいらっしゃるんですね」
コルネリアが少し複雑な顔をしていた。エレオノーラのことは幼い頃から知っている。アルテアを独占しようとするエレオノーラと、姉を敬愛するコルネリア。二人の相性はそこまでよくはない。
「コルネリア、殿下に失礼のないように」
「わかっています。ただ」とコルネリアは少し口を尖らせた。
「あの方はお姉さまと距離が近すぎます。お姉さまも、もし嫌なら一言くらい言うべきだと思いますわ」
言えたらいいんだけどね、と心の中でつぶやく。
相手は帝国の皇女殿下である。明らかに格上の相手だ。できる限り仲良くはしたい。かといって、私の心や体を売り渡す気はさらさらないが。
「レオンハルト」とテオドールが口を開いた。
「皇女殿下がいらっしゃる間は、黒獅子隊を正門と応接室周辺に配置しておきなさい」
「既に手筈は整えております、父上」
さすがは我が兄レオンハルト、気が回る男だ。何事も抜かりがない。
「殿下が我が領地にいらっしゃるのは久しぶりだ」とテオドールが穏やかに言った。
「アルテアも旧交を温めなさい。幼馴染というのは、生涯の財産だ」
財産。
アルテアは内心でその言葉を繰り返した。先ほどの手紙のことを思い出しながら。
……お父様、その財産は私には少し重いのです。
皇女一行が到着したのは、それから三日後の昼過ぎだった。
オルドシュタイン邸の正門前に馬車が止まり、護衛と随伴者が整列する。テオドールが出迎えに出て、レオンハルトがその隣に立った。コルネリアはアルテアのすぐ隣に張り付いている。
馬車の扉が開いた。
エレオノーラ・フォン・ハルテンブルクが中から姿を現す。
相も変わらず、エレオノーラは美少女、というに相応しい容姿をしていた。金色の髪を丁寧に結い上げ、帝国の紋章が刺繍された外套を羽織っている。背はアルテアより頭一つ低いが、均整の取れた体つきだ。
外套越しでも目立つ豊かな胸元、形の良い唇に自然な弧を描いた笑み。琥珀色の瞳は光を受けるたびに金色に輝き、見る者を引き込むような色彩を有していた。
その容姿を見て、可愛らしい、と表現するには少し語弊がある。ただ美しいとも違う。どこか人を食ったような、小悪魔めいた愛嬌があった。
馬車のステップを降り、テオドールに向かって優雅に礼をする。
「テオドール公爵。本日はお招きいただき、誠にありがとうございます」
「ようこそいらっしゃいました、皇女殿下。遠路はるばるよくいらっしゃいました。さぞお疲れのことと存じます」
完璧だった。立ち居振る舞い、言葉遣い、表情。どこから見ても帝国を代表する皇女そのものだ。
そして、次の瞬間、その完璧さが霧散する。
エレオノーラの視線がアルテアを捉えた瞬間、皇女の顔が、ほんの少し緩んだ。
「アルテア」
公式の場にもかかわらず、呼び捨てだった。
エレオノーラは迷わずアルテアへと歩いてくる。
お供の一人が「殿下、まだ挨拶が」と言いかけたが、振り返らなかった。
そのまま迷うことなく、アルテアを抱きしめた。
「会いたかったです」
「……ご無事での到着、何よりです」
耳元で、愛の言葉でも囁くかように、エレオノーラは言う。
抱きしめられることで、彼女の豊かな胸がグッと押し付けられる。少しドギマギしてしまうのは、前世の性だろうか。
もちろん思ったことは、顔にも、口にも出さない。
エレオノーラは抱き着いたまま、しばらく離れなかった。皇女のお供たちは、口を出そうか、出すまいかを決心できず、気まずそうに視線を逸らしている。
コルネリアは大胆な皇女の行動に驚き、アルテアの傍で、石像のように固まっていた。
そんな様子を見かねてか、レオンハルトが静かに一歩前へ出る。
その時、テオドールが穏やかに口を開いた。
「皇女殿下、道中はいかがでしたか」
膠着を破る一言だった。
ぴくっ、と反応したエレオノーラが、名残惜しそうに、のろのろとアルテアから離れる。その時には、既に皇女としての顔を取り戻していた。切り替えの速さだけは、さすがだとアルテアは思う。
「さすがに、オルドシュタイン公爵領ですね。治安もよく、不埒な輩の影も形もない。道も整備されていて、とても快適な旅でございました」
それだけ言って、またアルテアを見た。満足そうに、じっと。
「やはり、直接お会いするのが一番ですね」
「……そうですね」
アルテアは表情を変えずに微笑んだ。
この女、やはり反省していない。




