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名前は正しく呼べ

四月。


風はまだ冷たくて、けれど確実に春だった。


神代ユウは、校門の前で一度だけ立ち止まった。


私立・黒識学園。


その名前を、頭の中でゆっくりと繰り返す。


黒識学園。黒識学園。黒識学園。


「……変な名前だな」


小さく呟いたその瞬間、


なぜか言い直したくなった。


「……いや、違う」


黒識学園。


今度は、妙に“しっくりきた”。


理由はわからない。


ただ、さっきの言い方は「間違っていた」と、確信だけが残った。


——違和感は、それだけだった。



教室は三階の端だった。


2年C組。


引き戸を開けた瞬間、視線が一斉にこちらを向く。


担任の教師が黒板の前で言う。


「転入生だ。席は……ああ、あそこだな」


指された席に向かう途中、


ユウはクラスメイトの顔をざっと見た。


全員、普通だ。


普通すぎるほどに。


ただひとつだけ、


引っかかるものがあった。


——名前。


黒板の右端に、出席番号と名前が書かれている。


だがそれは、


“読めるのに、覚えられない”。


視線を滑らせた瞬間に、文字が頭から抜け落ちる。


(なんだこれ……)


「神代ユウ、だな」


教師が言う。


「ああ……はい」


自分の名前は、問題なく認識できる。


むしろそれだけが妙に“固定されている”。


「いいか、お前たち」


教師の声が少し低くなる。


「この学園では、“名前を正しく呼ぶこと”が規則だ」


教室が、わずかに静まり返る。


「ふざけていると思うかもしれないが、重要だ。間違えるな」


誰も笑わない。


その沈黙が、妙に重かった。



昼休み。


「ねえ」


背後から声をかけられた。


振り返ると、ひとりの少女が立っている。


長い黒髪。


表情は薄いが、目だけが異様に澄んでいる。


「あなた、転入生でしょ」


「ああ……神代ユウだ」


言った瞬間、彼女の視線がわずかに揺れた。


「……そう」


間があった。


「私は——」


彼女は一瞬だけ口を開き、そして閉じた。


「……名前は、ない」


「は?」


思わず聞き返す。


「ない、ってどういう——」


「呼ばないで」


即答だった。


「名前を与えられると、弱くなるから」


意味がわからない。


冗談にしては、声が真剣すぎる。


「……じゃあ、なんて呼べばいい」


「好きに」


そう言って、彼女は窓の外を見た。


会話が切れる。


だが、その沈黙は不自然ではなかった。


むしろ——


それが“正しい形”のように感じられた。



五時間目。


教師が出席を取っていた。


名前が、順番に呼ばれていく。


だがユウは気づく。


誰ひとりとして、


“名前を復唱していない”。


返事だけだ。


まるで——


名前を口にすること自体が、避けられているように。


「……神代ユウ」


「あ、はい」


そのときだった。


「……霧崎きりさき


教師が次の名前を呼ぶ。


一瞬、ユウは迷った。


だが何気なく、


口が先に動いた。


「霧沢、だろ?」


ほんの、わずかな言い間違いだった。


その瞬間。


——世界が、止まった。


音が消える。


空気が凍る。


そして、ゆっくりと。


黒板の文字が、歪み始めた。


「……え?」


名前の一部が、消える。


書き換わる。


崩れる。


「霧崎」という文字が、存在していた痕跡ごと消えていく。


代わりに——


“最初から何も書かれていなかった”ことになる。


「おい」


誰かが言う。


だが声が遠い。


教室の壁が、わずかにズレる。


机の配置が変わる。


窓の位置が、違う。


(なんだ……これ)


心臓が強く鳴る。


「……神代」


低い声。


教師だ。


「今、何を言った?」


「え……いや……」


言い返そうとして、


言葉が出ない。


自分が何を言ったのか、


思い出せない。


「もう一度言え」


その声は、命令ではなかった。


“修正”だった。


「霧……」


言おうとする。


だが、口が止まる。


言ってはいけないと、


本能が拒絶する。


そのとき——


ガタン、と音がした。


例の少女が立ち上がっていた。


「やめて」


静かな声。


だが、その一言で。


世界の歪みが、止まった。


「それ以上、言わせないで」


教師が彼女を見る。


ほんの一瞬、視線が交差する。


そして——


「……そうだな」


何事もなかったかのように、


教師は出席簿を閉じた。


「続けるぞ」


教室は、元に戻っていた。


だが——


ひとつだけ、違っていた。


出席番号の列から、


一人分、空白がある。


名前も、


席も、


記憶も。


すべてが、


“最初から存在していなかったこと”になっている。



放課後。


ユウは廊下で少女を見つけた。


「おい」


呼び止める。


彼女は振り返らない。


「さっきの……なんだったんだよ」


足を止める。


沈黙。


「……見たでしょ」


「見た」


即答だった。


「誰かが……消えた」


「違う」


彼女は言う。


「最初からいなかったの」


振り返る。


その目は、昼間よりも冷たい。


「あなたが、“間違えた”から」


背筋が冷える。


「名前は、世界を固定する」


一歩、近づく。


「でも同時に、歪める」


「間違えれば——」


彼女の声が、わずかに低くなる。


「世界そのものが書き換わる」


沈黙。


理解できない。


だが、否定もできない。


「ここはね」


彼女は言う。


「ただの学校じゃない」


風が吹く。


窓が鳴る。


「ここは、“記録”の上にある世界」


一瞬だけ、微笑んだ。


「偽書の中の、さらに薄い層」


ユウは、何も言えなかった。


「ねえ」


彼女が続ける。


「もし——」


少しだけ、声が柔らぐ。


「全部、間違ってるとしたら?」


答えは、出ない。


「この世界も、あなたも、私も」


彼女は視線を外す。


「ただの誤字だったら?」


風が止む。


静寂。


「……そんなわけ」


言いかけて、止まる。


否定できない。


「だから」


彼女は歩き出す。


「間違えないで」


振り返らずに言った。


「名前は、正しく呼んで」


その言葉だけが、


妙に重く残った。


ユウは立ち尽くす。


そして初めて、思う。


——ここは、おかしい。


いや。


——最初から、おかしかったのかもしれない。

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