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名前は正しく呼べ

四月。


風はまだ冷たくて、けれど確実に春だった。


神代ユウは、校門の前で一度だけ立ち止まった。


私立・黒識学園。


その名前を、頭の中でゆっくりと繰り返す。


黒識学園。黒識学園。黒識学園。


「……変な名前だな」


小さく呟いたその瞬間、


なぜか言い直したくなった。


「……いや、違う」


黒識学園。


今度は、妙に“しっくりきた”。


理由はわからない。


ただ、さっきの言い方は「間違っていた」と、確信だけが残った。


——違和感は、それだけだった。


*


教室は三階の端だった。


2年C組。


引き戸を開けた瞬間、視線が一斉にこちらを向く。


担任の教師が黒板の前で言う。


「転入生だ。席は……ああ、あそこだな」


指された席に向かう途中、


ユウはクラスメイトの顔をざっと見た。


全員、普通だ。


普通すぎるほどに。


ただひとつだけ、


引っかかるものがあった。


——名前。


黒板の右端に、出席番号と名前が書かれている。


だがそれは、


“読めるのに、覚えられない”。


視線を滑らせた瞬間に、文字が頭から抜け落ちる。


(なんだこれ……)


「神代ユウ、だな」


教師が言う。


「ああ……はい」


自分の名前は、問題なく認識できる。


むしろそれだけが妙に“固定されている”。


「いいか、お前たち」


教師の声が少し低くなる。


「この学園では、“名前を正しく呼ぶこと”が規則だ」


教室が、わずかに静まり返る。


「ふざけていると思うかもしれないが、重要だ。間違えるな」


誰も笑わない。


その沈黙が、妙に重かった。


*


昼休み。


「ねえ」


背後から声をかけられた。


振り返ると、ひとりの少女が立っている。


長い黒髪。


表情は薄いが、目だけが異様に澄んでいる。


「あなた、転入生でしょ」


「ああ……神代ユウだ」


言った瞬間、彼女の視線がわずかに揺れた。


「……そう」


間があった。


「私は——」


彼女は一瞬だけ口を開き、そして閉じた。


「……名前は、ない」


「は?」


思わず聞き返す。


「ない、ってどういう——」


「呼ばないで」


即答だった。


「名前を与えられると、弱くなるから」


意味がわからない。


冗談にしては、声が真剣すぎる。


「……じゃあ、なんて呼べばいい」


「好きに」


そう言って、彼女は窓の外を見た。


会話が切れる。


だが、その沈黙は不自然ではなかった。


むしろ——


それが“正しい形”のように感じられた。


*


五時間目。


教師が出席を取っていた。


名前が、順番に呼ばれていく。


だがユウは気づく。


誰ひとりとして、


“名前を復唱していない”。


返事だけだ。


まるで——


名前を口にすること自体が、避けられているように。


「……神代ユウ」


「あ、はい」


そのときだった。


「……霧崎(きりさき)」


教師が次の名前を呼ぶ。


一瞬、ユウは迷った。


だが何気なく、


口が先に動いた。


「霧沢、だろ?」


ほんの、わずかな言い間違いだった。


その瞬間。


——世界が、止まった。


音が消える。


空気が凍る。


そして、ゆっくりと。


黒板の文字が、歪み始めた。


「……え?」


名前の一部が、消える。


書き換わる。


崩れる。


「霧崎」という文字が、存在していた痕跡ごと消えていく。


代わりに——


“最初から何も書かれていなかった”ことになる。


「おい」


誰かが言う。


だが声が遠い。


教室の壁が、わずかにズレる。


机の配置が変わる。


窓の位置が、違う。


(なんだ……これ)


心臓が強く鳴る。


「……神代」


低い声。


教師だ。


「今、何を言った?」


「え……いや……」


言い返そうとして、


言葉が出ない。


自分が何を言ったのか、


思い出せない。


「もう一度言え」


その声は、命令ではなかった。


“修正”だった。


「霧……」


言おうとする。


だが、口が止まる。


言ってはいけないと、


本能が拒絶する。


そのとき——


ガタン、と音がした。


例の少女が立ち上がっていた。


「やめて」


静かな声。


だが、その一言で。


世界の歪みが、止まった。


「それ以上、言わせないで」


教師が彼女を見る。


ほんの一瞬、視線が交差する。


そして——


「……そうだな」


何事もなかったかのように、


教師は出席簿を閉じた。


「続けるぞ」


教室は、元に戻っていた。


だが——


ひとつだけ、違っていた。


出席番号の列から、


一人分、空白がある。


名前も、


席も、


記憶も。


すべてが、


“最初から存在していなかったこと”になっている。


*


放課後。


ユウは廊下で少女を見つけた。


「おい」


呼び止める。


彼女は振り返らない。


「さっきの……なんだったんだよ」


足を止める。


沈黙。


「……見たでしょ」


「見た」


即答だった。


「誰かが……消えた」


「違う」


彼女は言う。


「最初からいなかったの」


振り返る。


その目は、昼間よりも冷たい。


「あなたが、“間違えた”から」


背筋が冷える。


「名前は、世界を固定する」


一歩、近づく。


「でも同時に、歪める」


「間違えれば——」


彼女の声が、わずかに低くなる。


「世界そのものが書き換わる」


沈黙。


理解できない。


だが、否定もできない。


「ここはね」


彼女は言う。


「ただの学校じゃない」


風が吹く。


窓が鳴る。


「ここは、“記録”の上にある世界」


一瞬だけ、微笑んだ。


「偽書の中の、さらに薄い層」


ユウは、何も言えなかった。


「ねえ」


彼女が続ける。


「もし——」


少しだけ、声が柔らぐ。


「全部、間違ってるとしたら?」


答えは、出ない。


「この世界も、あなたも、私も」


彼女は視線を外す。


「ただの誤字だったら?」


風が止む。


静寂。


「……そんなわけ」


言いかけて、止まる。


否定できない。


「だから」


彼女は歩き出す。


「間違えないで」


振り返らずに言った。


「名前は、正しく呼んで」


その言葉だけが、


妙に重く残った。


ユウは立ち尽くす。


そして初めて、思う。


——ここは、おかしい。


いや。


——最初から、おかしかったのかもしれない。

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