第009話 グラン・カーテシー
「コンピエーニュにて国王陛下とお目文字の際は、右膝をこのように折り、ドレスの裾を……」
この人は、「マダム・エチケット」などという不名誉なあだ名を後世に残したノアイユ夫人である。
ルイ15世の勅命により、王太子妃筆頭女官としてマリー・アントワネットにフランス宮廷の流儀を完璧に教育するべく送り込まれた人物だ。
ストラスブールを出発してから、馬車の中ではずっとこの調子で行儀見習いの話が続いている。
なかでも、ルイ15世との初見の挨拶にかけるこの夫人の意気込みの凄さに、エツコはいい加減うんざりしていた。
(うぜえ……)
内心で毒づき、話を適当に聞き流す。
暇なので、謎のコンソールパネルを操作した。
即座に現れた情報は、フランス宮廷の人間関係であった。
ノアイユ夫人がこの重要ポストについた背景には、フランス宮廷を二分する二つの勢力の構図が浮かんでくる。
一つは後世で「ショワズール派」と呼ばれる親オーストリア派(改革・同盟推進派)と、もう一つは反オーストリア派(伝統的保守派)。
反オーストリア派の主要なプレーヤーはエギヨン公爵やリシュリュー公爵だ。
史実でマリー・アントワネットとデ・バリュー夫人が激しく対立したのは、実はこの宮廷内の派閥争いが背景にあると言ってよかった。
ハプスブルク家出身のマリー・アントワネットは、自然と親オーストリア派、つまりショワズール公爵派の立場に立つ。
一方でルイ15世の愛妾となったデ・バリュー夫人は、反オーストリア派の首魁であるエギヨン公爵とリシュリュー公爵によってルイ15世のベッドに送り込まれた高級娼婦だからだ。
そして、ノアイユ伯爵夫人の一族はショワズール公爵と非常に近い関係にある。
馬車は、新緑の青葉がどこまでも重なるコンピエーニュの森の深部へと、車輪を重々しくきしませながら進んでいた。
五月の風は心地よく清涼で、やわらかな陽光が木々の隙間から木漏れ日となって馬車の窓へと降り注いでいる。
「……王太子妃殿下、聞いていらっしゃいますか? 膝を折る角度は三十度、目線は国王陛下の御足元より上へ上げてはなりませぬ。これぞブルボン家の御前にふさわしい、伝統あるヴェルサイユの完璧な作法にございます」
ノアイユ夫人は自らの言葉に酔ったように、誇らしげにツンと顎を上げた。
だが、その言葉にも上の空なマリー・アントワネット(エツコ)の態度を見ると、再び厳しい表情に変わる。
コンソールパネルから情報を引き出すのに忙しいエツコは、彼女の言葉を全く聞いていなかった。
「えっと、何かおっしゃいました?」
「まあ、何ということでしょう! まもなく陛下と王太子殿下のお待ちになるコンピエーニュの森へと到着するというのに。陛下に死んでお詫びするしかありません!」
大げさに嘆息してみせる。
(ちぇ……嫌味なババアだぜ。大げさなんだよ)
内心で毒づくが、声には出さない。
やがて、ゆっくりと馬車が停止した。
扉が開くと、晴れやかな表情をした一人の中年の貴族が膝をつく。
「殿下、ご無沙汰しております。どうぞお出ましくださいませ。陛下と王太子殿下が首を長くしてお待ちでございます」
(えっと、誰だったっけ?)
『ショワズール公爵 前駐オーストリア・フランス大使』
コンソールパネルに表示が出た。
「公爵、またお会いできて嬉しいことですわ」
「ははっ……ご案内申し上げます」
ショワズール公爵に手を引かれて歩き始めると、ノアイユ夫人をはじめとする女官たち十五、六人が金魚のフンのようについてきた。
「王太子妃殿下、よろしいですね。膝は三十度、ゆっくりと優美にですよ」
(面倒くせえ……)
と思いつつも、ルイ15世か……どんな人物なのだろう?
(まさか、この私がアキコさんやサワダっちよりも先に結婚することになるとはねえ)
ルイ・オーギュストが今日から自分の夫になるのだ。
逃げられないのだから、腹をくくるしかない。
『人生、悪いことと良いことは半々なんだ。だが、悪いことも良いことも見方を変えれば反転する。つまり、それがリフレーミングっていう心理学の方法論だ』
(サワダっちが、なんかそんなこと言ってたっけ……)
どんな最悪な状況でも、それが自分を成長させるために必要だったと後で分かることがある。
つまり、その状態の時に未来の自分へフレームを移動させれば問題は解決する……もっともサワダは心理療法のことを言っていたわけではなく、シミュレーションゲームで国家の経済開発や敗戦後の復興に応用することを言っていたに過ぎないのだが。
ショワズール公爵に導かれたその先に待っていたのは、二人の貴人。
この国フランスの国王と、その王太子だ。
チラリとノアイユ夫人の顔を見ると、相変わらず厳格な表情を崩さずにマリー・アントワネットの右後ろを歩いていた。
宮廷儀礼の知識なんて、エツコから見れば無意味なものにしか思えなかった。
(宮廷儀礼って、そんなに必要なもんか?)
そう考えると……
【この場合、極めて有効かつ必須の技能です】
謎の知性が即座に答えた。
(なんでだよ?)
【実戦で試してみることをお勧めします】
(……で?)
【国王の前で完璧なカーテシーを行うミッションを完遂してください】
(ただのお辞儀だよね)
【違います。あなたのような身分の人物が行うカーテシーには、重要な意味が含まれます。行動インストラクションを表示しますので、それに従ってください】
再びノアイユ夫人の方をチラ見すると、今度は不安そうな表情で見え返してきた。
それを見ていると、なんだか俄然やる気が出てきた。
それがノアイユ夫人に対する反発心だったのか、ただの悪戯心だったのかは自分でも分からない。
【『精神集中』と『思考速度』スキルが発動されました。思考速度、三倍速です】
周囲の様子がスローモーションに変わる。
風が肌を撫でる感覚が気持ちいい。
視界が三百六十度に広がったような錯覚に陥る。
周囲の木々の緑が揺れる様が、愛おしいくらいに美しかった。
「陛下、王太子妃殿下をお連れいたしました」
ショワズール公爵がそう言って、ゆっくりと後ろへ下がる。
【インストラクションを開始します】
その瞬間、それは始まった。
マリー・アントワネットはゆっくりと身を沈めた。
衣装の裾がふわりと舞い上がる。
膝が地面に触れる。
一度頭を垂れ、次にゆっくりと顔を上げた。
完璧なグラン・カーテシーが完成した。
天使を祝福するような温かいそよ風が心地よく吹いた。
驚いたようなルイ15世と王太子ルイ・オーギュスト
やがて、その表情は極上の料理を食べたような喜悦に満たされる。
【ミッション・コンプリート 『魅了』レベル1を習得しました】
周囲から感嘆の声が漏れるのが聞こえた。
ノアイユ夫人たちお付きの女官たちが一瞬遅れて膝をつくが、マリー・アントワネットのそれとは雲泥の差であることが一目で分かる。
ノアイユ夫人は、恥じ入ったように顔を伏せた。
史実ではここで「おじいさま」と言って微妙な空気を作ってしまったマリー・アントワネットであったが、エツコは別の言葉を選んだ。
「国王陛下、王太子殿下、マリーにございます。この国がわが母国となりましたこと、心より喜ばしく存じます」
まさに、天使が舞い降りたと錯覚しそうな絵画のごとき光景がそこにあった。
ルイ15世の顔には感動の色が浮かんでいる。
王太子ルイ・オーギュストは、ポカンと口を開けてこちらを見ていた。
(なるほど……これは凄い)
このカーテシー効果にエツコ自身も驚いていた。
「王太子殿下?」
鈴を転がすようなマリー・アントワネットの声が周囲に響いた。
その言葉に、先に我に返ったのはルイ15世であった。
マリー・アントワネットの促すような瞳に、その意図を察したようだ。
「ええい、何をやっておるのだ! お前の姫君を立たせるのじゃ。ゆっくりと、優しくじゃぞ。分かっておるな? さあ、お前たちは夫婦になるのじゃ!」
王太子はおずおずと、緊張した表情でマリー・アントワネットを見た。
(イケメンじゃん……!)
実はエツコは、最新の歴史シミュレーションであらゆる角度からこの時代のフランスを研究したことがある。
その知識によれば、未来のルイ16世は190センチ近い長身の美丈夫であったのが史実なのだ。
小太りでオタクっぽい風貌は、中年期の肖像画から後世に捏造された単なるイメージに過ぎない。
だが、眼前に迫るこの男の姿は、予想を遥かに上回るイケメンぶりであった。
「姫、お立ちください」
イケメンが手を差し伸べる。
さすがのエツコも、少し顔を赤らめていた。
ゆっくりと手を差し伸べて身を起こすと、王太子はぎこちなく微笑み、彼女の額にキスをした。
(あ、これ……ちょっとやばいかも)
この日から、マリー・アントワネットの数奇な運命が始まる。




