第008話 泥の街道
泥の川にも等しい街道は、針葉樹林の深い闇へと吸い込まれていた。
泥を噛む荷馬車の車輪の音に混じり、ウラル特有の湿った冷気が皮膚を刺す。
アナスタシアは分厚い外套の襟を合わせ、視線を前方に向けた。
「馬が欲しいわね」
ボソリと呟く。
「そうですね。ですが……」
「分かっているわよ」
そう言ってアナスタシアは大きくため息をついた。
サワダ自身も、さすがにこの泥沼状態の街道には閉口していた。
だが、それ以上に差し迫った問題は「金がない」ことであった。
持っていたのは、サワダの懐に入っていた巾着にわずか三〇コペイカ(黒パンが十数個買える程度の銅貨)だけ。
デミドフ家の城塞都市ニジニ・タギルまでの道のりは、まだ気の遠くなるほど遠い。
一日中歩き通し、夜には針葉樹林へ分け入って、わずかばかりのパンと水だけでしのぐ。
さすがに疲労が溜まってくるのを自覚せざるを得なかった。
サワダが転生した地を、脳内に表示される仮想ディスプレイ上のマップで確認すると、場所は「クングル」という比較的大きな街の近郊であった。
最初、二人は食料を調達するため、まずクングルに向かった。
だが……。
「なんだ、これは……?」
クングルの街には、既に「人間」と呼べるものは存在しなかった。
いや、人の形をしたものはたくさんいたが、明らかに様子がおかしい。
『ウォーキング・デッド』……そんな言葉が脳裏に浮かび上がる。
それは、ゾンビの群れであった。
よく見ると、そのゾンビは人間だけでなく、オークやゴブリンらしき魔物の姿も混ざっている。
アナスタシアはブルブルと震えながら、目を見開いてそれを見つめていた。
「姫様、あれを知っているのか?」
「ええ……知っているわ。あれに、サンクトペテルブルクは滅ぼされたのだから。もう、こんなところまで……」
彼女の顔が絶望に染まる。
サワダは「ともかく逃げるべきだ」と判断した。呆然とするアナスタシアの手を強く引き、その場を急いで逃げ去ったのだった。
あれから三日間、パンと水だけでしのいだが、そろそろ限界だった。
サワダの脳内マップは、まるでGoogle Mapのように現在地とニジニ・タギルの位置を示している。
クングルからニジニ・タギルまでの距離は約一八〇キロ。
出発してから歩き詰めの三日間で一応進みはしたものの、ニジニ・タギルまではまだ一三〇キロもの距離が残されていた。
時折、野鳥の群れや鹿のような動物を見かけたが、弓のような遠距離武器でもなければ狩りは困難だった。
近づいただけで、すぐに気配を察して逃げていってしまうのだ。
窮地に陥ったことを認めざるを得ない。
リスクがあったとしても、クングルで十分な装備を整えてから出発すべきであった。
集中力が途切れた、その時……。
タタッ、タタッ、と馬蹄の響きが急速に近づいてきた。
「隠れよう!」
アナスタシアを促して茂みに身を潜めようとしたが、遅かった。
「お〜っと、動くんじゃねえ!」
一人の男が狩猟用の弓を構えながら、距離を詰めてくる。
【敵を認識。人物鑑定を開始します。戦闘スキルに限定してプロファイルを作成します。敵人数10人。スキル:弓(平均6/10)、剣術(平均4/10)、格闘術(5/10)です。続いて推奨行動を表示しますか?】
(な、なんだよ。もったいぶるな、早くしてくれ!)
【了解。現状であなたの戦闘スキルは『剣術:10/10』です。関連スキル『分子カッター生成』は、現在のMP(精神)不足のため発動できません。防御スキル『筋肉硬化』があります。これを応用することで敵は壊滅します】
使い方がなんとなく分かってくる。
この謎の知性の推奨行動は、「最小限のMP(精神)で敵を無力化すること」であった。
サワダにはもう一つ、チートと言っていいスキルが備わっていた。
それはまるで、時間の流れを遅くしたような感覚で周囲の動きが見えるようになるスキルであった。
そのスキル『思考速度』を加速。
現在、レベル1での最大値である三倍に設定する。
敵の動きがスローモーションとなった。
次に、敵の攻撃位置を予測。
その位置に敵の武器が到達した瞬間に『筋肉硬化』を発動する。
その部分だけが、まるで鋼鉄の硬度となるのだ。
これが結果として、強力なアーマーブレイク(武器破壊)として作用する。
使い方に慣れが必要であったが、敵の動きがスローモーションなので比較的失敗のリスクは低かった。
コツは、硬化時間を極限まで短くすることだ。
そうすれば少ないMPで高い効果を得られる。
つまり『思考速度』のレベルが上がれば、硬化のタイミングをより精密に絞れるため、『筋肉硬化』に必要なMP消費も抑えられるのだ。
極めて相性の良いスキルの組み合わせであった。
併用することで同時に二つのスキルの経験値も得られる。
MPは栄養さえ十分摂っていれば一定の速度で回復するため、この回復レート以下に発動量を抑えれば、実質消費ゼロで使える優良スキルであることが分かってきた。
【まず、敵を挑発してください】
「ここを通りたいんならよぉ、100ルーブル出しな。それとその女は置いていけ」
先頭に立つ男は、ニヤニヤと卑猥な笑みを浮かべていた。
どうやら、彼らの真の目的はアナスタシアのようであった。
「兄貴……いい女ですぜ。たまんねぇな」
仲間たちも似たり寄ったりのゲスな表情を浮かべている。
【ロシア帝国の崩壊によって、この地の治安は極度に悪化しています】
(それを早く言えよ!)
【問題ありません。彼らは雑魚です。あなたの養分として利用できますので、彼らとの出会いに感謝すべきです】
(お前……俺に強盗の真似事をさせるつもりか?)
【法律的には正当防衛となります。彼らの資産総額は120ルーブル。どうせ盗んだものでしょう。その他、携帯用食料、塩、胡椒、火打ち石、そして何よりもあの狩猟用の弓が必要ですね】
(ちぇ……やるしかないか)
サワダは一歩踏み出し、言ってみた。
「なあ……お前たち、黙って立ち去る気はないよな?」
「はぁ? お前、何言ってやがる。自分の立場が分かってんのか?」
ぎゃははは! と品のない嘲笑が広がった。
「いや……お前たち……弱すぎんだろ? 強盗なんかやめたほうがいいぞ。マジで……」
「この野郎! 女の前だからって粋がってんじゃねえぞ! 構わん、こいつは殺せ!」
十人の山賊たちが、サワダの目にはスローモーションのように動き始めた。
山賊の一人が、槍でサワダの腹部を狙って鋭い突きを入れてくる。
どうやら、本気で殺す気らしい。
引き抜いたショートソードを泳がせながら、槍の穂先に神経を集中する。
ゆっくりと、腹部に槍の先端が近づいてくる。
MPの残量は少ない。
腹部に先端が接触したその一瞬だけ、ほんの一部分を硬化させる。
直後、槍が接触した。
ガキン……!
奇妙な金属音が響く。
ここからの崩しは、天真正自伝神道流の真骨頂と言えた。
槍は腹部を貫くどころか虚しく弾き返されていた。
たまらず敵がのけぞった隙を見逃さず、サワダは相手の槍の柄を掴むと、そのまま凄まじい力で突き返した。
柄の先でみぞおちを強打され、男は白目を剥いてその場に倒れ込む。
身体が、恐ろしいほど滑らかに動く。
奪い取った槍を持ち替え、そのまま頭目らしき男に向けて投擲した。
空を裂いた槍は男の肩口を貫き、背後の樹木へ叩きつけるように縫い留めた。
頭目は驚愕と恐怖に目を見開いたまま、サワダを凝視している。
「ウオアアアアッ!」
野獣じみた雄叫びを上げ、二メートル近くある巨漢の男がサワダに襲いかかってきた。
【応用技を使いましょう。敵と力比べです】
大男の太い両腕とサワダの手が、ガッチリと組み合わさる。
「バカめ! 俺に力で勝てると思ったか!」
余程パワーに自信があるのだろう。
勝利を確信した獰猛な歪んだ笑みを浮かべる。
【両手の指の付け根をすべて硬化させてください。一瞬で勝負がつきますよ】
男の剛力にねじ伏せられそうになった瞬間、『筋肉硬化』を指関節へ一瞬だけ発動する。
「ぎゃあっ……!?」
メキメキッという嫌な音と共に、指の骨が粉砕された。
男は悲鳴を上げ、その場へどうっと倒れ伏す。
【『剛力:レベル1』を習得しました】
このような凄惨な状況にもかかわらず、脳裏で奇妙な高揚感が躍った。
素早く周囲へ視線を走らせる。
山賊の一人が蛮刀を振りかざし、アナスタシアへ斬りかかっていた。
彼女が手にした剣でそれを咄嗟に弾き返す。
サワダは泥の地面を滑るようにスライディングし、男の足へ自身の脚を激しく絡ませた。
体勢を崩してひっくり返った男へ馬乗りになり、みぞおちへ『筋肉硬化』を乗せた拳を打ち込む。
【感覚レベルが1上昇し、11となりました】
どうやらスキルとステータスには密接な関連があるようだった。
チラリと後方を見ると、慌てて小銃を構えようとしている男が目に入った。
サワダは泥に転がっていた蛮刀を拾い上げ、手首のスナップで投げつける。
高速回転した蛮刀がブーメランのように風を切り、男の身体を引き裂いた。
男が抱えていた小銃が暴発し、鉛の弾丸が虚しく空へ飛び去っていく。
残りの男たちは顔を引きつらせ、命からがら馬に跨がると一目散に逃げ去っていった。
【完全勝利おめでとうございます。では、戦利品をいただきましょう】
馬三頭、小銃一丁、狩猟用弓一丁、金一〇〇ルーブル、水筒、黒パン、干し肉等々——上々の成果であった。
サワダは頭目の男の肩口に刺さった槍を静かに抜いてやった。
「だから、言ったじゃないか」
「お前……俺たちを置いていくのか……?」
頭目は恐怖に体を震わせ、血走った目でサワダを見上げる。
さすがに、中身が現代日本人のサワダには、動けない者を無抵抗のまま殺すことへの抵抗感があった。
だが、助けてやる義理も義務もない。
たとえそれが、ここで殺すよりも残酷な放置であったとしても、嫌なものは嫌だったのだ。
「安心しろ。次の街に警察官がいたら、お前たちのことは話しておいてやるよ」
戦闘が終わってみると、先程までの胸の躍りは潮が引くように消え去り、後には軽い苛立ちと深い不安感だけが残った。
(どうやら、俺はやたらと強いらしい。……だが、この残酷な世界で、前世の平和な記憶を引きずったまま本当に生きていけるんだろうか?)
正直言って、二度とこんな立ち回りを繰り返したくはなかった。
チラリとアナスタシアを見ると、この戦闘の前よりもサワダを警戒するような眼差しになっているようにも見えた。
アナスタシアは、エカチェリーナ二世とその愛人との間に生まれた娘だ。
つまり、厳密にはロマノフ家の血を直接引き継いではいない。
そもそもエカチェリーナ自身、ドイツから嫁いできた異邦人であった。
女帝がこの広大なロシアに君臨し続けられたのは、血統ではなく、類稀なる実力と実績によるものだったのだ。
アナスタシアの言葉の端々から察するに、彼女は華やかな宮廷内でも非常に微妙な立場に置かれていたようだった。
決して愛され、期待されていたわけではない。それどころか、「愛人の子」として陰で蔑まれていたのだ。
そんな彼女を宮廷へ呼び戻したのは、他ならぬポチョムキンであった。
エカチェリーナの最も信頼する愛人であり、帝国の実力者でもあった男だ。
ロシアの女帝の凄いところは、次々と愛人を作り、その子供を産んでしまうたくましさだろう。まさに女傑と言うほかない。
当然、ポチョムキンとの間にも極秘裏に儲けた子供がいたはずだ。
だが、ポチョムキンは自分の実子ではなく、あえてこのアナスタシアを「ロシア復興の旗印」として選んだ。
うがった見方をすれば、彼女は本命を護るための「つなぎの捨て石」として擁立された可能性が極めて高い。
アナスタシアの人を安易に信じようとしない冷たい瞳は、そんな歪んだ環境で育ってきたことに起因しているのかもしれない。
「姫様、馬と食料、金も手に入った。次の街で宿に泊まろう」
そう告げると、アナスタシアは素直に小さく頷き、用意された馬へと跨がった。
この複雑な背景を背負った、思春期の姫様とどう付き合っていくかも、大きな課題であると思い知らされる。
(えっちゃんと同じくらいの年だよな……?)
心の中でそう呟くと、急に胸を締め付けるような寂しさが押し寄せてきた。
あの瞬間の光景が鮮明に蘇る。
隣には頼もしい表情のエツコが控えており、サワダはアキコへのプロポーズの言葉を口にした。
アキコはそれに、何と答えてくれただろうか……?
二度とそれを知ることができないのだと思うと、今度は胸が張り裂けそうなほどの悲しみに包まれた。
馬に跨がると、ウラルの広大な大地は、燃えるような紅蓮の夕焼けに深く染まっていた。




