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第007話 瘴気

【ワラキア 鉱山】

ヤンの故郷での平穏な生活は、あっけなく終わった。

今はワラキアの鉱山で、奴隷の身分に落ちている。

故郷の村の新しい領主であったバルトシュ様は、既にこの世にいない。


【ポーランド ヤンの故郷】

「ヤン、君は僕に『様』をつけるべきじゃないな」

温厚なバルトシュにしては、強い口調であった。

「え、あ……あの、では何とお呼びすれば」

「普通にバルトシュと呼べばいいんだよ」

「あの、なぜです」

「人間はみんな、ただの人間だからさ」

そう言って、彼は笑った。

人の心のうちには神の光が宿っている。

誰しもがそれと直接つながっているのだと、バルトシュは教えてくれた。

王や聖職者の権威などには何の意味もない。

皆が直接、神とつながっている。

それこそが、この世界の真理であると……。

バルトシュの妻は神のもと、全ての人は平等であると考えるクエーカー教徒であった。


平和で安らかな日々が続いた。

日が昇れば畑で働き、日暮れと共に帰る。


「ヤン、これを見ろ!」

バルトシュはいかにも楽しくて仕方がないといった様子で、大きな木箱を抱えてやってきた。

中には大量のひよこが入っていた。

「かわいいだろ。これをどんどん増やすんだ」

その時からヤンは、昼も夜もひよこのことが気になって仕方がなくなった。

「バルトシュ、やりましたよ! 村人全員に十分な数の鶏が行き渡りました」

「よくやった、ヤン。どうだ、工夫することは楽しいだろう?」

バルトシュはいたずらっぽくウィンクしてみせた。


その夜、バルトシュの館でワインを飲んだ。

彼の美しい妻が、優しく酒を注いでくれた。

ヤンはそれを信じられない思いで見つめる

ほんの半年前までは家畜以下の生活で、泥水をすすって生きてきたのだ。

バルトシュが導入した農業技術と養鶏技術によって、村人の食生活は劇的に改善した。

時には領主の館で皆で酒を酌み交わすことすらあった。

ヤンの心は、生まれてから一度も感じたことのない安心感で満たされていた。

理想とは、これほど簡単に実現するものなのだと信じることができた。


だがすぐに、ヤンはバルトシュの理想がいかに無謀な挑戦であったかを思い知らされる。

ポーランドの小領主としてのバルトシュの地位は、ある程度は確立されたものだったのかもしれない。

しかし、この世にはそれを上回る強欲で巨大な暴力が存在するのだ。


ある日、ロシアの兵たちがこの豊かな村になだれ込んできた。

彼らは徴税と称し、容赦のない略奪を開始した。

激怒したバルトシュが、ロシア兵の前に立ちはだかる。

「お前たちにそんな権利はない! ここはロシアではないぞ。即刻出ていけ!」

「黙れ! 俺たちはエカチェリーナ陛下直属の近衛兵だ。陛下のご意向のもと、食料の供給はお前たちの義務だ。ついでに女も用意しろ」

ロシア兵の隊長と思しき男が、野卑な笑いを浮かべた。

「お前たちのやっていることは掠奪だ! ロシア皇帝がそれを——」

次の瞬間、バルトシュは銃床で激しく殴りつけられ、その場に崩れ落ちた。

血が飛び散る。

ヤンは思わずバルトシュへ駆け寄り、その身体をかばうように覆いかぶさった。

憎悪のこもった目でロシア兵を睨みつける。

「なんだ、お前は……」

ロシア兵はヤンをも銃床で殴りつけた。

激痛にヤンがうめき声を上げる。

「その生意気な目は何だと言っているんだ、貴様!……何様のつもりだ!」

再び激しい打擲を受ける。視界が急速に暗転していった。


その時……。

「あなた!」

叫び声と共に、バルトシュの妻が館から飛び出してきた。

(奥様、来ちゃなんねえ!)

ヤンは心の中で悲鳴を上げた。

この世界には、絶対に壊してはならない尊いものがある。

ヤンにとって、この夫婦こそがそれだった。

バルトシュの妻を見たロシア兵たちが色めき立つ。

歪んだ笑いを浮かべ、獲物へ襲いかかろうとした。


……バーン!

よろよろと立ち上がったバルトシュの手には、短銃が握られていた。

一人のロシア兵が目を剥き、その場に倒れ伏す。

「野郎!」

怒号が響いた。

バルトシュに向けられた小銃の銃身に、ヤンはがむしゃらにむしゃぶりついた。


その後のことは、覚えていない。

気がついた時には、ヤンは村人たちと共に首枷と手枷をはめられ、並ばされていた。

その姿を、かつてヤンの姉を冒涜したあの元領主一族の男が、ヘラヘラと笑いながら眺めていた。

恐る恐る後ろを振り返る。

……そこには、目の光を失ったバルトシュと、その妻の遺体が転がっていた。

絶望と共に、「エカチェリーナ」という名前だけが、深い憎悪として魂に刻みつけられた。


【鉱山最深部】

そして今、ヤンはワラキアの鉱山の底に見捨てられ、転がっていた。

まだ二十歳にも満たないその身体は老人のように病みやつれ、金色だった髪は埃と煤に塗れて灰色に変色していた。

動けなくなったヤンは、鉱山の監督官にとっては既に死体同然の扱いであった。

仕事の邪魔にならない場所へ放置しておけばそれでいい。


光のない鉱山の底で、息のある屍を晒す。

仮に光があったとしても、今のヤンの目には何者も映らなかったろう。

もう、何も感じなくなっていた。

奇妙なことに、事故で失ったはずの右腕だけが、なぜか激しく疼いた。

「きひひひひ…………」

声とも言えないようなしゃがれた笑い声が聞こえてきた。

それは、ヤン自身の喉から漏れ出たものであった。

ヤンは笑っていた。


微かに風が吹いたような気がした。

目の前で、何かが蠢いたような気がした。

いや……確かに「それ」は目の前にいた。

そして、低いしゃがれた声で呟いた。

『奪われたものは……取り返せばいい。お前には……その力がある』

(なんのことだ……?)

そう返そうとしたが、声にはならなかった。

『憎いか……』

「あ…………」

(ああ、憎い)

『では、血を受け継ぐがいい……』

首筋に何かが刺さるのを感じた。

次の瞬間、恐ろしいほどの快感が刺し傷から全身へと伝破する。

気がつくと、失ったはずの右腕の痛みが消えていた。

いや……右腕がそこにあった。身体が再生している。

(大いなる義務)

濃厚な瘴気と共に、そのような概念が頭の中を黒く染め上げていく。

「ぎひひ……」

今度ははっきりと声に出して笑った。

奇妙な高揚感と共に、ヤンは悟った。

この世界は……壊れなければならない。

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